Share a quarter -貴方のための唄- 上
第11話 Share a quarter -貴方のための唄-.1
パシッ。
振り払われた自分の右手が、間抜けにも虚空で静止しているのを私は他人事みたいに横目で見つめていた。
そうして数秒、私は、目の前で可愛い顔を歪めて(それでも可愛いことには変わりはないが)こちらを睨む叔母であり、そして自分の大事な人――御剣和歌から放たれた言葉にぎゅっと心臓を掴まれていた。
「あのね、
一葉、というのは当て字だが、私の名前である。若くしてシングルマザーとなった私の母、御剣和葉がその生まれながらにしてある種の孤独を運命づけられた私に与えられたものだ。
たった一枚の葉となっても、最後まで諦めない人間に育ってほしいと祈り、与えられた、人生最初のプレゼント。実際、孤独にはなかなか耐性のある人間に育った自負があったが、目の前の和歌や、お節介な友人たちのおかげで、それも弱まりつつあった。
「今のはダメだよ」
じろり、と和歌が私を睨む。普段は過剰なほどに寛容な彼女のことを鑑みれば、まぁ、異常事態であった。
「わ、和歌さん?あの、今のは…」
私は和歌を前にしどろもどろになる。
普段、高飛車とも言えるほどに気が強く、物怖じしない話し方の目立つ私がこんなふうに情けのないトーンで声を発したのはほかでもない。目の前にいる愛しく大事な人が、明らかに本気で怒っていることが分かっていたからだ。
「今のは?」と和歌が追い詰めるように繰り返してくる。
逃げるべきか、受け入れるべきか。
冷静になって考えてみれば簡単なことなのに、その瞬間、私は情けないことに前者へと傾いてしまった。
「ほ、本気で触るつもりじゃなかったというか…不可抗力、というか…」
「は?」
和歌の顔が引きつる。
やばい。いよいよ爆発寸前だ。いや、和歌の堪忍袋の緒が切れたところなんて見たことないのだけれど、それでもなんとなく、やばいことは確信できた。
「いや、だから、わ、和歌さんなら、許してくれるかなって思って」
相手の殺気を感じ取った野生動物と同じ理屈で、私は身を守るべくさらに言葉を重ねてしまう。しかし…あぁ、本当に余計な言葉しか出て来ない。
案の定、和歌は怒りを強くしたのだが、そのときの彼女の様子といったら、噴火とはまるで真逆で、足裏のたこに当てるドライアイスみたいにピリピリしていて、冷ややか極まりなかったのである。
「ふぅーん…」
和歌はすっかり冷たくなった眼差しでそう相槌を打つと、何も言わないまま私の部屋の床に置いていた自分の荷物をバッグに片づけて、そのまま立ち上がってこちらに背を向けた。
「わ、和歌さん?」和歌は私の声掛けを無視して、キッチンへと続く扉に手をかけた。「あの、その、和歌さん、待って」
首にかけていたヘッドフォンを机の上に置きながら私も立ち上がり、繰り返し彼女の名前を呼ぶ。そうすれば、和歌は酷く緩慢な動きで振り返ってくれたのだが、その瞳には先程以上の冷たい炎が青く揺れていた。
「一葉ちゃん。私、もう帰るから」
「あ…」
すうっと、和歌の瞳が細められる。明らかにこちらを責めている様子だった。
「……親しき仲にも礼儀あり、だよ。ちゃんと反省するように」
「ちょ、まっ…」
無情にも扉の向こうへと消えていく和歌の背中。数秒すれば、廊下へと続く扉が開閉する音がして、最後に、分厚い玄関扉が開いて、閉まる音が聞こえた。
「うぅ、あー…!」
私は内巻きにしたボブヘアをぐしゃぐしゃに両手でかき回しながら、悶絶の声を上げてしゃがみ込む。
今、私に呆れと怒りの眼光を閃かせたのは、御剣和歌。私の叔母であり、ある種、親代わりとも言えるくらいに幼少期の私を世話してくれた人であり、そして…――私の恋人である。
私と和歌の間には性別の壁があり、さらに、血のつながりというとても重厚な壁が常に立ちはだかっているのだが、今日、私が和歌の怒りを買うきっかけになったのはそれらとは全く無縁の事情のせいだった。
ありていに言えば、私の抑えの利かない情動のせい。いや、もっと正直に表現するなら、私が和歌に抱いている、どうしようもならないくらいの愛情と劣情のせいなのだ。
およそ、十分前のことだ。
「…わ、和歌さん」
心臓を高鳴らせつつ椅子から降りて、床に座った和歌の前に正座する。小説か何かを読んでいたらしい彼女は、「なぁに?」と可愛い声と一緒に顔を上げる。
和歌は、いくら私の母である和葉と年が離れた妹だったとはいえ、当たり前だが私よりもだいぶ年上で、6、7歳くらいは離れている。
年齢の壁は無常だ、と私はよく考える。
どれだけ背中を追いかけても、決して追いつくことも、触れることもできない。
勝手に先に生まれるなよ、と唇を尖らせることも少なくはなかった。特に、私がようやく高校生になった頃に、和歌のほうは働き始めるなんてことになったときは。
とどのつまり、何が言いたいかというと…私は常に、焦燥に背中を突き動かされていたということだ。
子どもであることは十分な自覚があったが、奇跡みたいにして手に入れた和歌の特別枠を誰にも譲りたくない気持ちが強かった。
よく分からないが、きっと、若気の至りとかいうものの影響もあったのだろう。そうでなければ、こんな無謀なことを何のきっかけもないその状況で口にしたりはしなかったはずだ。
「あのさ…その…」
拍動する心臓。乾く口。
やっぱり、やめようかな。
そんな弱音が脳裏をよぎったとき、こてん、と和歌が小首を傾げる。
「どうしたの?珍しいね、一葉ちゃんが言い淀むなんて」
きらきらした瞳が、童顔も相まってとても可愛らしく見える。
その庇護欲を、独占欲をそそるキュートさを見せつけられた私の口に下ろせるシャッターなんてどこにもなかった。
「さ、触ってもいい?」
数秒間、隙間風が吹いたような沈黙が流れる。
その間も、和歌は目を白黒させ、自分が何を言われたのかを一生懸命考えているようだったのだが、その様子がまた可愛くて、私は前言を撤回しようなどとは思いもしなかった。
やがて、和歌が苦笑しながらこう答えた。
「えーっとぉ…何をかな?」
分かっていながら、関係性の発展を恐れて分かっていないフリをしているのか。それとも、本気で分かっていないのか?
…いや、分からないはずがない。17歳になる私が分かるのだ。22、23歳の大人の女性である和歌にこの焦げ付くような感情が分からないなんて言わせない。
つまり、これは敵前逃亡。和歌がよくやるやつだ。
ちょっとムッとした気持ちにさせられた私は、ずいっと和歌ににじり寄って、彼女よりも10センチ以上大きな体を折り曲げるようにして下から覗き込む。
「それはもちろん、和歌さんを、だよ」
「わ、私?」
「うん」
和歌はぽかんとした後、今度は引きつったような苦笑いを浮かべる。
「その、手、つなぎたいってことかな?」
それならいいよ、とでも続けるつもりだろう和歌の眼前に、私はノーを突き付ける。
「違うよ。和歌さんと手をつなぐのも好きだけど、その先も、私はしたいの」
顔を真っ赤にした和歌の反応を待たずして、私はぐっとさらに距離を縮める。
すでに私と和歌の間は、膝一つ分すら存在しない。
それなのに触れてはいけないなんて、妙な話じゃないか。
愛している。私は和歌を。
この世にあふれているたくさんの物語が、歌が、証明している。気持ちの強さがすべてを解決するってことを。
だったら――…。
「いいよね、和歌さん」
すうっ、と和歌に右手を伸ばす。
和歌だって、喜んでくれると私は思ってた。
だけど、和歌は私の期待とは裏腹にブロックするみたいに両の手のひらを真っすぐ突き出すと、早口になってこう言った。
「ま、ま、待ってね。それはさすがに時期尚早だと思うの。分かる?時期尚早」
「む…分かるよ、それぐらい」子ども扱いされた気がして、私は不機嫌に顔を歪める。「でも、早くなんてないでしょ。私たち、恋人なんだし」
去年、友だちに勇気を貰って伝えたこの気持ち。それが種になって、ようやく二か月くらい前に実り恋人の座を獲得したのだ。
おかげでここ最近ずっと、私は幸せの中にいた。
手を伸ばしても手に入らないと思っていたものが、この手の中にある。
それは筆舌尽くし難いほどに価値あるものだった。
でもどうやら、私と和歌さんとでは、その価値とか、意味が違ったようで…。
「あのね、一葉ちゃん。恋人なのは確かなんだけど、こういうのを焦っても良いことないよ?ゆっくりやろう?ね?」
「…いいじゃん」
「だーめ。まだ高校生なんだよ?」
私は和歌が口にしたその言葉から、まるで子どもをあやしているような印象を受けた。だから私は彼女の警告めいた発言は、ただ自分自身が逃げたいだけのものなんだと思ってしまった。
(それなら、また私がリードしてあげるしかないじゃん)
しょうがないなぁ、と勝手に頭が思い込む。今思えば、そうすることで自分の行動を正当化しようとしていたのだろう。
私は情動に突き動かされるままに指先を伸ばした。
自分で言うのもなんだが、白魚のように美しい曲線を描く指。それが向かう先は…ずっと触ってみたいと思っていた、和歌の一番柔らかそうな部分。
刹那、指先が触れる――そのときだった。
パシッ。
和歌に、手を払われたのだ。
独り部屋に取り残された私は、古ぼけたワークチェアに腰かけると、大きなため息と共に背もたれになだれかかった。
部屋の四方の壁には、私の好きなロックバンドのポスター。
自己主張の激しいメイクをした彼ら彼女らは、自分の魂を叫び、打ち鳴らすべく、マイクや楽器を手にしている。
忙しいシングルマザーの母、一滴もの愛情を注がなかったどこにいるとも知れない父、ひねくれた性格。それらの環境によって自然と孤独に生きることになった私を救ったものは、何も和歌や友人だけではない。
音楽だ。音楽だって、そうなんだ。
「はぁ…くそっ」
こういうときは、音と音の間にこもるに限る。
ヘッドフォンを装着し、無線でつないだ携帯からアップテンポのロックを流す。
かき鳴らすメロディが、意志を叩きつけるべくして生まれた歌詞が、私の心をその場所から連れ去っていく。
やっぱり、ロックは最高だ。
葛藤も迷いも振り切る強さが、私の世界を満たしていく。篠突く雨の如き音に満たされているうちは、和歌との衝突も忘れさせてくれたのである。
――とはいえ、それは旋律の怒涛に身を浸していられるうちだけの話であって…。
「ちっ」
きちんと眠ることができなかった重々しい頭が、放課後、部活に向かう私の口から大きな舌打ちを漏らさせた。それをすれ違いざまに聞いていたらしい同級生が、少しだけ私から距離を取ったことさえ苛立たしく思ってしまう。
昨日の自分の行動を振り返る。
あぁ、どうしてあんな考え無しの行動を取ってしまったんだ。ダメって言われているのに無理やり触ろうとしたら、それはいくら温厚な和歌でも怒るに決まっている。
嫌われてしまっていないだろうか?それにしても、あのときの和歌の表情が忘れられない。明らかに呆れていたし、怒っていた。あんなふうに冷たく私を見るようなこと、今まで一度もなかったんじゃないか?
私は誇張無しに和歌無しでは生きていけない。働き始めた今でも週末は、忙しい母に代わって私の面倒を見てくれる。いや、もちろん身の回りのことぐらい一人でできるのだが…そういう問題だけじゃない。
とにかく、和歌がいないと喉が渇くのだ。
ただ、最近は彼女がそばにいても違う渇きに苛まれてしまって…。
ぐるぐると、滑車を回すハムスターみたいに同じ思考を繰り返しているうちに、部室の目の前に到着した。
こういう日は、さっさとギターを鳴らして、声を張り上げよう。中から声が聞こえてくることからも、すでにメンバーの
自然と誰かを頼りにすることができている自分の成長にも気づかないままに私は、部室の扉に手をかけようとした。だが、内側から漏れ聞こえてきた声にぴたりと指を止める。
「…えー、ダメだって奏。一葉きちゃう」
「大丈夫、大丈夫。一葉って足音大きいから、気づくよぉ、たぶん」
「…本当?」
「うん。本当、本当」
「……じゃあ…」
開いた口が塞がらない事態に、私はしばし硬直してその場に棒立ちしてしまっていたのだが、廊下の向こうからやって来る他の生徒の姿や、中から続けて聞こえてくる楽しそうな二人の小さな笑い声に、ぎゅっと拳を握る。
(じゃあ、じゃねぇよっ…!)
いつ私が来てもおかしくないような場所にも関わらず、イチャイチャしようとする奏が諸悪の根源だが、霞も霞でまんざらでもない様子だ。それが奏を調子づかせることが分かっていないわけでもあるまいに。
こんな状況で、なんで私が遠慮すんだ、と苛立ちを眉間に刻んだ私は、あえてハッキリ分るように大きな咳払いをした後、ウサギがするタッピングみたいに足音を一つ立てて、扉を開けた。
弾かれたように奏の膝から離れる霞。その赤らんだ頬を見る必要もなく、彼女らが恋人らしく睦まじい時間を過ごしていたことは明らかだ。
(別にそれ自体はいいけどさ…)
私はじろりと二人を睨みつけながら、「…おはようございます」とあえて他人行儀に挨拶する。そうすれば、霞は酷く狼狽した感じで返事をした。一方の奏は、間の抜けた口調で返事を返しつつ、ひらひらと手のひらを振ってみせる有様だった。全くもって可愛げがない。
私は机の上に自分の鞄を置くと、早速、ギターを取り出し、組んだ膝に寝かせて演奏をする準備を始める。
奏は飄々とした態度を崩さない一方、霞のほうは、私から何の追及もないことで明らかに安心したふうに自分のキーボードへと向かっていった。私はそんな彼女らを横目にしながらチューナーで音を確認しつつ標的を定める。
奏はダメだ。私が何を言おうと二枚舌で巧みにかわし、反撃してくる。こういうことで攻めるべきポイントは…。
「霞」
びくっ、と霞の肩が跳ねたのを視界の隅で確認する。
「え、え?な、なに?」
同い年のくせにグラマラスな奏と違い、霞はだいぶ小柄だ。いや、平均的なのかもしれない。なにぶん、私と奏の身長が高いから、感覚が麻痺してしまう。
「ちゃんと奏の手綱引っ張っておいてよ。扉を開けたら目も当てられないことを二人がやってる――なんて、私、嫌だから。マジで」
「あ、うっ…!」
口をパクパクさせて顔を真っ赤にする霞。庇護欲をそそる小動物、というか少女然とした態度は私も見ていて可愛らしいとは思う。…が、学校でくらい我慢しろよ、とも奏に対して思った。
「わ、私じゃなくて、奏が…」
「なんでも奏のせいにしてどーすんの。あいつが頭おかしいのは元からなんだから、霞がしっかりしてよね」
「うぅ…」
不思議なことに、霞がモジモジとして呟いているのを見ると、今度は加虐心に駆られる。これは確かに奏のようなお調子者でなくとも霞を困らせたくなるのも頷けるだろう。
しかしながら、もちろんそれは奏が許さない。
「まあまあ、そのへんにしておいてあげてよ、一葉ぁ」
妙に間延びした口調の奏が霞と私の間にやって来る。どうでもいいが、モデルみたいな歩き方が似合うのがどこか腹が立つ。
「ほら、弾こう?新曲」
くいっ、といつの間にか肩から下げていたベースを掲げてみせた奏は、話の矛先を音楽へと向ける。
普段であれば、私もこれだけで音の流れに飛び込もうと気持ちを切り替えることができただろう。だが、今日は違った。
「あんたがところ構わず霞にセクハラしようとするから、私が文句言ってやってんでしょうが。ほんと…たまには反省しなよ」
じろりと奏を睨みつけながらも、私の頭は違うことを考える。
セクハラ、反省…。
昨日ことが脳裏をよぎる。
和歌の胸に触れかけた指先。それを払われたこと。
…セクハラの誹りを受けるのも、反省するべきなのも、私だ。でも、そんなことを奏に知られるわけにはいかないし、今は鬱憤を晴らしたいという気持ちもあった。
だが、奏は本当に異様なまでに勘の鋭いやつで…。
「なに」
私は、こちらの顔を穴が空くくらいジーっと見つめてくる奏に言った。
奏はしばらく黙って私の顔を観察していたかと思うと、憎たらしい微笑みを浮かべた後、霞の耳元でわざと私に聞こえるような声でこう告げる。
「気にしないでいいよ、霞。あれは絶対、和歌さんと喧嘩してる。一葉ちゃんの八つ当たり」
「え」
私と霞の声が重なる。
(ど、どうして分かったの…!?こ、こいつ、エスパーか何か!?)
私の顔色から図星であることを察したのだろう。霞は急に憐れむような顔でこちらを見たかと思うと、「その、大丈夫?」なんて気遣いをしてきた。
「くっ…!別に、何ともないしっ!」
私はやけっぱちになってチューニングを終えたギターを振りかざす。
勘が鋭すぎるうえに人をおちょくってくる奏も、人がよすぎる霞も、こういうときは大っ嫌いだ。
「ほらっ、弾くよ!ごちゃごちゃ言ってないで準備してよ――おいっ、笑うな、奏!」
ただ…こいつらと一緒にメロディをかき鳴らして、叫んでいる時間は…大好きだった。
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