俺は信州信濃の蕎麦がいいんだよ馬鹿野郎

白川津 中々

◾️

俺の一日はもう終わってしまった。


蕎麦が食べたい。そんな慎ましやかな欲望を満たすべく蕎麦屋へ入った。そこは近所の蕎麦屋で、一度暖簾をくぐろうと思いながら年月が過ぎ、ようやく気持ちが向かったため今日足を踏み入れたのだが、扉の向こうに入った瞬間に排水の臭いが鼻腔をくすぐった。それだけではない。日の当たらない店内は薄暗く、活気の痕跡もないような暗澹たる瘴気が流れている。繁盛からは、あまりに掛け離れた様子だった。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


地獄の入り口で立ち尽くしていると店の人間と思しき老婆に着座を促され、仕方なしに近くの卓に腰をおろす。清掃は行き届いているようだが場末のラーメン屋を彷彿とさせる食卓周りで、どうにも落ち着かない。


「どうぞ」


老眼が茶を出してくれたが、これも酷いもののように感じた。毛茸が浮いているから悪くはないのだろうが、やはり臭いが気になり不浄に思えてしまう。「もりで」と注文を頼んでから一口啜っても味は分からず、それ以上は控えた。


茶を飲むでもなく、店に面白みを見出すわけでもなく、頼んだ蕎麦が届くまでを持て余す。その間にもやはり臭いが気になり、自分が毒されていくようだった。飯を出す店でこういった心理に至る経験はこれまでにない。埋めたくなかった人生のページが記される。


「お待たせしました」


そして待ちに待った蕎麦が出された。蕎麦を待っていたのではない。蕎麦を食わなければ帰る事ができないから待っていたのだ。しかし、この蕎麦もケチをつけたくなる。更科だろうが、あまりに白く、また艶がない。蕎麦つゆも燻んだ薄色で馴染みのない出汁の取り方だった。割り箸を取り、恐る恐る手繰ると、甘いえぐみと小麦の味。そして蕎麦の香りが雑然散体となって暴れ回り胃に落ちていく。飾らぬ言葉で表すならば、不味い。これを平らげねばならないのかと暗い気持ちになりながら音を立てて消費していく。幸いにして量は少なく、苦しみは少しですんだのだが、排水の臭いもあいまって下水で茹でた素麺を掬っているようだった。また、期待はしていなかったがやはり蕎麦湯も残念であった。そもそもつゆが不味いのだ。それで蕎麦湯が美味くなるわけがない。結局我慢できなくなり、残して会計した。蕎麦湯を全て飲まなかったのは初めてだった。


金を払って店を出ると、無性に腹立たしく、やるせなくなった。休日の昼が台無し。これだけでもう、一日が灰色となる。心晴れぬままに帰宅し、ヤケクソ気味にカップラーメンにお湯を入れて貪って寝た。休日はもう終わり。今後蕎麦屋へは、保証のある店にしか行かない。

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