第2話 西暦1543年。竹千代、一歳。
歩かぬ。話さぬ。だが、目は開き、物の気配を読むようになった。
この年、海を越えた異国の者が種子島に現れ、鉄の筒を売った。
「火を入れると、棒の先から雷が飛ぶらしい」
と、屋敷の裏で炊事をしていた女が噂していた。
「そんな馬鹿なことがあるかいな」
と笑い飛ばしていた者もいたが、わしにはそれが笑い事ではなかった。
鉄の筒に火薬を仕込むなど、異国の兵法にしては実に野蛮で、しかも理にかなっておる。
「火縄銃か……」
三河の田舎者どもは知らぬが、わしら影の一族はすでに知っていた。情報は、伊勢から先に届いた。
影の頭領が直々に集めた文に、その異人どもが着いた船の形、言葉の響き、肌の色までも記されていた。
「この鉄筒、いずれ我らにも火の粉が飛んでこようぞ」
と、頭領は言った。
「竹千代様の世が来る前に、火薬の戦が始まるやもしれぬ。注意せよ」
命はひとつ。鉄であれ、刃であれ、毒であれ、失えば終わり。影の理に変わりはない。
だが、相手の手が変わるのなら、それに合わせるは道理。
わしはこの年、初めて自ら火薬を手に入れ、調べた。
「悪くない匂いだ。火薬にしては、臭みが少ない」
伊勢商人の荷の中に紛れ込んでいた粉袋。
一袋は、たった半刻の煙にしかならぬ量だが、いざとなれば命一つ守れるやもしれぬ。
竹千代様は、まだ母の懐の中。
乳を飲み、泣き、眠るだけの日々。されど、その周囲はひたすらに騒がしい。
岡崎城の中でも、松平家の家中では、広忠様の病がまた悪化したとの話が出ていた。
「持つかのう、今年は……」
と、医師がこぼしていた声を、わしは夜の柱の陰で聞いていた。
だが、その医師の背中に、黒い影がまとわりついていた。
「お主、どこの者だ?」
問いはしなかった。影は問わぬ。影は斬る。
わしは静かに床を這い、医師が便所に立ったその瞬間、背後から気配を潰して喉を裂いた。
首から血を噴いた医師は、信じられぬ顔で振り返った。
「く……ぬし……」
言葉になる前に絶命。口元に付いた赤が、灯に照らされてゆらいだ。
遺体は井戸へ。骨と肉を喰う獣の仕掛けが、夜のうちにそれを始末した。
翌朝、城の医師が消えたと騒ぎが起きたが、家中はそれどころではなかった。
尾張より使者が来た。
織田信秀の者である。
「今川の元にいれば、松平の名も地に落ちましょうぞ。我らと結べば、尾張三河の道は一つになる」
そんな話が、広忠様の耳に届いていた。だが、返答はなかった。
それを決める前に、広忠様はまた病に倒れ、床に臥した。
竹千代様は、昼の間は母の腕に抱かれ、夜は侍女の寝所で眠る。
わしは、どこにも姿を見せぬ。だが、いつも傍にいた。
扉の上、柱の裏、屋根裏、床下。
赤子の竹千代様にとって、わしの存在は無でよい。影は、光の下にあってはならぬ。
だが、その命に一歩でも近づく者があれば、影は牙を剥く。
それが、この年、三度あった。
一つ目は、織田の間者が侍女に化けて寝所に入り込もうとした件。
女は美しかった。言葉遣いも綺麗。だが、指が武の者だった。親指の付け根に小さな瘤。これは弓の跡。
「侍女にしては、変わっておるのう」
わしは屋根裏から女を見つめ、夜半、竹千代様の寝所に忍んだ女の袖を取って、そのまま天井裏に引き上げた。
女は声も出せぬまま、梁の上で喉を裂かれた。
遺体は、朝には寺の裏山に埋まっていた。
二つ目は、薬師の男。
薬の調合を誤ったと見せかけて、竹千代様の飲む乳に入れる粉をすり替えた。
だが、その粉袋をわしは事前にすり替えておいた。
乳母が調合を始めた瞬間、部屋の空気が変わった。
「これ、粉の香が違うぞ……」
と、年老いた侍女が言ったのをきっかけに、男は逃げた。
逃げた先に、わしがいた。
影は待たぬ。影は斬る。
この男もまた、夜の風の中に消えた。
三つ目は、もっと厄介だった。
乳母自身が、金に転んだ。
「京より来た商人が、金子三枚でこの子を尾張に差し出せば、一生食いはぐれぬと……」
夜、女が独りごちた声を、わしは聞いていた。
竹千代様を眠らせた後、女は一人、裏手の川辺へと向かった。
そこに待っていた男は、いかにも田舎侍の風体だったが、腰の刀は光っていた。
「で、いつ渡せるんじゃ」
「明日の夜、守りも緩うなる刻がある」
女の声を遮るように、男が背を伸ばしたその瞬間、男の首に縄が巻きついた。
木の上から落とした重りが、男の身体を真横に引いた。
頸骨が外れる音がした。
そのまま、女の背後に立ち、首筋に細い刃を当てた。
「ぬし、誰じゃ……っ」
「影だ」
それが女の最後の記憶だ。
そして、女は生きた。
斬らなかった。
竹千代様の命を知る者が、あまりに減れば、かえって不自然になる。
女は京へ送られた。薬種問屋に預け、以後は外へ出されぬ。
尾張へ売るつもりだった女が、逆に都で薬を売るとは――
「影も皮肉なものよ」
と、わしはつぶやいた。
竹千代様は、また一つ成長された。
手を伸ばし、座り、笑うようになった。
「ふぇ……ふぇ、えっへ……」
赤子の笑いに、城中の者が喜んだ。
その影で、わしは笑わぬ。
笑ってはならぬ。
影は感情を持たぬ。持った時点で、命が崩れる。
だが、竹千代様の笑いを聞いて、刀を握る手が緩んだのも事実。
「こやつが、生き延びて、何になるのかのう……」
言葉にしたところで、意味はない。
わしはまた、屋敷の影に戻った。
火薬の匂いが、少しずつ広がってきていた。
海の向こうから風が吹く。
だが、竹千代様は、生きておられる。
それでよい。それだけでよい。
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