徳川を支えし影の一族〜家康の誕生から大政奉還まで〜

☆ほしい

第1話 西暦1542年。竹千代、零歳。

その日、岡崎の空は澄んでいた。


雲ひとつない朝、松平家の屋敷に産声が響いたと同時に、わしは命を受けた。


「この子に、影をつけよ」


それが、影之丞としての最初の命令だった。


わしには名がない。いや、生まれた時から名乗ることを許されなかった。影とは、そういうものだ。


その朝、屋敷の裏手、古びた井戸の傍らで、初代頭領から受けた言葉を忘れたことはない。


「おぬしの影、生きている間ずっと、あの赤子に差し出せ」


「はっ」


わしは短く答えた。礼をして、背を伸ばした。


初めての「将軍の種」だった。


わしが生きる間に、この子が天下を取るなどと知るはずもない。ただ、命がある限り、この小さな命を遠くから見守り、敵がいれば斬り、毒があれば断ち、闇があれば照らさぬように隠す。それが影の務め。


屋敷の板塀をよじ登り、奥を覗いた。


産室の中には、乳母と侍女が忙しく動き、赤子の泣き声が響く。


「竹千代様じゃ。男子じゃ」


わしの心が波打ったのは、風のせいだろう。


生まれたばかりの主。されどその命は、戦の渦中にある。


三河の松平家は、今、今川と織田の間にある木の葉のような存在。主家の今川義元の命も、信頼も、風次第。


竹千代がこの地に生を受けたことで、何かが変わる。それを最初に察したのは、案外、影だったかもしれん。


夜更けに動いた。


主の産声が聞こえた日から、わしの任務が始まった。


誰にも気づかれぬよう、屋敷に入り、乳母の顔を確認し、番医の毒見を裏から監視し、門番の交代の時間を記録する。


わしの顔は、誰の記憶にも残らぬように作られている。影の技術の中でも、それが一番難しい。目立たぬこと、覚えられぬこと、それがわしらの命。


「このまま、無事に育てばええがのう」


そうつぶやいたのは、屋敷の台所で芋を洗っていた老女だった。わしはその声を聞きながら、軒下から足音を消して抜けた。


この地には、既に不穏の影があった。


松平広忠――竹千代の父は、まだ若い。そして病がち。しかも、領内には裏切り者も多い。


三河の中でも、岡崎城の内と外では空気が違う。中には松平家を裏切って今川に媚びる者もいれば、外では織田の風を読む者もいた。


そのすべてに、竹千代の命が挟まれていた。


「影之丞、何か兆しはあるか」


と、ある夜、裏の山中で声をかけられた。影の次席、名を持たぬ男。


「火薬の匂いが、濃くなっておる。織田が動く」


「主はどうする」


「生き延びるのみ」


わしは答えた。


竹千代に未来があるかどうか、それは知らぬ。ただ、死なせてはならぬ。それだけが、わしに課せられた任務。


ある晩、竹千代が高熱を出した。


屋敷中が騒がしくなり、薬が足りぬと侍女たちが町へ走った。


その混乱の中、わしは潜り込んだ。


竹千代の寝所に、じっと見つめる目があった。


「貴様、誰だ」


わしの問いに、答えはなかった。だが、返ってきたのは短刀の一閃。


影の技は、見せぬ技。


わしは指を一つ鳴らし、袖口から鉄の糸を走らせた。男の喉元に絡め、一息で沈めた。


音もなく、始まりもなく、終わりもない。


それが、影の戦。


床に倒れた男の懐から、細い巻物が出てきた。


「成敗せよ。松平の種、男子なれば、織田の未来を潰す」


署名はなかったが、文の裏に使われた墨の質、紙の繊維、におい――すべてが尾張のもの。


竹千代は、生まれた日から命を狙われていた。


「ならば、守るまでよ」


赤子は、苦しげに寝息を立てていた。


わしはその頬に触れることなく、ただじっと見つめた。


人間の子として生まれ、人間の世に生きる。


だがその命が、やがて幾千もの命を背負うなど、この時まだ誰も知らぬ。


わしは静かに立ち上がり、血の跡をぬぐい、障子を戻し、屋敷の外へ消えた。


それから七日後、松平広忠がわずかに回復したと聞いた。


「主の体が持つうちに、後継を確実にせねば」


それが広忠の決断だった。


三河を守るため、松平の名を絶やさぬため――


だが、その裏で、わしはすでに別の動きを掴んでいた。


岡崎に入り込んだ織田の間者が、さらに三人。


そのうちの一人は、乳母の従妹に化けていた。


わしは夜明け前、その女を追った。屋敷の井戸端にて、乳を捨てるふりをして、何かを撒いていた。


「毒か」


違った。紙切れだった。細く、まるめて、紐でくくった。


女はそれを井戸に投げ込んだ。


翌朝には、それを汲む者が、誰かしら口に含む。


「なるほど、回し毒か」


わしは女の後をつけ、野道で止め、静かに喉を裂いた。


声も出せぬよう、咽に指を入れ、舌を掴んで引いた。


始末に十息。


竹千代は、生きている。


それがすべてだ。


まだ歩けぬ、話せぬ、見も定かでない主。


その小さな命に、すでに十以上の命が向けられていた。


だが、わしがいる。


わしが、影として傍にいる限り――

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