享楽に生きる狸侍、異世界乱世を駆ける
奇楽いく
序章
第1話 狸侍、吠ゆ
「ひるむなぁ! かかれぇっ!」
「毒が効いてる! 弱っているぞぉ!」
「やらせるなァ! クロウ殿を援護しろぉおっ!」
怒号と悲鳴が入り混じる。男たちの必死の声が荒野に響き渡った。
グラウ平原の北。
“ミラージュ迷宮”と呼ばれるダンジョンが出現して、すでに四か月。
荒涼とした赤茶けたこの大地は、レグナス帝国とアストナ王国・ケルン公国の連合軍による苛烈な戦いの舞台と化していた。
ダンジョン——星脈の力によって地に穿たれた魔窟。魔獣や希少鉱石など、強大な力を秘めた資源の宝庫である。帝国も連合も、この地の利権を手放すわけにはいかなかった。特にこのミラージュ迷宮は小規模ながらも、星脈から生まれる《エナ粒子》 の濃度が異常に高いと報告されていた。
——だからこそ、両陣営は 苛烈な消耗戦を繰り返している。
激しく金属が重くぶつかり合う音。それに続くのは猛獣の咆哮のような雄たけびだった。
「ザリャぁああ!!」
鎖帷子と甲冑をまとった アストナ王国の重装歩兵が、一閃のもとに真っ二つにされていく。血煙が舞い、次々と連合軍の兵士たちが倒れていった。
咆哮の主「クロウ」こと
「カカカッ!楽しませてくれた礼じゃ!“とっておき”を見て
一瞬の静寂が戦場を包み込む。
九朗の周囲の地面が震え始め、体から渦巻くように立ち上る土色の
「な、何だ…あれは!?」
アストナ軍の兵士が震える声を上げた。
二階屋を優に超すほどの巨体を持つ大狸が、褐色の毛並みを逆立てていた。荒く編まれた巨大な笠と戦塵に染まった深緑地に桔梗麻の葉柄の羽織だけを身に着けたその姿は、怪異そのものだった。
「《
巨大狸は前足を高く掲げ、大地を激しく叩きつけた。轟音と共に地面が波打ち、アストナ兵の足元が崩れ始める。同時に、淡い土色の霧が戦場全体に広がっていく。
「「「うわぁあああ」」」
混乱の中、連合軍の陣形が完全に崩れ去った。
「敵の陣形を崩したぞ!お主ら進めい!」
九朗は後方の味方に向かって豪快に吠えるように号令を出した。
「く、クロウ殿ぉ!砂煙が激しく、我々も進めませんっ!」
下の方から大きな声で苦情が飛ぶ。砂煙は味方にも影響していた。
「軟弱者め!好機じゃぞ!わしを信じて進まんか!」
九朗は尻尾を一振りして激を飛ばすと、自らも前足で地面を蹴った。
大きな煙を巻いて再び人型となり、敵陣に真っ先に突っ込んでいく。
全身血塗れのまま、 戦場の中央で暴れるその男の姿は、まるで異邦の戦神のようだった。
異国の礼装と軍装を思わせる独特な戦装束。
藁で編まれた粗末な笠から覗くのは、艶を失った黒髪と、目の下に浮かぶ濃い隈 。
両手に構えた反りのある片刃剣は、太く長く、まるで古の巨獣をも断ち伏せるかのような質量を持っていた。
肩に掛けただけのマントのような羽織が、血と火に染まった戦場の中でただひときわ鮮烈に舞う。
その姿は、ただそこに立っているだけで戦場の空気を制圧していた。
「隊長!奴が連日暴れているレグナス帝国が召喚した“
アストナ軍情報将校が焦る声を上げた。
「なんて奴だ…。我らの、
アストナ王国第三部隊長ブラントはすでに冷や汗を流し、後退の構えを見せていた。
つい先日、前任の隊長が九朗に討たれ、急きょ任を引き継いだばかりの彼にとって、これはあまりにも苛烈な光景だった。
「こっ公国の禍徒を呼びましょう!すぐに救援要請を!」
「ダメだ」
ブラントは首を横に振った。
「魔術師セルマトは特設部隊全員分の武器を強化できるほどの
撤退の号令が下り、連合軍は整然と後退を始めた。
しかし、その背後から追いかけてくる声は驚くほど朗らかだった。
「おい!今日はもう撤退か?だがいいぞ!非常に手ごわい兵士たちであった!果報者だな、アストナ王国の隊長殿!」
小さくなっていく曇りのない九朗の言葉に、ブラントの拳は震えた。
「化け物め…!!」
アストナ王国の特設兵団を殲滅した戦場では、レグナス帝国の兵士たちが歓声を上げていた。
「よぉし!押し込むぞぉ!」
勝利の勢いに乗じて帝国兵は進軍しようとしたが ――、
「いや、追うな!」
そう言って自軍の旗手を制したのは、 レグナス帝国が異世界より召喚した“
帝国はこの遠征において、彼を含む三体の禍徒を投入していた。戦局を大きく揺るがす存在として、彼らの判断は時に将官すらも凌駕する。
レグナス帝国突撃連隊長ヴァルト・ゼムリアが眉をひそめた。笠の下の濡れた黒髪から血の混じった汗が滴る九朗を見て、不満げな視線を向ける。
「クロウ殿、あなたが掴んでくれたチャンスだぞ。奴らは強力な部隊を殲滅されて士気も下がっている」
「これを見よ」
九朗は笠を少し上げ、服の隙間から腕や胸の傷を見せた。 しかし、それは通常の槍や剣による傷ではなかった。傷口は紫がかった黒色に変色し、呪いを受けたような異様に痛々しい様相を呈していた。傷からは微かな紫煙が立ち上り、そこだけ時間が止まったかのように治癒の兆しが見えない。
「?!」
顔がこわばるヴァルト。彼は傷跡を見て一歩後ずさった。
「わしの回復力なら徐々に傷はふさがっていくはずだが…それどころか傷を広げて腐らせておる」
異様な傷口を見せてなお軽快に言葉を続ける。変身の後の疲労か、それとも傷のせいか、九朗の呼吸は僅かに乱れていた。
「クククっ、おそらく向こうさんの
「そ、その傷でよく平気な顔でおられますな…」
「平気ではない。ただ楽しかったから笑っておるのだ」
笠の下から覗く目には、戦いの興奮が今も残っていた。
「急造の部隊だったのであろう。武器の性能と個々の強さに頼った戦術――連携が取れておらなんだからこの程度で済んだ。決死の覚悟でわし一人に集中されていれば、わしの“とっておき”を見せる間もなく押し込まれておったのはこっちじゃろうな」
「うぅ…」
するとうめき声をあげ座り込む兵たちが出始める。
座り込む兵たちも九朗と同じような黒紫の傷跡ができているが、顔面は蒼白、中には吐き気を催している者もいた。
「かすり傷でもこれほどまでなるか…。だがまだ治療可能じゃ。あの部隊の剣を受けたものは少なくない。早うせんといたずらに兵を減らすぞ?」
九朗はヴァルトを見据え医療班の早急な派遣を促した。
彼らの呪いにかけられたような黒ずんだ傷口を見て、思わず唾をのむヴァルトの側近たち。
「まるで傷口から生気が漏れ出ているかのようですね」
恐れと敬意が入り混じった視線が九朗に注がれる。
「この程度で済んどるのは、わしが“禍徒”だからだ。 この傷のままで追撃して、同じような術を施された部隊をもう一度当てられたら …わしとて援護しきれんぞ」
「…やむをえんか……まぁいい、戦果としては十分だろう」
ヴァルトは渋々うなずいた。
いくら焦りがあったとしても、正当な意見を無視するほど愚かではなかった。
「クロウさん…すいません。せっかく優勢だったのに…」
傷を受けた一人の兵が、か細い声で申し訳なさそうに言う。
「クククッ、『優勢』ではあるが——お主が思うほど優勢ではない。追い詰められた戦士の底力は、どんな戦況もひっくり返してくるぞ」
九朗は優しい口調で、若い兵士の肩に手を置いた。
帰陣の号令が鳴り響く中、九朗は遠くの地平線に目を向けた。
連合軍の敗走する姿を眺めながら、心の中で呟いた。
(そろそろ潮時かのう…)
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