Barの女
紫乃美怜
Barの女
「おかえり」
トイレから戻ってきた彼女は、俺の言葉には返事をせずに、無言のまま隣のバースツールに座った。長い後ろ髪を顔の片側に流す仕草に、酒で火照った
「深雪ちゃんって、お酒強い方?」
彼女の前に置かれているチャイナブルーは、注文してからまだそんなに時間が経っていないのに、既に半分まで減っていた。俺が薦めたやつだ。甘いライチにグレープフルーツのすっきりとした味わいが飲みやすく、なによりその鮮やかなブルーが目を惹いて、とにかく女受けがいい。
「俺と飲むまでに何杯くらい飲んでたの?」
「さあ。数えてないから」
素っ気ない態度も、いっそ好ましかった。
俺は数時間前までの非運も忘れて、今日はツイてるなと内心で笑った。まさかこんな美人と飲めるなんて。
深雪とは今夜出会ったばかりだ。
ナンパに失敗し、諦めて一人適当に入ったBarで彼女を見つけた。カウンターの端に寂しく座る彼女は、店内の誰よりも目立つのに、声をかけるのを
……情けない。ここは歴戦の猛者である俺が手本を見せてやろう。
俺は
「一人?」
無視される。彼女はこちらをチラとも見ない。――想定内だ。ナンパ慣れしている女ほど、人を空気にするのが上手い。
そして、そんなことで簡単に身を引くほど、俺も伊達にナンパ師なんかやっていなかった。
「隣、いいかな?」
彼女の返事を待たずして、俺は隣に座った。マスターにハイボールを注文する。そこで
「いいなんて言ってないですけど」
棘のある声が俺の横顔に刺さる。こういう時、カウンター席は都合がいい。相手の目を正面から見ずに済むからだ。美形特有の妙な威圧感は、何度味わっても慣れない。
「次何飲む? 奢るよ」
俺は強引に会話を続けた。彼女は怪訝な表情は崩さないまま、ぼそりと答えた。
「……モスコミュール」
そして、話は冒頭に戻る。
「――にしてもさ、深雪ちゃんみたいな可愛い子が、なんでこんな所なんかで一人で飲んでんの?」俺は視線を彼女に向けたままハイボールを飲んだ。「ナンパ待ち……には見えないし」
「なに? 女が理由もなく一人で飲んでちゃ駄目なの?」
「いや、そういう訳じゃないけど……」
深雪ははあと溜息を吐いた。それから
「ここにはデートで来たの。それを今丁度、貴方に邪魔されてるところ」
そんなはずはない。声をかけて共に飲み始めてから、それなりに時間が経っている。デートで来た――深雪はきっぱりと言い切ったが、待ち人がいるようには思えない。俺を追い払うための嘘にしては雑過ぎるし、なにより彼女の
「えーっと……」
返事に戸惑う俺に、深雪はもう一度溜息を吐いて、それからマドラー代わりのストローをグラスの縁に沿うようにくるりと回転させながら、おもむろに話し始めた。
「彼ね、亡くなったのよ。雪山の遭難事故で。私も一緒だった」
去年の話である。
深雪は恋人の
「このBarも彼が教えてくれたの。一杯目に、決まってモスコミュールを頼んでた」
問題は次の日である。
前日の疲れから二人は寝坊した。予定より一時間半も遅れて出発した二人は、とにかく先を急いでいた。その焦りが判断ミスを引き起こしたのだ。
正午近くになって、天候が一気に悪化した。――猛吹雪。それまで好天のように思われた空は擬似好天によるものだった。
氷点下の重たい風が一塊になって横から叩き付けてくる。降りかかる寒さが、まるで石つぶてのようだった。右も左も前も後ろも、上下すら分からなくなるくらい視界はどこまでも真っ白で、数メートル先も見えなければ、自分の歩いた足跡ですらすぐに掻き消されてしまう。平衡感覚を失った足元は、白波の上を歩くようにふわふわとしていた。一人だったらきっとパニックに陥っていただろう。先行する誠人の黄色いジャケットが、深雪にとって唯一心の支えだった。
「私がちゃんと付いてきているか、彼は何度も振り返って待ってくれた。『大丈夫だよ、もう少しいけば避難小屋があるはずだから』って。何度も、何度も。私を安心させるために。……きっと途中からは、自分を安心させるために」
どこかで道を間違えたらしい。一向に見つからない避難小屋に、二人はとうとう力尽きた。雪洞を掘る余裕はなく、見つけた大きな杉の木を風除けに、それでもままならない強風の中で、張らずに広げただけのツェルト(緊急時用の簡易テントのことである)の中に身を寄せ合うように潜り込む。そうして
「気を紛らわそうとしてくれたのか、彼は普段より饒舌だった。……そのお陰かしら。不安だったけど私、どこかその状況を楽しんでもいたの。面白い土産話になる、って。食料も水もあるし、何より彼が傍にいる。私と違って彼は雪山にずっと慣れていたし。今思えば私……彼に責任を背負わせ過ぎていた」
翌朝。幸いなことに、天候は回復していた。
現在地は登山ルートから大きく外れており、下山しようにも完全に道に迷ってしまっている。二人は道迷い時のセオリー通り、尾根を目指して歩いた。連日の睡眠不足も相まって、精神的にも体力的にもあまり余裕はない。そんな状態で上へ向かって登ることは酷く億劫に感じられた。
時間はかかったが、無事尾根に辿り着く。開けた視界に、誠人が地図とコンパスで現在地を確認しながら、なんとか正しい登山道を探し出した。一先ず安堵する。二人はそこから尾根伝いに下山を試みた。このまま行けば日没までには帰れるだろう。
――けれども、そんな僅かな気の緩みを、死神は見逃してはくれなかった。
「一瞬、何が起きたのか分からなかった。突然大きな音がして、足が地面と一緒に落ちていた」
斜面を猛スピードで滑っていく。じたばたと藻掻く深雪の姿は、背中の大きなザックも相まって、まるでひっくり返った亀のようだった。途中、岩か何かにザックがぶつかり、その勢いで身体が大きく回転した。登山靴に装着していたアイゼンの出歯が雪面に数回引っ掛かり、瞬間――、右足首に激痛が走る。
距離にして約二十メートル。転がり落ちるうちに、気が付けば深雪の身体は停止していた。運よく窪地に捕まったらしい。
深雪は半身を起こすと、直ぐに辺りを見回した。ここからさらに十メートル下方、黄色いジャンパーが雪原に映えている。誠人が倒れていた。大声で名を呼べば、ゆっくりと片手が上がる。――生きている。
ほっとしたのも束の間、立ち上がろうとした深雪は足首の激痛に直ぐにその場に
テントでは保温性に欠けるからと、誠人が雪洞を掘る。三時間以上かかったが、結果的にこの判断は正しく、夜になって辺りは再び白い嵐に包まれた。
深雪の足は骨折してはいないものの、酷い捻挫らしかった。
明日の連休明け。職場の人間には登山について話している。登山届もきちんと提出しているし、仮に自力下山出来ずともきっと捜索隊が見つけてくれるはずだ。
「私の足は昨日よりも腫れあがっていて……。度重なる疲労で、二人共すっかり参っていたわ。彼は何度も頭が痛いと言っていた。何度も、何度も――」
次第に少なくなる二人の口数に、静寂が訪れてからどのくらい経っただろう。
希望は無残に打ち砕かれて、翌日になっても外は猛吹雪が続いていた。
外は息吹すら感じられない灰色の闇。身体の震えが止まらなかった。うつらうつらと船を漕ぐたびに、冷たい死が薄いベールのように被さってくる。いつの間にか雪洞内を照らす蝋燭の灯火は消えていて、点ける気力が起こらないくらいには、頭は回らなくなっていた。
そうして入山から五日目の朝。
深雪は直ぐに呼び止めようとしたが、口からはヒューヒューと息が洩れるだけで、誠人は気が付いてくれない。そのまま小さくなっていくばかりの黄色い背中に、深雪はリュックを取るのも忘れて追いかけた。
右足を引き摺って、それでも駄目なら雪面を這いずる様にして。意識が朦朧としていたお陰か、痛みの感覚はあまりなかった。
――どれくらい進んだか判らない。
先を揺らめく黄色いジャケット。一向に縮まらない距離に、不安さえ感じる思考も今はない。一体いつまでこの時間が続くのか。ずっと這いずっているせいで、深雪のジャケットはすっかり濡れて、首や袖の隙間から入り込んだ雪が、体温をどんどんと奪っていった。
そうしてとうとう、深雪はその場に力尽きる。
その時だった。深雪の耳に人のざわめきと、まっさらな雪がいくつもの足跡に踏み固められる音がした。「大丈夫ですか」という声と共に、視界いっぱい救助隊員のオレンジの制服に埋めつくされる。
安堵から、深雪の意識は次第に遠退いていく。深雪は未だ遠くに見える誠人の名前を呼んだ。声は老婆のように枯れていて、切れた口端に滲んだ鉄錆の味が鮮明に残った。
「次に目が覚めた時には、私は病院のベッドの上だった。捻挫した足がね、今でも時々痛むのよ。お陰でヒールが履けなくなっちゃって、殆ど捨てちゃった。靴箱はすっきりしたけど……お気に入りだったのに」
最初に面会したのは遠方の実家に住む母親だった。深雪が救助されたと報告を受けるや否や真っ先に駆けつけて、今まで泊まり込みで傍についていたらしい。父も直ぐにこちらに来ると、涙ながらに深雪に言った。
深雪は見舞いの言葉も早々に、誠人について尋ねた。会いたいと深雪が言うのに、母は言葉を詰めて。それから止まったはずの涙を再び流しながら、彼の死を深雪に伝えた。
これは後日、事情聴取に来た警察から聞いた話である。深雪を見つけて直ぐ、救助隊は深雪がそれまで這いずってきた跡を頼りに、あの雪洞を見つけた。その中に誠人の遺体があったという。死因は頭部外傷によるくも膜下出血。恐らく滑落した際に、岩などで頭を強くぶつけたのだろう。
深雪の救助地点と雪洞の位置はそれほど離れていなかったが、山岳ルートから大きく逸れていたこと、それから連日の吹雪による積雪もあって、雪洞は非常に見つけにくい位置にあった。
「『あんな状態で外を彷徨っていたのは軽率だったけど、ある意味幸運だったね』って言われたわ」
「え、それってさ」俺は堪らず口を挟んだ。「死んで幽霊になった彼氏が、深雪ちゃんを助ける為に救助隊のいるところまで案内した……ってこと?」
「そうよ。ロマンチックでしょ」
大真面目な様子の深雪に、俺はつい吹き出してしまう。
「深雪ちゃん、俺が煙たいからってさあ、嘘吐くにしてももっと他にあるでしょ?」
「嘘じゃないわよ。傷だってほら……残ってる」
そう言って、深雪は右足首を見せた。かかとの後ろ側、小さな傷跡が薄い色を覗かせている。
「分かった」俺は手を上げて降参するように云った。「そこまで言うなら信じるよ。……幽霊のくだり以外はね」
俺の言葉に深雪が怪訝な目を向ける。どういう意味? とでも言うように。
俺は酒を煽ると、再び深雪の方を向いて言った。
「深雪ちゃん確かさ、雪洞で蝋燭が消えたって言ってたよね? それに、救出されたその日は高熱だった」
「ええ」深雪が頷く。
「幻覚を見たんだよ。……蝋燭が消えた。それってつまり、その時雪洞の中は酸欠状態になってたってことでしょ? それに、雪洞の中にいたとはいえ、何日も雪山で遭難していたら低体温症になっているはずだ」
どちらとも症状に思考力低下と意識混濁が見られる。少なくとも、狭い雪洞の中で隣に横たわる死体にも気が付かない程度には、深雪の意識は正常でなかっただろう。
「君が追いかけたのは幻覚の彼氏だ。救助隊に出会えたのは全くの偶然だよ。お巡りさんの言うとおり、幸運だったね」
「……ふーん。ナンパって、もっと馬鹿な男がするものだと思ってた」
深雪が嫌味げに言う。
「知的な男は嫌い?」
「好きよ。軽薄な男と違ってね」
深雪は自身のグラスを手に取ると、また意味もなくストローで掻き混ぜた。解けた氷のせいで、中身のブルーが薄くなってゆく。
「幻覚じゃないわ」
視線をグラスに落としたまま、深雪が言った。
人は時として自分の都合がいいように記憶を改ざんしたりする。愛する人を失った悲しみから逃れられずに、深雪は今もその亡霊に憑りつかれているのだ。デートと称して、思い出の場所に一人訪れるくらいには――。
「彼氏のことは残念だったと思う。けど、いつまでも過去に縛られてちゃあ、彼氏だって成仏出来ないよ」
「……そうね」
「深雪ちゃんに必要なのは新しい恋だと思う」
あのさ、と俺が続きを言うよりも先に、深雪が言った。
「ところで貴方、髪の長い女が好きなのね」と。
「……え?」
「みんなそうだから」
そう言って深雪は、出会って初めて正面から俺を――正確には俺の背後を――真っ直ぐと見つめた。
「幻覚じゃないわよ」
もう一度、彼女が呟く。
沈黙が、暫く続いた。深雪の視線はすぐに俺から逸らされて、つまらなそうに落ちていくグラスの水滴を追いかける。そっと、指で拭って。
「それじゃあ、私達もう帰るから」
立ち上がる深雪に俺は引き止める言葉が見つからなかった。彼女は自身の財布から数枚の札を取り出すと「貴方のオススメ、美味しかったわ」と、テーブルに置いた。
深雪が一人で店を出て行く。飛び立つ水鳥のような背を、俺は見えなくなるまで見送った。
彼女の座っていた席には、青い液体がグラスに半分――、残されたままになっている。トイレから戻ってきて一度も、彼女はこれを口にしていない。嗚呼、バレていたのかな、と思う。
そういえば、霊にも色々種類があって、必ずしもそれが死んでいる人間とは限らない。もしも本当に、霊が存在するのだとすれば、俺に憑いているのはきっと、生霊というやつなのだろう。
はあ。
――今日は一段と、肩の辺りが重い気がする。
Barの女 紫乃美怜 @shinomirei
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