11日目①


(6:30〜8:30)


——濡れても、ちゃんとここにいる。


目覚めた瞬間、部屋の空気がやけに澄んでいるように感じた。

窓の隙間から入り込んでくるひんやりとした朝の風が、頬をなでる。

雨は……止んだらしい。


カーテンの向こう、空はまだ灰色がかっていたけれど、どこか明るさを含んでいた。

遠くで鳥の声がひとつ、ふたつ。

雨に洗われた街が、静かに呼吸を始めているみたいだった。


私はゆっくりと上体を起こす。

まだ左腕に巻かれた包帯がずしりと重く、じくりと痛んだ。


でも、昨日とは違う——

この痛みは、生きている証として、ちゃんと私の中にある。


ベッドの縁に腰掛けて、しばらくぼんやりと手のひらを見つめる。

細くて白い指先。どこか儚げに見えるけれど、あのとき——


あの子どもをかばったこの手は、間違いなく、強く、あたたかかった。


私は私の意志で、動いていた。


そんな自分が、少し誇らしいと思えた。


洗面所に向かい、蛇口をひねる。

水音が部屋の静けさをやさしく破り、鏡の中に今の私が映る。

濡らした手で頬を軽く叩き、鏡をじっと見つめた。


——黒髪の女。

肩にかかるか、かからないかのラインで切り揃えられた前髪。

凛とした瞳。やや眠たげなその奥には、昨日までよりもずっと、はっきりとした光があった。


けれど、その一瞬——

ふと、あの頃の“私”が、頭の中をよぎった。


短く刈り込んだ髪。がっしりとした顎のライン。

無骨なシャツを着て、同じ鏡を前に、無意識にネクタイを締めていた頃の記憶——


(……懐かしい、でも……)


私は、もう迷わなかった。

思い出ではあるけれど、あれは「過去の自分」——

そして今は「今の私」。

心が自然に、そう整理していた。


髪を整え、通勤用のベージュのカーディガンに袖を通す。

控えめな花柄のブラウス、深めのネイビーパンツ。

この格好も、もうすっかり「私の朝の風景」の一部になっていた。


ドアを開けて外に出ると、まだ湿り気の残る空気が肌を包んだ。


「……涼しい」


夏の朝にしては珍しいひやりとした風。

雨上がりの街は、まるで洗い立てのシャツみたいに清潔な匂いがした。


ゆっくりと階段を降りる。

マンションの入口で、ふと足元に目を落とすと——


そこに、小さな水たまりができていた。

黒いアスファルトの窪みに、空と街並みが静かに映り込んでいる。

その中に、私の姿もあった。


風に揺れる髪。白い頬。柔らかなシルエットの私。


私は、そこにちゃんと「存在」していた。


——濡れても、揺れても、私はここにいる。

たとえ変わったとしても、それでもなお「私は、私」。


まるで、鏡よりもまっすぐに自分を映してくれるみたいだった。

私は小さく息を吐いて、足元の水たまりを避けるように一歩、前へ踏み出した。


——さあ、行こう。


警察署の庁舎に入った瞬間、いつもの空気に包まれた。

ざわざわとした無数の足音と、電話のベル。

コピー機の音。誰かの笑い声。


そのすべてが、帰ってきたという実感を連れてくる。


「あっ、理彩ちゃん!」


階段を上っていると、背後から声をかけられた。

振り返ると、書記係の菊地さんが小走りで近づいてきた。


「もう出勤していいの? 怪我、ひどかったって聞いたけど……」


「あ、大丈夫です。処置も済んでますし……体はちゃんと動きますから」


笑顔でそう答えると、菊地さんがほっとしたように頷いた。


「ほんと、無理はしないでね? でも、すごかったって聞いたよ。子どもを庇って切られたって……私、鳥肌立っちゃった」


「え……そんな、大げさですよ」


「大げさじゃないって。かっこよすぎるもん、理彩ちゃん」


肩をすくめる彼女に、私は思わず苦笑してしまう。


——誰も、「女なのに」なんて言わない。


ただ、私の行動だけを見て、言葉をくれている。


エレベーターの前で待っていると、今度は制服姿の男性警官が声をかけてきた。


「山城さん、もう復帰? でも……無理すんなよ? 昨日の現場、すごかったって噂になってるぞ」


「あはは、やめてくださいよ。噂なんて、ただの偶然だったんですから」


そう答えると、彼はにっと笑って親指を立てた。


「偶然でも、動ける人間がどれだけいるかって話。——お疲れさん、ヒーロー」


ヒーロー。


また、その言葉だ。


私はふと、昨日の夕暮れ、真由の涙と一緒に聞いたその響きを思い出した。


でも——

それはもう、“理史”だった頃に求めていたものとは違う。

今はただ、誰かのために動けた「私」を、少しだけ誇らしく思える。


そしてその「私」が、こうして周囲の誰かに受け入れられていることが、何よりうれしかった。


——“山城理彩”として、私はここにいる。


たとえ髪が濡れても、足元に泥が跳ねても、この命はちゃんと歩いている。


私は、今朝見た水たまりを思い出しながら、そっと左腕の包帯に触れた。


痛みは、まだある。

でも、それすらも私の一部だ。


エレベーターの扉が開く音がして、私は深く息を吸い込んだ。


今日という一日に、しっかりと足を踏み出すために。

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