10日目④
(13:30〜17:00)
白い天井だった。
視界がぼやけて、しばらくのあいだ、どこにいるのかも分からなかった。
ぼんやりとした光の中で、目の焦点を合わせようとして何度も瞬きをする。
どこかで小さく、点滴のポタポタという音がしていた。
「……う、ん……」
声を出した瞬間、喉の奥がひりついて、小さく咳き込んだ。
唇が乾いていて、言葉にならなかった。
そのときだった。
「……理彩ちゃん!? ……よかった、目、覚めた……!」
聞き慣れた声。
耳元で弾けるように響いて、私はゆっくりとそちらを向いた。
ベッドの脇の椅子に、真由がいた。
制服は皺だらけで、襟元には乾きかけた汗の跡。
けれどその顔は、安堵と涙とで、もうぐしゃぐしゃだった。
「ほんとにもう、無茶するんだから……!」
ふるふると肩を震わせながら、笑っていた。
泣き笑い、ってこういう顔のことを言うんだろう。
「……真由……私……」
「しゃべらなくていいよ。まだ、寝てなきゃダメ。先生、あとで来るって言ってたから……でも、大丈夫だよ。腕の傷も浅かったし、処置もすぐだったって」
そう言いながら、真由はそっと私の左腕に視線を落とした。
私も、つられて見る。
——白い包帯。
ぐるぐると巻かれたその中に、じんわりと赤くにじむ血の跡。
でも、不思議と痛みはなかった。
ただ、その血の色が、まるで「私はちゃんと生きている」と訴えているようで、なんだか胸が熱くなった。
「ねぇ、あの男、ちゃんと逮捕されたよ。あのあとすぐ応援が来て、現行犯で。……それに、子どもも無事だった。病院でお母さんに会って、泣いて抱きついてたって……」
「……そう、なんだ……」
言葉にするたび、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
まるで陽だまりに包まれているようだった。
「ねえ、その子……理彩ちゃんのこと、ヒーローって呼んでたよ」
——ヒーロー。
その響きに、思わず目が潤んだ。
笑った顔のまま、真由の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
それはまるで、光の粒のようにきらきらしていて、言葉よりもまっすぐに、私の胸に届いた。
私は小さく笑って、包帯を巻かれた自分の左腕を見つめた。
「……それだけで、十分だよ」
そう言うと、ふいに——
頭の奥に、あの声が響いた。
「お前の選択が、お前を形作っている。
その行動の中にこそ、『真実の自分』がある」
静かに、深く、染みわたるような声だった。
神の声——
私は、聞き間違えたとは思わなかった。
たしかに、聞こえた。
(選択……)
あのとき、迷わなかった。
恐怖も、躊躇もあったはずなのに、私は真由の腕を振りほどいて、子どもを守るために走っていた。
誰かに「行け」と言われたわけじゃない。
立場も、性別も関係なく、ただ、「守りたい」という気持ちだけがあった。
(私は、私の意志で——)
涙が、すっと、ひとすじこぼれた。
だけど、それは悲しみじゃなかった。
深いところで、なにかが静かに満ちていくような——
納得の涙だった。
「……理彩ちゃん?」
不安そうに私を見る真由に、小さく首を振って笑ってみせる。
「大丈夫。ただ……なんか、わかった気がして」
「なにが?」
「……この“想い”が、私なんだなって」
夕暮れが、窓の外に広がっていた。
橙色の光が、病室の白いカーテンをふんわりと染めている。
雲がゆっくりと流れ、空が茜に染まっていく。
その色が、どこか自分の血の色と重なって見えた。
(これが、生きているってことなんだ)
傷の痛みも、誰かの涙も、自分の心が動いた瞬間も——全部が、私の存在の証。
たとえ身体が変わっても、名前が違っても、この想いだけは、何も変わらなかった。
(私は、“理史”じゃない。“理彩”として、誰かのために立っていた)
思えば、あの朝目覚めてから、ずっと答えを探していた。
「本当の自分」って、なんなのか。
でも——
「……もう、いいかな。そんなの」
「え?」
真由が首をかしげる。
私は、彼女の目をまっすぐ見つめて、微笑んだ。
「ねえ、真由。私って、ちゃんと“私”に見えてる?」
「……なにそれ、いきなり」
ちょっと困ったように笑った真由は、でも、すぐにうなずいた。
「当たり前でしょ。最初から、そうだったじゃん。理彩ちゃんは、理彩ちゃんだよ」
その言葉に、胸の奥がふるふると震えた。
私を「そうだ」と言ってくれる誰かがいる。
この身体、この名前、この感情を——
肯定してくれる人がいる。
(……私は、ちゃんと、ここにいる)
病室に吹き込む風が、やわらかく髪を撫でていく。
夕空の茜雲が、私の世界を静かに包んでいた。
それはまるで——
命の色。
「……ありがとう、真由」
ぽつりと呟いた言葉は、ほんとうに小さくて、かすれるような声だったけど、たしかに私の想いだった。
「ん? なにが?」
「……全部」
そう答えると、真由は目を丸くして、でもすぐにまた笑った。
涙の跡がまだ残っている顔で、まぶしいくらいの笑顔を見せてくれた。
私も、笑った。
この身体で、笑っていた。
私の声で、笑っていた。
たとえすべてが変わっても——
私の“想い”だけは、ずっと、変わらない。
——これが、私という人間の、すべてなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます