9日目④
(18:30〜22:00)
部屋に帰り着いてドアを閉めた瞬間、昼間の蒸し暑さがふっと遠ざかる。
エアコンのタイマーはまだ作動していなくて、窓を開けると、夜の風がすうっとカーテンを持ち上げた。
夕飯を軽く済ませて、片づけを終えた私は、冷たい麦茶のグラスを片手に、自室のベッドに腰を下ろす。
ふと、サイドテーブルに置いてあったスマホに目が留まり、そのまま無意識に写真アプリを立ち上げていた。
画面には、ここ数ヶ月で撮った“私”の姿が並んでいる。
真由と並んで笑っている写真。
職場の飲み会のスナップ。
休日に行ったカフェで撮ったセルフィー。
全部、“理彩”としての私。
私の笑顔は自然で、どれも違和感がない。
というか……
まるで、昔からずっとそうだったみたいに、写真の中の自分が“当たり前”にそこにいた。
(これ……本当に、私だったっけ?)
画面をスクロールしながら、そっと問いかけてみる。
だけど、返ってくる答えはどこにもない。
頭の中で、“理史”としての記憶を引っ張り出そうとする。
警察学校の教室、制服の袖を通した感覚、父の言葉、理史の声……。
でも、それらは霧の中に浮かぶ島のようで、手を伸ばすたびに輪郭がぼやけていく。
名前を思い出すことはできる。
過ごした日々の出来事も、理屈では覚えている。
けれど——
(……あれ? “私”って、どんな顔してたっけ)
画面を閉じて、ベッドの脇にある姿見をちらりと見る。
映ったのは、白いTシャツに黒のロングスカート姿の、素足のまま床に腰を下ろした一人の女。
肩までの黒髪が少し汗でまとわりついていて、首元を扇いでいる。
その顔は、もう私にとって、“他人”じゃなかった。
——けれど、不思議なことに、そこに「喪失感」はなかった。
むしろ胸の奥にあるのは、静かな満足感。
たしかな実感。
私は、ちゃんと生きてる。
「山城理彩」として、誰かの役に立ちたいと願って、誰かの笑顔に応えたくて、制服を着て現場に立っている。
——それって、つまり「私自身」じゃないの?
私は、あの夜のことを思い出す。
昨日の当直の深夜。
夢とも現ともつかない、あの不思議な空間。
黒衣の人影と、交わした言葉。
「君を定義するものは、君が何を信じ、何を選ぶか……その“意志”でしかない」
あの言葉が、今になって、胸の奥深くにそっと根を下ろしているのを感じる。
……私は、“理史に戻る”ために旅していたんじゃない。
最初から、“今の私”で、前を向くために——この旅をしていたんだ。
私はスマホを再び手に取り、検索バーに「山城理史」と入力する。
タップして検索。
——……何も、出てこない。
SNSにも、ニュース記事にも、公式な公務員情報にも、その名前は一切存在しない。
まるで最初から、存在していなかったみたいに。
けれど、私は驚かなかった。
むしろ、ふっと肩の力が抜けるような、そんな気持ちだった。
不安ではない。
怖くもない。
空っぽのはずなのに、どこかで満ち足りている。
不思議なくらい、心が静かだった。
私は立ち上がって、ベランダに出る。
空には、まだ熱が残っているけれど、風はやさしく頬をなでてくれる。
ベランダの柵に腕を預けて、私は夜の空を見上げた。
漆黒のキャンバスに、ちらちらと光る星々。
瞬くように揺れているそれらは、まるで「答え」を持たないまま、ただそこにあるだけ。
でも、それでいいのかもしれない。
「……私は……もう、迷わない」
つぶやいた声は、小さくて、それでも風に乗って、夜空に溶けていった。
心の奥に、ひとつの星が灯る。
誰かに与えられたものではない。
選び取った光。
それこそが、私という“存在”を証明するものなのだと——
静かに確信できた。
風は、やわらかく髪を揺らす。
明日もまた、新しい朝がやってくる。
——私は、山城理彩。
私の意志で、ここに生きている。
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