9日目③


(15:00〜17:30)


スーパーの自動ドアが、ゆっくりと私を迎え入れた。

ひんやりとした冷気が火照った肌を撫でていく。

さっきまでの陽射しが嘘みたいに、店内は涼しくて、どこか落ち着く匂いがした。


カゴを腕に提げながら、私は野菜売り場へ向かう。

冷えたレタスの青さが、目に心地いい。トマトをひとつ手に取って、ぷに、と指で弾いた。


ほどよく熟れていて、瑞々しい赤。

……今日の夕飯は、さっぱりした冷製パスタにしようか。


「きゅうり、玉ねぎ……あと、牛乳と卵、それから……」


小さな声でメモを見ながら、売り場をぐるりと巡っていく。

人混みの中に混ざって歩いていると、自分が“特別”じゃないことに安心する。


誰も私を見ていない。

誰も、疑問を持たない。

私は、ここに自然に存在している。


レジに並びながら、ふと足元を見やった。

白のロングスカートの裾が、膝の少し下でゆらゆらと揺れている。

その揺れさえ、もう私の一部になっていた。


「ポイントカードはお持ちですか?」


「はい、あります」


差し出したカードを受け取る店員さんの視線も声も、完全に“女性客”に向けたものだった。

私はふと、そこに懐かしさも違和感も覚えなかったことに気づいた。


スーパーを出ると、アスファルトの熱がじわりと足裏に伝わってくる。

重たくなったエコバッグを両手に提げて、私は家までの帰り道を歩き出した。


そして——


「……あれ? 理彩?」


突然、後ろから聞き慣れたような声が飛んできて、私はびくりと肩を跳ねさせた。


振り向いた先にいたのは、背の高い、浅黒い肌の青年だった。

半袖のシャツに、警察学校の頃と変わらない無造作な髪。


(……新藤、くん)


心の中で名前が浮かんだ。

警察学校時代の同期。


私——いや、理史だった頃、同じ教室で机を並べていた相手。


「おーい、やっぱ理彩だ! 珍しいな、こんなとこで」


彼はにこにこと歩み寄ってくる。

気安いその声が、ずっと変わっていないのに、私の中で何かがそっとズレる音がした。


「あ……うん、びっくり。偶然だね」


私は笑顔を作って返す。

自然に、違和感なく。


なのに、その“自然さ”が、妙に胸に残った。


「今どこ勤務だっけ? ああ、交番だったよな。たしか、永瀬と一緒じゃなかった?」


「うん、そう。今もちょうどペアでやってる」


彼は「そっかそっか」とうなずきながら、目を細める。


「相変わらずだなー理彩。前から真面目で優秀だったもんな。俺なんか、いまだに上に怒られてばっかでさ」


「それは昔からでしょ、新藤くん」


思わずそう返して、自分でも笑ってしまった。

軽口を叩く感覚も、距離感も、あの頃とまったく変わらない。


でも——


(……“理史”のことは、何も覚えてないんだ)


彼の中に、“山城理史”の影はまったく存在していない。

ただ“山城理彩”という、最初からそうだった同期の女性がいるだけ。


「ところでさ、覚えてる? 警察学校の卒業前にさ、あの救命訓練のロールプレイ、理彩がすごく上手くやってたの。あれ、俺、今でもちょっと悔しかったんだよなー」


「え……私、そんなに目立ってたっけ?」


「目立ってたっていうか、あのとき真剣だったじゃん。人命救助の場面。『人を助けるために、警察官になった』って、はっきり言ってたろ。あれ、けっこう印象に残ってるんだよね」


私は、一瞬、息を呑んだ。


——それは、“理史”として言った言葉のはずだった。


でも、彼の中では、あの瞬間すらも「理彩」のものとして記憶されている。


私はふっと目を伏せて、カゴの紐を指でなぞった。


(……私は、確かに言った。“人を助けたい”って)


それが、誰の言葉だったかはもう、問題じゃない。


体が変わっても、名前が変わっても——

私の中にある想いは、ずっと変わっていなかった。


「……私、理史に戻らなきゃいけないんじゃない」


つぶやいた声は、小さくて、風にさらわれそうだった。


「私自身で、私を選べばいいんだ」


自分の中に、ひとつ、はっきりと輪郭を持った答えが浮かんでいた。


ふと、幼い頃の夢を見たときのような、遠くてあたたかな記憶が胸をくすぐった。

あの頃も、理史としてじゃない。


“私”として、目の前の誰かを助けたいと思っていた。


「ん? なんか言った?」


「ううん、なんでもないよ」


私は笑って首を振った。

新藤くんは「そっか」と笑い返し、スマホをちらりと見て、「あ、やべ、そろそろ行かないと」と言った。


「またどっかで会おうな、理彩。お互い、ケガすんなよ!」


「うん。お互いにね」


手を振って、彼は夕陽に向かって駆けていった。

その背中を見つめながら、私はエコバッグを抱え直す。


夕暮れの風が、髪をそっと揺らす。

汗ばむ頬に触れた風が、少しだけ、冷たかった。


(……仮面をかぶっていたのは、もしかして“理史”の方だったのかもしれない)


誰かを救いたいと願った“心”は、初めからここにあった。


名前でも、性別でもなく。


私は——

私という“存在”を、今この瞬間、自分の手で選ぼうとしている。


そう思えたことが、たまらなく嬉しかった。

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