1日目③


(18:00〜23:00頃)


空が薄闇に溶け始める頃、ようやく私は空腹に気づいた。

胃のあたりがじわりと重たく、みぞおちの奥で鈍い痛みのようなものが蠢く。

けれど、それはどこか馴染みのない感覚で——

女の身体の中で感じる「空腹」は、こんなにも違うものなのかと、奇妙に思った。


外へ出る勇気は、なかった。

今のこの姿で他人とすれ違うことを想像しただけで、胃の痛みよりも強い動悸が走る。


台所に足を向けると、食器棚や調味料の配置、引き出しの中身までもが理史だった頃とまったく同じで、私は思わず苦笑した。

「中身」だけが変わって、周囲はそのままなんて……ひどい悪ふざけだ。


カップ麺とレトルトのカレーを取り出して、適当に湯を沸かす。

ケトルの蒸気がシュウシュウと鳴りながら、真夏の湿気に拍車をかけるようだった。


一口すすると、あまりに当たり前の味に、少しだけ救われた気がした。

けれど……ほんのわずかに、何かが違う。


「……ん? 甘い……?」


舌に残る微妙な違和感。スパイスの刺激がいつもよりマイルドで、後味に妙な丸みがある。

思わず、自分の舌を確かめるように唇を舐めた。

……味覚まで変わってるのか?

本当に、全身が“別の人間”になってしまったんだと、あらためて痛感させられる。


食後、部屋の中に静けさが戻ってくると、やることもなくなってしまった。

けれど、身体は汗ばんでいて、肌にTシャツが張りつく感触が不快だった。


「……風呂、入るか」


呟いた声も、やっぱり女の声で。

それだけで、なんだか無性に腹が立ってしまう。


脱衣所の鏡の前で、ふと手が止まった。

服を脱ぐ——

それだけの動作が、こんなにもためらわれるなんて。


意を決してTシャツをめくりあげると、丸みを帯びた乳房が視界に飛び込んできた。

ブラの感触、柔らかな膨らみ。

それを、私は自分の指で、ゆっくりとなぞってしまった。


「……っ」


柔らかかった。手のひらに吸い付くような感触。

男だった頃、何度も触れたことのある感覚なのに、それが今、自分の“内側”から生まれているという異常さ。

興味と恐怖と、そして……理性のどこかが、危うく壊れかける。


ふと我に返って、慌てて手を離す。


「……なにやってんだよ、俺……」


シャワーを浴びながらも、胸や腰のライン、太ももの感触がいやでも意識に入り込んでくる。

女という肉体の繊細さ。

湯を弾く肌の質感。

泡立つシャンプーの匂いまで、なんだか甘くてやさしい。


私は、今、“女としての身体”に囲まれている。

まるで自分という存在が、湯気の中で溶けてしまいそうだった。


風呂上がり、ドライヤーで髪を乾かす。

肩につかない程度の長さでも、乾かすのに思ったより時間がかかって、鏡の前でしばらくぼんやりしていた。


水滴の残る肌。

パジャマの胸元が、すこし膨らんでいる。


……鏡の中の女は、どこか穏やかな顔をしていた。

長い睫毛。

柔らかな輪郭。

理史の面影を残しつつ、完全に“女性”としてそこにいる顔だった。


「……もう、戻れないのかな」


そう思ってしまった自分が、怖かった。

この身体に、少しずつ慣れてきてしまっている自分が。


布団に入ると、冷房の風が肌にひやりと触れた。

パジャマの下、まだ熱を残す身体が布団の中でじんわりと蒸れて、私は小さく身体を丸めた。


——明日、元に戻っていればいい。


それだけを、祈るように繰り返した。

言葉に出すと、涙が出てきた。

ぽろぽろと、音もなく。


「……元に、戻りたいよ……」


蝉の声も消えた夜の静寂が、ひたすらに重たかった。


夢の中で、私は深い深い水の底にいるような感覚に包まれていた。


音もない。

光もない。

ただ、圧倒的な「静けさ」だけが広がっていた。


その中で、ふいに——


『“自分自身”とは、記憶でも形でもない』


あの声が、響いた。


『お前は、お前が選び取る存在となる』


低く、澄んだ声。

神のような、全てを見透かすようなその響きに、私は——


——私は……。


目を閉じたまま、私は無意識に、自分の胸の上で手を組んでいた。

その鼓動が、遠くの誰かのもののように、静かに響いていた。

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