1日目②
(15:00〜18:00)
部屋の中に沈む、クーラーの風の音。
静かすぎて、むしろ耳障りだった。
何をしても「現実」として受け入れられないまま、俺は再びスマホを手に取った。
液晶画面にうっすらと、自分の顔が映り込む。
いや――
映っていたのは、「山城理彩」という女だった。
目覚めてすぐにもざっと目を通したが、今はもっと確かめなければならない。
これは悪い夢じゃない。
現実なんだと、ちゃんと認めなければ、俺の頭が壊れる。
ホーム画面をスライドし、SNSのアイコンをタップする。
眩しい夏の日差しを思わせるようなインスタの画面が、画面いっぱいに広がる。
笑顔の自分――
いや、「理彩」がいた。
友人とカフェでスイーツを囲みながら、ピースサイン。
夏祭りの浴衣姿で、金魚すくいの袋を持って笑っている。
警察署の同僚たちと撮ったらしい集合写真では、制服姿で爽やかに微笑んでいた。
全部、「俺」の顔だった。
けれど、どれも俺ではなかった。
表情も、仕草も、視線も。
どれも「俺」じゃない。
知らない他人の動きだ。
それなのに――
誰も、それを疑っていない。
コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。
《理彩ちゃん、美人さんすぎる》
《制服似合ってる!》
《 また遊ぼ〜!》
「理彩ちゃん」って誰だよ。
その美人の中身は、つい昨日まで短髪の男だったんだぞ――
そう叫びたくなるのに、指先が震えて言葉にならない。
LINEを開いてみた。
メッセージの履歴は、整然と整っていた。
「仕事お疲れさま〜またランチ行こ」
「今度のシフト、理彩さんと一緒で嬉しいです!」
「てかあの髪型ほんと可愛い〜真似していい?」
どの文章も、女として俺を扱っていた。
敬語混じりの丁寧なやりとり。
フランクなノリの絵文字。
何ひとつ、違和感を持って書かれた形跡はない。
この「俺じゃない自分」は、職場でも友達付き合いでも、完璧に存在していた。
まるで、理史なんて人間は、最初からどこにもいなかったみたいに。
「……うそ、だろ……」
喉の奥がカラカラに乾いて、唾を飲み込む音がやけに響いた。
その瞬間、腹の奥がギュルッと音を立てた。
――トイレ。
生理現象というのは、こういう非常時でも容赦なく襲ってくる。
しかし、すぐに別の不安が喉までこみ上げる。
そうだ。今の俺は……
女の身体だ。
「いや……ちょっと待て、まじかよ……」
嫌な汗がにじみ始めた。
冷房の効いた部屋なのに、背中がじっとりしている。
恐る恐る立ち上がり、洗面所の奥にあるトイレへ向かう。
ドアの前で、深呼吸する。
ギィ……
ドアを開けると、何も変わらない普通の洋式便器がそこにあった。
なのに、どうしてこんなに怖いんだ。
便座を上げようとして、ふと手を止める。
……いや、今はもう“立って”できないんだ。
自分の体にあるべきものが、もうない。
認めたくないが、もう一度確かめるまでもない事実。
「くそ……」
小さく呟いて、便座に腰を下ろす。
肌が冷たい陶器に触れて、ゾクリと震えが走る。
下着をおろすときの音すら、やけに大きく響いた気がした。
そして――
排尿の音。
「……っ……!」
思わず口元を手で覆う。
異質だ。
違う。
何もかも、違いすぎる。
音も、感覚も、タイミングも。
慣れ親しんだものじゃない。
他人の身体が勝手に用を足しているような、そんな気持ち悪さ。
情けなくて、恥ずかしくて、怖くて。
目を閉じて、ただじっと、終わるのを待った。
水を流す音が、まるで何かを洗い流すように響いた。
でも、どんなに流しても、俺の中に溜まった違和感は少しも減らなかった。
立ち上がり、手を洗いながら鏡を見た。
やっぱり、そこにはあの女がいた。
俺じゃない、誰か。
「俺は……俺は誰だよ……」
声が震える。
唇がかすかに開いて閉じる。
目の奥が熱くなる。
でも泣きたくなかった。
泣いたら、それこそ「女」になってしまう気がして。
フラフラと部屋に戻り、ソファに倒れ込んだ。
冷房の風が、熱を持った肌をなぞる。
けれど、涼しくはなかった。
額に汗がにじむ。
胸がふわりと動くたび、Tシャツの内側で柔らかい膨らみが揺れる。
そのたびに、「俺」という存在が、何かに侵食されていくような気がした。
……いつからだ?
「自分」って、何だった?
顔か?
性別か?
記憶か?
全部揃っていなきゃ、人は「自分」でいられないのか?
誰も俺を「山城理史」だと認識していない。
スマホの中も、記録も、写真も、声も、身体も……
全部、「理彩」になっている。
だったら……
じゃあ……
俺は、どこにいる?
「いない」のか?
もう――
この世界に。
冷たいソファに横たわったまま、天井を見つめた。
静かな部屋の中で、蝉の声だけが絶え間なく響いていた。
まるで、自分だけが取り残されたように。
そして俺は、身をすくめるようにして、ただ黙って――
自分という存在が少しずつ壊れていく音を、聴いていた。
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