第3話 ノイズの中の真実
埃っぽい空気が鼻をついた。裏手の勝手口には錆びた南京錠が掛けられていたが、半ば壊れかけていて、力を入れるとすぐに外れた。鍵を使わずとも中に入れたことに、どこか不穏なものを感じる。
「……ただいま」
小さな呟きが、薄暗い室内に吸い込まれる。十歳の冬に家を出てから、二十年近くが過ぎていた。崩れそうな記憶の底から浮かんでくるのは、暖房の効いた居間で家族四人で囲んだ食卓。笑っていた母の顔。妹の千波が咳き込んで、父が心配そうに背中をさすっていたこと。
靴のまま上がり、玄関脇の居間に向かう。障子を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは壁に貼られた一枚の紙だった。
──それは、子どもの手で描かれたクレヨン画だった。
洋館のような建物と花の咲き乱れる庭。空には太陽と、にっこりと笑う三人の人影。裏には、震えるような文字でこう書かれていた。
《ちなみが なおりますように》
「あ……」
喉が詰まる。あれは、千波が五歳の頃だった。生まれつき体が弱かった千波が、母と一緒に通院を繰り返していた頃。あの絵は、ずっと前に処分されたと思っていた。
絵にそっと触れ、瑞月は廊下を進む。父の仕事部屋だった和室へ向かうと、そこは時が止まったように昔のままだった。引き出しの中は空っぽで、書棚もきれいに整理されている。だが、押し入れの襖を開けた瞬間、何かが引っかかるような感覚が胸を走った。
懐中電灯の光を向け、奥へと手を伸ばす。
カタ、と何かが動いた音がした。
引っ張り出したのは、黒ずんだ革ケースに入った古いカメラと、ボイスレコーダー。電池は切れていたが、テープはまだ中に残されている。
「……お父さん」
誰に言うでもない声が漏れた。
父のカメラ…幼い頃、父の真似をしてファインダーを覗きながらシャッターを押した記憶がある。今では珍しいフィルムカメラ。まだ使えるのだろうか…中には巻き取られたままのフィルムが残されていた。
押し入れの奥に目をやると段ボールが二箱無造作に積まれていた。その間に角A3サイズの封筒が挟まっていた。封筒にうっすらと記された走り書き…
『万一のときは並木へ』
(並木……?)
並木ってあの……編集長室でタバコを吸いながら、記事に文句をつけてはデスクをトントンと叩く姿が思い浮かんだ。
「まさかね…」
封筒の中身は空だった。しかし”何か”がこれに入っていたことは間違いない。
誰かが持ち去ったのかそれとも…「万一」ってどういうことなんだ?
瑞月は封筒をバッグに仕舞った。
押し入れを閉じ、和室を出ようとしたそのとき、不意に記憶の断片が胸をよぎった。
──あの絵に描かれていた庭。洋館のような建物と、花が咲き乱れる庭。空がふたつある、不思議な風景。
(……そうだ、あれは裏庭だったはず)
気になって、縁側を抜け、家の裏手に回ってみる。雑草が生い茂り、かつての畑も荒れ放題になっている。だが、記憶にあるような洋館風の建物はどこにもなかった。
「……そんなはず、ないよね」
呟きながら庭を見渡す。幼い頃に見た光景のはずなのに、そこにあるのはただの古びた納屋と物置だけだった。遠い過去に見た夢のような記憶……。
(私の記憶が、間違ってる……? それとも、あれは…千波の記憶だった?)
瑞月は庭を見渡しながら、再び頭の中に揺らぐ空の光景を思い出す。空がふたつに見えた理由。あの絵の空の下に描かれていた三人の人影――そこに自分は、いたのか?
再び胸の奥がざわついた。
(……千波の……私たちの部屋なら、何か…)
一瞬、足がすくみかけた。それでも瑞月は階段に向かい、ゆっくりと一歩を踏み出す。
一段登るたびに、ギシギシと軋む音が響く。
二階の突き当たりには、千波と一緒に使っていた子供部屋があるはずだ。
子供部屋のドアには「M&C」と書かれたオーナメント。ドアを開けて室内に入った。
学習机が一つと二段ベッドがある。不思議と懐かしいという感情は湧いてこなかった。
部屋の隅にある古びたクローゼットを開けた。小さな引き出しがついた衣装ケースがある。引き出しを開けると、その底には小さな白い布製のお守り袋がひとつ…千波のものだ。袋にはうっすらと「ちなみ」と名前が書かれていた。
「千波…あなたはどうしてるの?元気なの?…」
胸に閉まっていた感情が、涙を溢れさせそうになる。堪らず、ギュッとお守りを握りしめ涙を堪えた瑞月は部屋を出た。
居間に戻ると、ボイスレコーダーに新しい電池を入れて再生を試みた。機械はかすかに唸り音を立て、やがてテープが回り始める。
「……日付は、2005年6月14日。場所は……け…製薬、開発室。NVK-203と……KSP-108。副作用のパターンに差異が……報告書の内容と……一致しない……“記録が改ざん……可能性がある”……?」
途切れがちな声。ノイズ混じりの中から聞こえるのは、間違いなく父・良介の声だった。
瑞月は息を呑む。NVK-203――現在Neuroviaが主導する新薬開発のコードネーム。そしてもう一つの名、KSP-108。父が何を追っていたのかは、まだ明確ではない。それでも、いま聞いた内容がただの雑音ではないことは確かだった。
記憶の中の父は、風景写真を撮りながら近所の老人の話を聞いたり、子供達を集めては遊んでいる姿をカメラに収めていた。時折、町に出かけてくると言っては数日帰らないこともあったが、いつもお土産を買ってきてくれていた。
そうした記憶から父はタウン誌か何かのカメラマン、もしくは地元在住のライターかと勝手に思い込んでいた。
「……お父さん、あなたはいったい…」
その時、ガラリと引き戸の音がした。瑞月は反射的に体をこわばらせたが、恐る恐る玄関へと向かった。
「……誰か、いるのか?」
戸口に立っていたのは、30代前半の男だった。懐かしい面影。柔らかく整った顔立ち。驚いたように目を見開いた彼が、すぐに微笑む。
「……やっぱり、瑞月だよな?」
一瞬、名前を呼ばれた意味がわからなかった。だが次の瞬間、記憶が声と顔を結びつける。
「……佐久間……高志?」
小学校の頃の幼馴染。向かいの家に住んでいて、よく一緒に遊んでいた——そして、千波がいなくなったあの日以降、誰とも顔を合わせず栗原を離れた瑞月にとって、最後に見た“普通の生活”の象徴だった人物。
高志は少し照れたように後頭部を掻いた。
「たまたま通りかかったら、玄関が開いてたからさ。もしかして……戻ってきたのか?」
「……戻ってきた、っていうか、ちょっとだけ取材で」
玄関先に腰を下ろしながら、瑞月はお守りを指先で弄ぶようにして答えた。
「そっか……まあ、こんなとこに“ちょっと”戻ってくるなんて普通はないよな。あんなことが、あったし」
高志は視線を落としたまま、懐かしさと少しの躊躇を滲ませる声で言った。
「……全部は知らないけど、なんとなく、大人たちの空気で察してたよ。千波ちゃんのことも、おじさんのことも」
瑞月は、答えなかった。ただ静かに、昔の庭の風景を思い浮かべていた。
「そういえば……いま、町の役場にいるんだ。偶然だけど、こないだ地域医療の書類整理で、例の病院の旧記録に目を通す機会があってさ」
「病院?」
「ほら、当時、千波ちゃんが通ってた…。今は名前変わってるけど、仙台の大学病院の関連施設が、治験やってた時期があったんだって」
瑞月は、背筋がぞわりとした。
「……治験、って言った?」
「うん。詳しいことはわからないけど、たしかその時の新米だった看護師さん、今も働いてたんだよ。主任さんになってるけどね。その人に記録のことで問い合わせしたことあってさ」
瑞月は、立ち上がっていた。何かに背中を押されたように。
「その人、名前わかる?」
「えっと……たしか、“岡崎さん”だったかな」
メモを取る手が震える。瑞月は自分でも気づかないほど、強くペンを握りしめていた。
「高志……連絡、取れる?」
「うん、俺から言ってみようか?地元の名前なら、直接より話しやすいかもしれないし」
「お願い!」
瑞月は胸の奥で、何かが動き出したのを感じていた。父の声、クレヨン画、古びたレコーダー、そして“治験”という言葉――すべてが、これまで意図的に閉じてきた記憶の扉を叩いているようだった。
その時板垣からLINEが入る。取材が終わって瑞月を迎えに行くという内容だった。
*
病院前の昔ながらの喫茶店で板垣と待ち合わせることにした。
「瑞月さーん! お待たせっす!」
「ちょうど着いたところ。お疲れさま」
「神隠しの伝承、なかなか面白い証言取れましたよ!……ところでなんで病院なんすか?」
瑞月はしばらく黙ったあと、決意したように言葉を口にした。
「話してなかったけど、私が社会部から外された理由……本当は…ある調査をしてたの」
板垣の表情が真剣になる。
「Neuroviaってあるでしょ。今じゃ新薬開発で勢いあるけど、もともとは健生製薬を買収して急拡大した会社。その買収の裏に、早乙女禎一って官僚が関わってた可能性があるの。彼、表向きは関係してないことになってるけど、内部資料に名前が出てた」
「……それを追ってた?」
「そう。でも、確証がないって理由で記事にはできなかった。資料のコピーを取ろうとしたら止められて、取材も凍結。結果、私は社会部から外されて、BULLETに飛ばされた…」
瑞月はこの前撮った写真を見せる。
「こいつ…早乙女禎一。今はNeuroviaに天下りしてる」
板垣は息を呑む。オカルトネタを追っている時とは違う真剣な表情だ。
そして瑞月は父が遺したボイスレコーダーのスイッチを入れた。耳を近づけて流れてくる音声を聞く板垣の表情がみるみる強張っていく。
「これって……NVK-203とKSP-108って何すか?」
「NVK-203はNeuroviaが今主導してる治験薬の名前と同じ。KSP-108が何なのかは…父が録音してたのは2005年。たぶん健生製薬の内部の音声。あのときから何か動いてたのかもしれない……けど、まだ繋がってる確証はない。ただ、直感が――」
カランコロン…喫茶店のドアが開く。
高志が入ってきた。
「待たせてごめん!紹介できる人、今ちょうど休憩に入ってるって。案内するよ」
次回▶ 第二章 記録の中の沈黙
第四話「ひずんだ記録」
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