幻庭-神隠しの庭-

澪音(rain)

プロローグ

「ねぇ、お姉ちゃん。あの庭って、空がふたつあるんだよ」


その言葉が瑞月の胸に焼きついたのは、千波が五歳の春だった。

家の裏手、もう使われていない洋館風の建物の奥に、ひっそりと広がっていた苔むすような庭園。

誰にも見向きされないその場所を、千波はなぜか“お気に入り”だと言って、毎日のように通っていた。


そして、帰ってくるたびにおかしなことを口にした。


「お姉ちゃん、あの木、今日も動いてたんだよ」

「土のなかで誰かが笑ったの。千波だけにこっそり」

「お池のなかにね、千波とそっくりな子がいるの。でも怒ってばっかり」


ある日は、どこにも咲いていない花の花びらをポケットに入れて帰ってきた。

またある日は、真っ黒な土が指の隙間にまでびっしり入り込んでいた。


瑞月は怖くなって、庭に行かないよう注意したが、千波は笑って言った。


「だいじょうぶ。むこうの空の子たちは、千波のこと、ちゃんと見てるから」


むこうの空? その意味を聞いても、千波ははぐらかすように笑うばかりだった。


その夜、千波はひどくうなされた。そして寝言のように、こうつぶやいた。


「……だめ。あそこにいると、忘れちゃう……お姉ちゃんのこと、思い出せなくなる……」


次の瞬間、寝台から跳ね起きた千波は、目を見開いて、窓の外——夜空を凝視した。


「……あ……いや……!」


震える声。空が引き裂かれるような、軋む音が瑞月の耳にも確かに届いた。


千波はそのまま叫びを上げて崩れ落ちた。

そして、それを最後に——

千波はあの庭に行かなくなり、庭の話も、二度としなくなった。


 


数日後、瑞月は両親の深刻な話し合いを偶然聞いた。

内容までは分からなかったが、父は確かに怒鳴っていた。

「娘は絶対に渡さない」と。


——千波は突然、海外の知人に預けられた。

理由を聞いても、母は「病気を治すため」としか言わなかった。


空がふたつあるという言葉の意味。

あの軋む音の正体。

なぜ、千波があの庭を怖がるようになったのか。


すべては謎のまま、時間だけが過ぎていった。


瑞月が“幻庭”の正体に触れるのは、それから二十年後。

ふたつの事件を追って辿り着いたのは、あの日、千波が「もうひとつの空」と呼んだ場所だった。


 


——その庭は、現実と記憶の境界に、ひっそりと息を潜めていた。

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