乾いた粘土にキスをして
夜の工房は、昼とはまるで別の顔を見せる。
七星芸大の彫刻科の学生たちが使う、校舎の裏手にあるその建物は、昼間こそ人の出入りが多く賑わっているが、陽が沈めば、誰も寄りつかなくなる。むせかえるような油粘土の匂いと、静まり返った空気が、時間を溶かすように漂っていた。
如月結翔は、その匂いが嫌いではなかった。むしろ、粘土のなかに沈むような感覚が、自分を落ち着かせることに気づいてからは、授業のない日でも一人でここに通うことが増えた。
彼は彫刻科の二年生だが、自分の作風にはまだ迷いがあった。クラスメイトたちが芸術家としての個性を強く打ち出す中、彼は依然として古典的な技法の習得に固執していた。教授からは「技術は確かだが、魂が見えない」と評され続けていた。
その夜は違っていた。重たい鉄扉をそっと押し開けた瞬間、工房の奥から違和感が来るのを察した。粘土を撫でるような音、木べらが削る微細な振動。そして何より、知らない人の気配。
――誰かがいる。
この時間に工房にいる学生など、そうはいないはずだった。結翔はおそるおそる中に入ると、明かりの点いた小さな個室のほうへと視線を向けた。扉はわずかに開いていて、隙間から漏れる光の向こうに、ひとつの影があった。
裸の背中だった。
陶土の山の向こう、作業台に置かれた石膏台の上に、その背中はあった。滑らかで細く、白磁のような質感。肩甲骨の輪郭が、粘土の曲線と重なり合って、まるでひとつの作品のようだった。
目を奪われたまま、結翔は思わず声を出した。
「……え?」
その声に、影が振り返った。振り返った、というよりも、ただゆるやかに顔を向けただけだった。
槙原梢。結翔と同じ学年で、同じ彫刻科に所属している、静かで孤独な学生という印象を結翔は強く持っていた。
彼女は講義にもほとんど顔を出さず、作品だけで存在感を残すような、奇特な存在として扱われていることで有名だった。
彼女の彫刻作品は常に高い評価を受けていたが、その制作過程を誰も見たことがなかった。それゆえ、「天才か、それとも何か裏があるのか」という噂も絶えなかった。
まだこの芸大にいたのか、最近全然見なかったから、てっきり退学していたのかと――結翔にはそんな気持ちさえあった。
「見た?」
梢の声は、まるで水の底から響くように低くて静かだった。肩から胸のあたりまで、素肌を隠すことなく、彼女はそのまま結翔を見つめていた。
「ご、ごめん! その、誰かいると思わなくて……!」
「大丈夫。気にしてない」
さらりと答え、彼女はゆっくりと作業を再開した。手のひらで粘土を撫で、指で凹凸を刻みながら、石膏台に載せられた何かを彫っている。
結翔は、思わずその作品に目を向けた。それは、彼女自身の胸像だった。
目を伏せ、唇を閉じたその顔は、今まさに作りかけで、頬のあたりにはまだ柔らかい指跡が残っていた。
「自分を彫ってるの?」
結翔は尋ねた。カービングにしてもモデリングにしても、結翔の中ではどちらも「彫る」行為であった。
「そう。私は、身体の中にしか形を見つけられないの」粘土を捏ねながら、梢は淡々と続けた。
「誰かをモデルにしても、イメージに飲まれちゃう。でも、自分の肌なら、触ったことあるから、迷わない」
「だからといって自分の胸像を作るとは……」
彼は目を逸らした。粘土に触れている指の動きが、あまりに滑らかで、官能的ですらあったからだ。
「君も彫ってるんでしょ。同じ彫刻科の人だよね?」
「俺のこと知ってるのか」不意に話題を振られ、結翔は一瞬だけ遅れて頷く。
「同じ学科だし……カービング系とモデリング系、どっちに進むの?」
彫刻科のカリキュラムは、木彫、石彫など、のみや槌を用いて素材を像の形に削っていく「カービング系」と、粘土や石膏を積み重ねて像を造っていく「モデリング系」のどちらかを二年生のときに選択するように構成されている。これは七星芸大の固有のカリキュラムである。
「モデリング、たぶん――君と同じ。でも俺はまだ、うまく形が見つけられなくて」結翔は少し考え込んだ後、続けた。
「教授からは『技術に対して感情が乏しい』と言われているんだ。その指摘の意味さえ、よくわからない」
「彫るってのは、触れることと同じだから」
梢はふと、粘土の上から手を離し、無造作に椅子に腰かけた。
「君も触ってみる?」
「えっ?」
「私じゃなくて、この粘土。私の胸のコピー。そこから始めたらいい」
梢はそう言って、指先に粘土を擦りつけるようにしながら笑った。その笑みは、塑像よりもずっと柔らかく、そして危うい光を宿していた。
如月結翔は、差し出された粘土像の前でしばらく立ち尽くしていた。小さな呼吸の音さえ響きそうなほど、工房の空気は静かだった。
梢の粘土胸像は、彼女の肌そのもののように滑らかだった。まだ乾ききっておらず、表面には微かな湿り気と、作り手の指の温もりが残っていた。
「触っても、ほんとにいいの?」
「もう触ってるでしょ? ――目で」
冗談とも本気ともつかない声で、梢は言った。頬杖をつき、横目で結翔をじっと見ている。長い前髪の影が、視線の正確な位置を曖昧にしていた。
結翔は崖と崖の間に惹かれた一本の綱を手ぶらで渡るように、恐る恐る粘土に指を伸ばした。そこには、確かに温度が宿っている気がした。指先でなぞる。鎖骨、肩の曲線、ふくらみ。
「……すごいな、これ。形、完全に覚えてるんだ」
「毎晩、鏡を見ながら彫ったから、ちゃんと」
細部まで異様に正確なその像は、まるで彼女の皮膚の中に入り込んだような感覚を引き起こす。
「本物の私と比べてみる?」
「え、それは……」
困惑する結翔に、梢は肩をすくめた。
「......冗談。でも、君の手、ちゃんと見てるね」
粘土を触れる感覚が、次第に滑らかで柔らかく、どこか熱を帯びていくような錯覚を生む。目を閉じれば、そこにあるのは彼女の肌そのもののようだった。
――これは、触れていいものなのか?
ふと疑問がよぎる。作品に触れることと、人に触れること。その境界が曖昧になっていく。
「君はさ、まだ誰かを『彫った』こと、ないんでしょ?」
「うん、まだ小物ぐらいしか作れてない。触れるのが怖くて、壊しそうで」
「壊れていいよ、少しくらい」
梢は立ち上がり、結翔の横に並んだ。肩がかすかに触れ、彼の鼓動が跳ねた。
「私が壊れる分には、誰も困らないし」
「そんなこと……!」
口に出した瞬間、梢の指が結翔の手にそっと重なった。粘土越しに、指と指が重なる。そのまま、彼女の手が結翔の指を導いていく。肌に似せた粘土の表面を、二人の指がなぞる。
「こうやって彫るの。皮膚の下を想像して、骨や筋肉の流れをなぞるの」
「……骨の流れ」
「うん。骨は欲望の象徴。最初にあって、最後まで残る」
ぞくり、と背中に冷たい感覚が走る。それは恐怖ではなかった。むしろ、身体の奥の何かが静かに震えるような――抑えがたい衝動の芽吹きだった。
梢は突然、粘土像から手を離した。そして、結翔の正面に立ち、まっすぐに見つめてくる。
「彫ってよ。今の私を」
その言葉に、結翔は戸惑いと共に、芸術家としての好奇心も感じた。梢は彼に、ただの技術ではなく、芸術の本質――他者との精神的交流を提案していたのだ。
「……これは、芸術的な対話なのか?」
「そう。私と君の間にある、形のない何かを形にするの」
梢はシャツのボタンに手をかけた。一つ、また一つと外していくたびに、結翔の思考はかき乱されていく。
彼は芸術と欲望の間で葛藤していた。モデルを前にしたデッサンは芸術大学では日常的なことだが、この深夜の工房での出来事は、どこか儀式的で、禁断的だった。
「待って……いいの? 本当に? これは授業でもなければ、正式な制作過程でもない」
「芸術でしょ? 君の想う『形』になるんだから。――ミケランジェロが石の中に眠る形を解放したように、あなたも私の中に眠る形を見つけるの」
梢の服が床に落ち、やがて、彼女は白い裸身のまま立っていた。
その身体は痩せすぎるほど細く、だが陰影がくっきりとしていて、彫刻のような静謐さを湛えていた。
結翔は、震える手でその肩に触れた。皮膚の柔らかさ。鎖骨のくぼみ。息を呑むような静けさ。
「……これが、君なんだな」
「うん。でも君に彫られないと、私はいつまでも......未完成のまま」
結翔の手が、粘土ではなく、はじめて人の肌に触れた。芸術の名を借りたその行為は、明確に「触れること」の官能へと変わりつつあった。
しかし同時に、彼は芸術家としての眼差しも失わなかった。梢の身体の線、筋肉の付き方、骨格の構造——それらを記憶し、心の中で造形していく。
梢の身体は、粘土像よりもずっと軽く、そして冷たかった。
灯りに照らされた彼女の皮膚は、白磁のように繊細で、指先で撫でるたびにうっすらと鳥肌が立った。
結翔の手は震えていた。触れるたび、彼女がわずかに呼吸を乱す。そのたびに、自分がしていることの意味を、あらためて思い知らされる。
けれど、梢は何も言わなかった。むしろ静かに目を閉じ、自らをキャンバスに変えるように身を預けていた。
「君って……こんなに細いんだな」
思わずつぶやいた声に、彼女の睫毛がわずかに揺れた。
「壊れやすそうでしょ?」
「違う。……これから素材を肉付けしていくんだ」
「それ、褒めてる?」
「わかんない。けど……綺麗だと思った」
言葉が、口から滑り落ちていく。それを拾うように、梢の指がそっと結翔の胸に触れた。
「ちょっと細いけど、骨格は案外しっかりしてる」
「案外?」
「触ってもいい?」
そう言って、彼女は結翔のTシャツの裾に指をかけた。彼はそれを止める理由をもう持っていなかった。
彼女の指が背中をなぞる。肩甲骨の稜線、背骨のゆるやかな湾曲。まるで粘土を撫でるときのような、正確で丁寧な触れ方だった。
「君、もう誰かに彫られてる?」
「正直に言って……彫られてない」
「じゃあ私が最初だね。……ねえ、ここに座って」
梢は粘土の山の横、濡れたシーツを敷いた小さなソファに腰かけた。その隣に結翔が座ると、彼女は自然な動きで、その膝に自分の脚を重ねた。
ふいに、距離が消えた。汗ばんだ肌が触れ合い、静かだった工房の空気がふっと熱を帯びる。梢が指先で結翔の喉をなぞった。鎖骨を通り、胸筋の下に指を滑らせていく。
「好き。……誰にも見せたくないくらい」
結翔はうまく言葉が出なかった。代わりに、自分の指で彼女の顎に触れ、そっと顔を寄せた。
唇が触れ合う一瞬前、梢が微かに笑った。
「キスってさ、すごく彫刻的だと思う」
「……どうして」
「キスの前後で、お互いの形が変わっていくから」
その言葉の直後、唇が重なった。熱が、震えが、呼吸が交錯し、視界がぼやけていく。長く、ゆっくりとしたキスだった。触れ合うだけで、世界が研ぎ澄まされるようだった。
空白の三十分のあと、二人はしばらく言葉を失ったまま、工房の隅に置かれた古いソファで横たわっていた。裸のままシーツに包まれ、梢は黙ったまま天井を見つめている。結翔も、その視線の先に何があるのか分からなかった。
ただ、沈黙が満ちていく時間の中で、身体だけは重なったままだった。
「こんなことしたら、どうなるって思ってた?」梢がぽつりと聞いた。
「わからない。ただ、止めたくなかった」結翔は力なく答えた。
「私も止まれなかった」
その言葉に、結翔は少しだけ顔を横に向けた。梢の頬に、ひとすじだけ汗が伝っていた。
「これ、彫刻なのかな」
「うん、私、君に彫られちゃった。身体の奥のほうまで……」
その言葉が、妙にリアルだった。粘土を超えて、肌を超えて、彼女の内側に触れたという実感。結翔は、彼女の手をそっと握った。指先は冷たかった。けれど、その握力は、確かに彼を求めていた。
朝は、思ったより静かだった。
工房の窓の外では、まだ早朝の淡い光が漂っていた。空はやわらかな鉛色で、遠くで鳥の声がかすかに聞こえる。昨夜の熱がまだ残る空間のなかで、結翔はゆっくりとまぶたを開いた。
隣には、梢の背中があった。薄い布を肩までかぶって、静かに寝息を立てている。髪はシーツに流れ、肩甲骨の起伏はまるで彫刻のように滑らかだった。
結翔はそっと起き上がり、服を身にまとった。まだ誰もいない工房の床を、靴音を立てないように歩く。ふと、昨夜ふたりで触った粘土胸像に目が止まる。
そこには、昨夜とは違う表情が宿っていた。少しだけ唇が開いていて、瞳は伏せられ、肌には指の痕が残っている。まるで、誰かに触れられた記憶をそのまま留めているようだった。
「……彫るって、やっぱり触れることなんだな」そう呟いた瞬間、背後から声がした。
「――触れ返されることでも、あるんだよ」
振り返ると、梢が起きていた。シーツを肩にかけ、少しだけ髪が乱れたままの姿で、結翔をじっと見ていた。
「私のこと、覚えてる?」
「……なに言ってるんだよ、当たり前じゃないか」
「じゃあ、この粘土に触れてる君も、私の一部ってことになる?」
「……そうかもな」
梢は一歩、結翔に近づいた。足元には乾きかけの粘土が散らばり、床に刻まれた指の痕が、ふたりの歩んだ夜の軌跡を物語っていた。
「ねえ、また彫ってよ。私のこと」
「彫るたびに、君が変わっていったら?」
「いいよ。変わっていく私も、君の手のかたちで残せるなら」
その言葉は、どこか祈りに似ていた。孤独な彫刻家が、誰かに触れてほしいと願うような。結翔は小さくうなずいた。
「……じゃあ、壊す覚悟もしておくよ」
「うん。私も、壊される覚悟でいるから」
ふたりは、工房で再び並んで座る。そのあいだにあるのは、これまでに交わされた身体の記憶と、粘土に刻まれた熱の名残。言葉は少なく、手だけが確かに互いを伝えていた。
やがて梢は立ち上がり、床に落ちた粘土を手に取る。
「ねえ、これ。君の指で、また形にしてよ」
彼女はそれを結翔に差し出した。ただの粘土の塊。けれどそれは、触れられ、熱を吸った「記憶」だった。結翔はそれを受け取り、指を埋めた。
冷たい粘土のなかに、あの夜の温度が、まだ確かに残っていた。
乾いた粘土にキスをして 木村希 @kimurakkkkk
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