紙の上の人魚

 七星芸大の夏は、湿った鉛色の雲と蝉の声で満ちていた。

 絵画棟の三階、開け放たれた窓の向こうには、屋外プールを見下ろせる。

 プールは伝染病防止のため掃除はされているが、体育の授業や部活動でもほとんど使われることはない。塩素処理をされた青白い水が、今か今かと出番を心待ちにしているような悲惨な状態になっていた。

 しかしその日――プールの縁に少女が立っていた。文芸学科の二年生である黒川葵。白いシャツ、青色のミニスカート。オレンジ色の短い髪を後ろに束ね、目の奥に濃い影を持っていた。

 誰ともつるまず、授業が終わるとすぐに消える。異彩を放つ存在として、文芸学科の学生や教授は彼女の扱いに手を焼いていた。

 その彼女は今、プールの前で立ち止まり、水面に向かって俳句をつぶやいていた。


「深き水 底より見たり 青き空」


 そこに通りかかってしまったのが、春木晴哉だった。絵画科の一年生。実力は平凡で、あまり目立たない。

 それでも熱意だけは本物で、クロッキー帳だけは常に手に持っていた。絵画科の教授は彼の画力を「技術は凡庸だが、観察力には独自性がある」と評していた。


「……今、俳句読んでました?」


 晴哉はうっかり声をかけてしまった。葵は振り返り、じっと彼を見た。


「人魚は、地上じゃ息できないって、知ってる?」

「ふぁ?」


 返答が返答になっていなかったので、春哉は首をかしげた。


「ええと、そもそも人魚っているんですか?」

「いるよ」

「いるとしたら、それはどんな姿なんですか? アンデルセンの『人魚姫』のようなものですか?」

「違う、人魚は私」


 葵はそう言ったあと、ふと笑い、プールの縁をまたいでしゃがみ込んだ。


「絵画科の人、絵を描くの得意なんでしょ。見てて」


 そして、スカートのまま水に足を浸し、そのまま――滑るように入った。

 水がはねた。彼女の身体が、ゆっくりと沈む。

 服のまま、腕を広げて水中で回る姿は、まるで本物の人魚だった。しかしそれは美しさだけではなく、ある種の絶望も帯びていた。春哉には、その両方が見えた。

 春哉は驚いたが声は出なかった。やがて、葵は静かに水面から顔を出して言った。


「水の中 私の身体 めちゃ軽い」


 それは俳句ではなかった。しかし、言葉より正確な俳句だった。

 春哉はその瞬間、彼女の内面に何かが閉じ込められていることを直感した。彼のスケッチブックがすでに開かれ、鉛筆が動いていた。

 葵の水中での姿、水面に浮かぶ髪、滴る服の質感——それらを急いで記録していく。


「描いていいよ。水から上がったばかりの私。すごく、描きにくいでしょ?」


 そう葵は言い、プールから上がると水を滴らせたまま春哉の前に立った。

 春哉の鉛筆は震えた。

「描きにくい」のではなく、「描くべきではないもの」を描いているような罪悪感があった。それでも手は止まらなかった。

 その日以来、葵はプールで泳ぐようになった。春哉が受けている講義の教室の窓から、プールが見えた。葵が服のまま水に入ったのが確認できた。その姿に、春哉以外の学生も気づき始めた。


「ええ……あの人何してるの……」

「服のままプールで一人泳いでる……許可とってるのかな」

「黒川先輩だっけ。文芸学科の友達から聞いたんだけど、なんか『ヤバい人』らしいよ」

「あたし高校で水泳部だったから知ってるんだけど……黒川先輩、中学まではオリンピック代表筆頭候補だったんだよ」

「そうなの!?」

「うん。でも高校で腰を怪我したみたいで……それから音沙汰なかったんだけど、まさかこんなところにいるなんて……」


 学生が次々に噂話を始めるが、春哉は別のことを考えていた。――あの人を描きたい、と。しかし単に外見を写し取るのではなく、彼女の内面、あの「水の中でしか自由になれない」という感覚を描きたかった。

 やがて芸大の事務員らしき人が複数人プールに現れて、葵をプールから引きずり出して連れて行った。その瞬間、窓越しに春哉と目が合った。挑発されているような気がした。

 春哉は彼女を描き続けた。しかし、満足のいく作品には至らなかった。葵の外見は捉えられても、彼女の内面の「水の感覚」までは描けなかった。


 「人を描く時、その人の内面まで表現するにはどうすればいいのでしょう」


 春哉は絵画科の教授に相談した。


「それは、古来より画家たちを悩ませてきた問題だね」


 教授は答えた。自分だけが悩んできたのではないのだと知り、春哉は少し安堵した。


「君が描きたい人物の内面を捉えたいなら、もっとその人に近づき、その人のことを知る必要があるかもしれない」


 その言葉を胸に、春哉は葵を探した。文芸学科の教室の前で彼女を待ち、勇気を出して話しかけた。


「黒川さん、よかったら、もっとあなたのことを知りたいです。あなたを描くために」


 葵は最初は困惑した表情を見せたが、やがて小さく笑った。


「私のこと? それとも、人魚のこと?」

「どちらも、です」


 夏休みの入り口、電車で二時間ほど揺られた先。春哉と葵は、海へ行った。


「海で泳ぎたいの。プール出禁になっちゃったのもあるけど……プールより深くて、濃くて、触れないところまで行けるから」


 葵の発案だった。その言い方に、どこか本気と遊びの境界がなかった。

 海はまだ冷たく、空は曇っていた。けれど、葵はためらいなく服を脱ぎ、ワンピースの下の水着姿を見せた。黒に近い青のビキニ。しかも普通のビキニよりも露出が高い。センシティブな部分だけを隠しているその水着は、ほとんど紐と言ってよかった。

 この人には羞恥心とかないのだろうか、春哉がそう考える間もなく、葵は波打ち際まで走っていく。

 春哉は少しスケッチブックに描き留めてから、やや遅れて海に入った。水は肌を刺すほど冷たかったが、遠くで浮かぶ葵の背は、不思議なほど柔らかく、融けて見えた。


「ねぇ君さ。泳げる?」

「一応……でも深いとこは苦手」

「人魚ってさ、泳げない人間には優しいと思う?」

「わかりません。溺れてる人、助けるのかな」

「それとも、沈めちゃうかも?」


 そう言って、彼女はふいに近づいてきた。足が海底を離れ、水中で脚がすべる。春哉の肩に、濡れた腕がかかる。


「ほら、沈みかけてる」

「……大丈夫。浮いてますよ」

「じゃあ、そのまま描いて。水の中の私を」


 対話を続けながら、春哉は葵の内面を理解しようと努めた。なぜ彼女が自分を「人魚」と呼ぶのか、なぜ「水の中」にこだわるのか。

 さまざまな角度から質問を重ねるうちに、少しずつ葵の人生が見えてきた。

 葵は水泳で圧倒的な成績を残していた。将来はオリンピックで金メダルを取る。中学生のころからそう噂され、彼女の周囲には人が絶えなかった。

 だが、高校生になって蓄積されていた腰へのダメージが爆発し、思うような成績を残せなくなっていった。周囲の人間もだんだんと、また新たなスターを探しに離れていった。中には暴言を吐いて去っていく者などもいた。

 そうして、葵は「自暴自棄」になっていった。自らを「人魚」を名乗り、水泳をやめ、授業をさぼり、孤立した。 

 七星芸大への受験も、そうした「自暴自棄」の一環だった。受験の面接官への回答にすべて「五七五」で返すというものだった。

 当然、葵は合格を期待していなかった。だがこの様子が大学の理事会で大ウケし、彼女を合格させることに決めたのだった。葵は驚きながらも、一縷の希望を抱くようになった。

 ――自分の「言葉」の才能に賭けてみたい。

 それ以来、葵の自暴自棄は一定の落ち着きを見せた。「水泳」と「言葉」で「人魚」になって見せよう……そう志したのだ。


「言葉ってさ、時々私を溺れさせるんだよね」


 葵はポツリと言った。


「頭の中で渦巻いて、重くて……地上では息ができなくなる。でも水の中だと、言葉の重さが消える。だから、私は人魚」


 その告白は、水泳の才能を絶たれた絶望と、詩作の才能に対する希望のせめぎあいによる苦しみを垣間見せるものだった。海から上がると、葵は濡れたまま砂浜に寝そべった。春哉はタオルを差し出すも、彼女は受け取らず、ただ目を閉じた。


「……波の中だと、さ。身体の輪郭がなくなる」

「うん」

「誰かとぶつかっても、それが人か水かわからない。そういう感覚、描ける?」


 春哉は答えなかった。けれど、彼女の足先についた砂を、そっと指でなぞった。その行為が、「描く前の下書き」のように思えた。


「このまま君の家へ行こう、今なら描けるよね」


 海から帰ったその夕方葵はそう言った。髪は濡れたまま、ワンピースも乾ききらず、足元のサンダルだけがキュッキュと音を立てた。

 春哉のアパートは小さなアトリエになっていた。最低限の機材は用意されていた。作品集や美術史の本が積まれた棚、イーゼル数台、絵の具とパレット。

 そして部屋の隅には、彼の習作が何枚も重ねられていた。風景画、静物画、そして――葵を描いた未完成のスケッチが数十枚。

 春哉は自分の創作の挫折を葵に見せた。


「あなたを描こうとしているけど、うまくいかないんです。形は捉えられても、その内側にある水の感覚が描けなくて」


 葵はそれらを静かに眺め、呟いた。


「体は人、言葉は魚。だから言葉と体で表現すれば人魚になる」


 彼女はアパートに入ると、何も言わずに服を脱ぎ、水着姿になりイーゼルの前に立った。


「ほら、水から上がったばっかの私。描くなら今でしょ」


 春哉は頷いた。けれど、鉛筆を持った手はすぐには動かなかった。心の中で格闘していた。単なるヌードデッサンではなく、彼女の魂を捉えたいという純粋な芸術的欲求と、彼女の姿に惹かれる感情的な側面との間で。

 彼女の肌から滴る水が、フローリングに落ちていた。首筋、肩、鎖骨。日差しに焼けて赤くなった部分と、影になった白い部分の差。

 光が波のように身体に貼りつき、彼の目と手を迷わせる。それでも、描き始めた。輪郭は肩から。肩甲骨の起伏、伸び切った背筋、腰のくびれ。葵はまったく動かない。ときおり目を閉じて、呼吸だけが彼女の身体をわずかに揺らす。


「どう? 描けてる?」

「……はい。でも、線が追いつきません」

「何に?」

「――濡れてる、あなたの身体に」


 その返事に、葵は小さく笑った。水着のトップスを下の方へ少しずらして桜色に染まった二つの――……春哉の手が止まる。


「描けばいい 私の中に いる人魚」


 葵はそう言って、絵の途中を覗き込んだ。 指先で、紙の上の線をなぞる。その動きが、紙の上の彼女自身を触るように見えた。

 春哉は手を伸ばし、彼女の髪をひとすくい耳にかけた。水滴が指に触れた。そのまま、ふたりは距離を詰める。言葉はなく、線も止まり、ただ呼吸だけが交差した。水着は脱がさず、そのまま、身体が重なった。

 しばらくの静寂のあと、葵は横たわったまま、髪を絞っていた。春哉は鉛筆をまた取り上げ、横から彼女を描き始めた。


「まだ描くの?」

「……うん。水が乾くまでの身体、いちばん描きたかった」


 アトリエの床に、まだ水の染みが残っていた。それは、葵が立っていた場所と、春哉が鉛筆を落とした場所のちょうど間。タオルを絞ったときにできたのか、それとも――

 誰も確認しなかった。ただ、乾かさずに残してある、ということだけが事実だった。

 以前のスケッチとは明らかに違う手応えがあった。こうして目の前で、葵の内面に触れながら描くことで、単なる形態を超えた何かが紙に現れつつあった。教授が言っていた「観察力の独自性」が、ようやく活きる瞬間だった。

 しばらくの沈黙のあと、葵はイーゼルの傍へ歩み寄り、半完成の絵を見た。そこには水着姿の彼女が描かれていたが、通常のデッサンとは違っていた

 彼女の輪郭が少し溶け、まるで水中にいるような質感を帯びていた。そして背景には、目に見えない言葉の束が波のように彼女を取り囲んでいるように描かれていた。


「これ……人魚じゃん」

「まだ完成じゃないけれど」春哉は答えた。

「少しはあなたの水の感覚に近づけたかもしれない」


 葵は静かに微笑んだ。彼女の目には、理解されたという安堵の色が浮かんでいた。


「次はどこで描く?」


 彼女はブラウスを羽織ると、そう尋ねた。

 それからの数週間、二人は様々な場所で制作を続けた。公営の温水プール、河川敷、ため池、ダム、それから学校のプール(こっそりと)。

 春哉は葵を描き、葵は春哉に詩を聞かせた。互いの芸術表現を交換しながら、彼らは深い理解に達していった。

 そうして展示会では、春哉は「紙の上の人魚」というタイトルの連作を出品した。葵をモデルにした一連の作品だったが、単なる人物画ではなかった。水と言葉と身体の境界が融解する、抽象と具象の間を行き来する不思議な絵だった。

 展示初日、多くの学生や教授が彼の作品の前で足を止めた。


「これは……黒川さんでしょう? でも、なんだか違って見える」

「水の中に溶けているような、でも言葉を生み出しているような」


 春哉は少し離れた場所から、反応を見守っていた。批評は様々だったが、無視されることはなかった。彼の作品は確かに人々の心に何かを呼び起こしていた。

 展示会から数日後、ふたりは何事もなかったように、水族館へ出かけた。

 解剖図や古代の海獣に関する資料が並ぶ通路を進み続けると、展示の奥、ガラスの向こうには本物の水槽があった。その前に立つと、葵はぽつりと呟いた。


「海の中じゃ、声って届かないんだって。ほとんどが振動になるらしい」

「じゃあ、人魚が歌うってのは嘘なんだね」

「聞こえないけど届くって意味かもよ」


 その言葉に、春哉は何も返さなかった。ただ、ポケットから折りたたんだスケッチブックを取り出した。

 開かれたページには、濡れた髪と肌の質感をそのまま残した、葵の横顔。目を閉じ、唇の端だけがわずかに上がっている。

 葵は一枚めくり、もう一枚見つけた。そこには、広がる脚、のけぞる背中、艶かしく喘ぐ表情......。


「これ、いつ描いたの?」

「あなたを知った直後……描かずにいられなかった」

「このときの私、たぶんまだ水の中にいたかな」

「うん」


 帰り道、葵は自販機で水を買った。ペットボトルを受け取った手が冷たく、そのまま春哉の頬に押し当てる。


「まだ熱、残ってるよ。ちょっとだけ」


 春哉は笑って、ペンを胸ポケットに差しなおした。


「……じゃあ、その熱が消える前に、また描く」

「また濡れたら呼ぶよ。水の中の私、すぐ逃げるから」


 季節が変わっても、ふたりのクロッキー帳の片隅には、乾ききらない線が時おり残っていた。水を描いた記憶。肌をなぞった線。それはもう、紙にだけ生きている人魚だった。


「人魚姫 泡の行方は 紙の上」


 あなたを描くたび、少しだけ湿っていた。あの日の水が、まだ抜けきらないままで。

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