その十六


    *


 その華奢な体格とは裏腹に、軽快な足取りで石階段を駆け上がるハナの脚力は、村中を駆け回っていた延蔵を凌駕するものであった。


 延蔵の手を引いていたハナは興味を惹かれる何かを感じ取ったのか、「じゃあ、またね」と呟くと、梢の小鳥を狙う野良猫のらねこのような跳躍で、視界を覆う白い霧の中へと姿を消してしまった。


 鍛えた両足を必死に回転させる延蔵は後方を確認した。自分がくぐった鳥居はすでにその輝きを失い、米粒くらいの大きさとなって霧の中に消えようとしている。


 四方の視界が遮断された延蔵に残された選択肢はこの石階段を走破することだけであった。


 いったい何時まで同じ景色を見ていたのか。終わりのない運動でその足に痛みを覚え始めたころ、ついに延蔵は霧の切れ目にもう一基の白い鳥居と石階段の終点を見た。


 敷かれた石階段は一段上るごとにひび割れや苔が目立つようになり、自然との境界線が近いことを予感させた。


 やがて霧は晴れ、石階段を上り詰めた延蔵の前には深々とした緑の光景が広がっていた。


 大きく膨らんだ入道雲は山肌を掠めるように泳ぎ、青空に昇る太陽はきらきらと朝の訪れを告げている。


 延蔵は雨露の匂いがする空気を目一杯に吸い込み、一度限りの試練に挑む覚悟を決めた。


「あーあ、やってらんねえ」


 それは先に到着した挑戦者の男がこぼした愚痴であった。


 男は気怠そうに頭を掻きながら、今まさに上ってきたばかりの石階段の方へ引き返そうとしていた。


「君、挑戦はどうするんだ?」


 延蔵は思わず男を引き留めた。


「そんなもん棄権するに決まっているだろ。はっきり言って時間の無駄だ。お前もさっさと見てくるといい。そして、お前が抱いた夢は単なる若気の至りだったと素直に諦めることだ……ほかの奴らみたいにな」


 男は右手の親指で自分の背後を指差した。


 その方に目をやると、試練の山に入っていた挑戦者たちが口々に不満を弄しながら、ぞろぞろと引き返してくるのが見えた。


「挑戦は始まったばかりじゃないか。今すぐ棄権する必要は――」


 延蔵はそこまで言って口を噤んだ。先ほどまで話していた男はすでにそこから立ち去っていた。


 それから、何人もの挑戦者が白い霧の中へと消えていった。


 延蔵は誰もいなくなったこの場所で思考を巡らせた。


 風次郎とハナ、引き返していく者たちの中に二人の姿はなかった。おそらく今も宝石のうさぎを求め、山の中を駆け回っているに違いない。


 延蔵は汗ばんだ手を合羽の裾で拭い、鉄檻の取っ手を握り直した。


 そして、枝葉の隙間に見える僅かな獣道を頼りに試練の山の中へと進んでいくことにした。


 少し歩いて、延蔵は早々に目的を達する機会を得ることとなった。


 茂みの中からひょっこりと大きな赤いうさぎが顔を出したのである。


 それはまさに延蔵が思い描く理想のうさぎであった。


 延蔵の胸は夢を掴むことへの期待と緊張で大きく高鳴った。


 ルビーのうさぎとの距離は三間一尺。延蔵は葉音一つ立てぬよう抜き足差し足で近づいていく。手の届く所までにじり寄った後、奴の首根っこを掴んで、必ずこの大きな鉄檻に放り込んでみせる。彼は頭の中で何度もその動作を繰り返した。


 ルビーのうさぎが延蔵の存在に気付いた。二つの大きな耳をぴんと立たせ、じりじりと近づいてくる彼の動向を、その宝石のような目でじっと捉える。


 一歩、また一歩とルビーのうさぎとの距離は縮まっていく。息は詰まり、心臓が強く体を打ちつける……残り一尺半、時が止まったような遅々の動きでうさぎの首元に手を伸ばしていく。


 相手は変わらず逃げる様子がない。延蔵は捕獲が成功することを確信した。


 しかし、延蔵の手中にルビーのうさぎが収まることはなかった。


 延蔵の指先が赤く煌めく体毛に触れる刹那、その標的は忽然と姿を消してしまったのである。


 延蔵は硬直し、激しい焦燥と不快な汗が体の内側から噴き出すのを感じた。


 朝日に輝くルビーのうさぎは間違いなく目の前にいた。これは紛れもない事実だ。僕の右手は確実に奴の首根っこを掴もうとしていたんだ。


 呼吸が乱れ、心臓が破裂するほどの速さで打ちつける。


 延蔵は先ほどまでルビーのうさぎがいたはずの場所に目を凝らした。


「……やっぱりここにいたんだ」


 延蔵は呟いた。


 少し湿った黄褐色の地面には小動物が蹴り上げたような足跡が残っていた。


 進行方向と思われる方へ目をやると、山奥へと続く獣道をなぞるように、きらりと光る赤い点が、打ち出された弾丸のような速さで駆けていくのが見えた。


 それは一瞬の出来事であり、延蔵はその状況を目の端で捉えるのが精一杯であった。


 延蔵は、早々に引き返していった挑戦者たちの心中を察した。


 この試練を乗り越えるのは、容易ではない。猛速で駆けるうさぎを追って山の深奥へと入っていけば、どのような末路を迎えることになるのか。きっと試練の山から降りてこなかった挑戦者たちは血眼になって宝石のうさぎを追走し、そして、日が暮れて宝石のうさぎが姿を消した後は力尽きるまで、この深い山の中をさ迷い続けたのであろう。


 宝石のうさぎを捕らえるはずが、捕らわれてしまったのは、自分の方であったと、試練の山に慟哭しながら。

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