或る旧友の話

 あぁ、本当に久しぶりだね。最後に会ったのが高校の時だったから、もう三十年以上になるのか。お互い随分歳をとったものだね。僕なんかは特に運動もしてこなかったものだから、最近はろくな目にあっていないよ。この間なんかちょっと走りに出ただけで転けてしまって。うん、まだ五キロも行ってなかったと思うんだけどね。まさかこの歳で転んで血を出すなんて、流石に少しこたえたよ。

 なんて、せっかく久々に会ったのにこれじゃあ虚しくなってしまうだけだね。少し違う話をしようか。そうだな、やっぱり高校の話なんてどうだろう。いや、実はね、少し話したいことがあるんだよ。同じ高校だし、君なら何か分かってくれるかもしれない。いいかな?まぁ何のことかも分からないだろうから、とりあえず聞いてみてくれよ。

 

 話したいのは、高校最後の夏のことさ。あの頃、僕たちの学校にはまだクーラーなんてのも付いていなかったから本当に暑かったね。クラスの奴らもよく溶けそうな顔をして授業を受けていたのを覚えているよ。まぁ、もう随分前にはなるけど、君はあいつのこと覚えてるかな?ほら、野球部で主将をやっていた。そうそう、そいつだよ。生真面目で固いやつだったけどね、あの時僕はあいつと結構仲良くやってたんだ。大体、周りは女の子の話か、酒かタバコの話ばかりだっただろう?当時の僕は正直女の子に特に興味もなかったし、教室で悪行について大っぴらに語るような奴ともあまり関わりたくなかったんだ。恥ずかしい話、そういうフリをしたいというのも少しはあったんだけどね。正直僕もかなり擦れてたところはあったと思うけど、まぁとにかくああいうのはあまり好きじゃなかったな。


 そうだな、確かあの時は夏休み前の最後の授業を終えて、あいつと一緒に帰ろうとしていたんだ。野球部は忙しそうだったけど、空いてる時はよく一緒に帰っててね。その日は先生の長話か何かで僕のクラスがたまたま遅く終わって、僕はそれからすぐにあいつと帰ろうとしたんだ。でも、それが全然見あたらなくてね。それですぐにあいつのクラスに行って残ってた奴に聞いてみたんだけど、随分前に出ていったって言うんだよ。これは困ったなぁと思ってね。なにしろあいつは生真面目だからさ、先に帰るなんてするはずないんだ。それに、今までは僕のクラスが遅くてもあいつは廊下か教室で待っていたしね。だからその時はただ不思議に思ってあちこち見てみたんだよ。靴箱とか、グラウンドとかね。でも、それでもどこにもいなかった。靴箱には既に上履きが入れられていたし、グラウンドはがらんとしていて、野球部どころか、他の部活もその日は全て休みのようだった。

 まぁそれで一通り確認した僕は、きっと急用でもあったんだろうと思ってそのまま帰ることにしたんだ。特に変に思うこともなくね。

それで自転車に乗って帰ってたんだけど、その時の蝉の鳴き声がまた異様だったんだよ。君は蝉の鳴き声がたまに物騒に聞こえたりしないかい?あいつらは喉が擦り切れんばかりに声を出してさ、僕はあの中にはどこか自虐的な、そうだな、それこそ断末魔の叫び声のような、溢れんばかりの苦痛と狂気が含まれてるようにしか聞こえない時があるんだよ。考えすぎだって?まぁそうかもしれないね。僕も最近はあまり思わなくなったけど、でも、その時は本当にそれが怖くてさ、なんだか嫌だなぁと思って、早く家に帰ろうと自転車を飛ばしたんだ。

 僕の家は結構学校から遠くてね。ニ、三十分自転車を漕いで、最後に川にかけられた橋を渡ってようやく着くような場所さ。君は何度か一緒に泳ぎに行ったことがあるからどこの川か分かるだろう?あの川は大きすぎず小さすぎずでさ、流れも緩やかで特別汚いわけでもなかったし、何よりすごく深かったから、学生なんかはそこら辺のプールよりもよほど通ってたよね。僕なんかは家が近かったから、夏になれば毎日のように通っていたな。

 

 いけないね、ついつい話が外れてしまう。いや、すまないすまない。まぁそう言わずに聞いてくれよ。話の本題はここからなんだ。

それは僕が橋を渡ってやっと家に着こうかという時だったんだけどね。ふと川の方を見たら、川沿いの土手にあいつがいたんだ。学校のどこにもいなかったあいつがね。あいつはカバンも持たずに、野球帽だけを片手に握ってただ座ってたんだ。僕は驚いてね。すぐに漕ぐのをやめて呼びかけたよ。おーいってね。でも遠かったし、あいつは気づいていないみたいだった。だから僕はすぐに方向転換してあいつのいる方に向かったんだ。なんでこんなところにいるのかとか色々聞きたかったし、せっかくだからそのまま二人でどこかに遊びに行ってもいいと思ったしね。

それで、急いで自転車を停めてあいつの方に向かったんだよ。ザクザク草を踏む音で気付いてもいいのに、あいつはまだ気がついていないみたいだった。それで僕はいよいよ真夏の熱にやられでもしたんじゃないかと心配になって、まだそう近づかないうちに大きめの声をかけたんだ。「おい。」ってね。


 あいつはゆっくり振り返って、僕はその瞬間思わず足を止めたよ。一瞬どくりと心臓が嫌な感じに跳ねてね。息を吸うことさえ、束の間忘れたな。


あいつはね、涙を流していたんだよ。


 目を裂けそうなくらいに見開いて、辛苦と狂乱が入り混じった顔をしたあいつが、じっとこちらを見ていたんだ。僕は驚いて、それ以上に怖くなって、何も言えなくなったよ。それは初めて見る人間の顔だった。普通に生きていては到底見れないような種類の顔だったんだ。

それにあいつは何も言わなかった。ただ涙をぼたぼたと落として、黙ってこちらを見ているんだよ。最初に遠くから見た時汗だと思っていたものは、全て涙だったんだ。


 まるで別人だった。そこにはいつものあいつらしい毅然とした表情も、人間らしい頬の赤みさえもまるで存在しなかった。それに気付くと僕はますます恐ろしくなって、もう目の前にいるのが一人の友であるのも忘れて、とにかく逃げたくなったんだ。

 それでどうしたんだって?まぁそう焦らないでくれよ。僕はその時、もちろん逃げられるような状態じゃなかった。今思い返すとかなりひどかったな。足は少し震えていたし、呼吸だってきっとうまくできていなかった。だからその時はとにかく身体中の全ての力を振り絞ってぎゅっと目を瞑ったんだ。最初の方は瞼の裏にもまだあいつの顔がへばりついていたけど、まだ直接見るより幾分かはマシだったさ。あぁ、そういえばその時も蝉の声がよく聞こえてさ。相変わらず自虐的で、ずっと聞いてると頭がおかしくなりそうだったけど、もうその時は必死だからね。とにかくあいつの顔を一刻も早く瞼の裏から拭い去りたくて、蝉の声にじっと意識を向けていたんだ。そうしたらね、だんだんと蝉の声が耳に馴染んで、そこら辺をうろつく鳩や猫の鳴き声みたいに、少し丸みを帯びて聞こえるようになってきたんだよ。もう何分、何十分そうしていたか分からないけど、もうその時には呼吸も足の震えも随分治まっていてね、それで僕はゆっくり目を開けてみることにしたんだ。本当に少しずつね。

 目を開けると、まず夕暮れのギラギラした日差しが目に突き刺さって、それからすぐに草の上に転がっているあいつの野球帽が目に入ったんだ。

 僕はそれが目に入った途端目が覚めるような思いで急いで周りを見渡したよ。でも、もうどこにもあいつはいなかったんだ。川は夕陽を反射して、ドロドロと固まっているように見えた。すごく熱そうで、水なのに触れれば大やけどしてしまいそうだったよ。蝉は鳴き、野球帽は草の上に転がり、僕は呆然と立ち尽くしていた。あいつだけが、いなくなっていた。僕は夢を見たような気持ちだったよ。日が沈んで夜になって、僕はようやく動くことができた。野球帽を拾ってよろよろ歩いて帰ったよ。自転車のことさえ忘れていたな。


 おいおい、そう黙らないでくれよ。君もこの後は知ってるだろう?それにしても、あいつはなぜ涙を流していたんだろうね。もしかしたら先生に呼び出されて小言を言われたのかもしれないし、好きな女の子に振られた後だったのかもしれない。まぁでもそれはどうやったってあいつにしか分からないだろうな。でもね、僕は思うんだ。あいつはそういった時に生じる、センチメンタルみたいなものにやられたんじゃないかってね。人は誰でもそういう時がある。悲しい自分、心を病んでいる自分、そういう感傷的になっている自分に酔っている時がね。でも、そういったものはまともに向き合ってはいけないんだ。その意味を、その真意を見ようとしてはいけない。だって、そうしようとした途端にそいつは豹変して、あっという間に自分を乗っ取り、蝕み尽くしてしまうからね。

 ただあいつは生真面目だから、きっとそれに向き合ってしまったんだろうな。気の毒だが、きっとそれだけのことだったのさ。

 あぁ、あの僕の視線の先にいたマグマのようなドロドロとした液体の底で、センチメンタルに閉ざされたあいつは一体何を考えていたのだろうなぁ。後から聞いた話では、もっと前に沈んでいたというから、僕が見たのは本当に夢だったのかもしれない。

 あぁそうだ、野球帽なら今も玄関に飾っているよ。自分への戒めさ。僕までセンチメンタルに食い尽くされないようにね。

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受験生 短編小説 @sinkeinosekai

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