花束と老人

花束を持った老人を見た。


 あれは受験を控えた年末だったか、夜まで塾に籠っていた僕は退勤ラッシュの電車に体を押し込み、クタクタになって駅を出た。そしてそこで、ある老人を見たのだ。

 最近駅の目の前に置かれた、新しいもののこぢんまりとしているベンチ。そこに老人はぽつりと座っていた。大きめのジャケットにハンチング帽、どれも使い込まれているのか、ヨレヨレだった。ただ、それはとても良い意味でその老人にすごく似合っていた。品がないとか古びているとかそう言ったものではなく、何年も修行をした職人の皮の厚く程よく皺の刻まれた手のような不思議な安心感と重厚感を程よく含んでいるようだった。

 なんだろう、僕はその時疲れきっていて早く帰りたかったはずだった。それなのに、その老人にひどく気を惹かれた。いつもの早足もその時はいつの間にかゆるまっていた。

 それは老人の持っている花束に目が止まったからかもしれなかった。花束もまた、老人にすごく似合っていた。煌びやかに浮き上がることもなくて、かと言って萎れているわけでもなかった。そこが居場所だというように、老人の膝の上に静かに収まっていた。くつろいで眠っている猫のようなちょっとした暖かささえ、そこからは感じれるようだった。

 老人はじっと前を見ていた。遠かったからかもしれないけれど、そこからは感情といったものがまったく読み取れなかった。光っているわけじゃなかった。ただ、虚でもなかった。その目ははっきりと開かれ、どこか一点に据えられていた。とても印象的な目だと、なぜかそう思った。

 きっと僕がその老人を見たのはほんの数秒で、それなのにその姿がしばらく僕の頭から離れなかった。老人の姿が見えなくなっても、家に帰ってご飯を食べても、布団に入っても、ごく自然に、僕の頭には老人の姿が鮮明に浮かび上がった。

 あの人は、誰かを待っていたんだろうか。そしてあの花束は、その誰かへのプレゼントだったんだろうか。去り際、老人に腕の中で控えめに揺れるマリーゴールドを見た。今ではだんだん薄れている老人の姿とは裏腹に、一瞬しか見えなかったそれは、なおますます鮮明に思い返すことができた。とても鮮やかで美しい、咲きかけのマリーゴールドだった。

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