第6話
廃屋で死んでいた、今も身元がわかっていないという男。
名前も年齢も、どこから、何のためにこの町へやって来たのか、わかっていない男。
陽菜と関谷亮二が見つかった空き家で死んでいた男を、ほたるは知っていた。
陽菜の連れ去り事件が起きる三、四日前だったろうか。
学校から戻り、いつもように鉄工所の壁に面した階段を二階へ上がろうとしたとき、作業場の奥から、聞き慣れない声がした。
それまでにも、作業場に見慣れない人が訪れることはよくあった。父親が死んでから、銀行員やそれに類した男が、頻繁に訪れるようになっていたからだ。
もともと、父が起こした鉄工所は、経営が順調というわけではなかった。
そんな状況を、当時のほたるがわかっていたわけではない。母の表情と、夕食のおかずで、なんとなく自分の家の経済状況を察していただけだ。
姉の凛の影響も大きかった。
凛は、神妙な顔つきで、鉄工所の経営状態を教えてくれたものだ。
――三和精工が、うちに無理な注文をしてきたんだよ。
三和精工は、大手メーカーのすぐ下の部品会社で、下請けといっても、社員も何十人といる大きな鉄工所だった。
――だから、お父さんは、夜中まで作業場にいなきゃならないの。夕御飯はお肉なしのすき焼きになっちゃうの。
そんな話を、凛は、脅すような目つきでほたるに話して聞かせた。
おそらく凛は、大人の話を聞きかじってほたるに伝えていただけだろう。
凛は当時十歳。小学四年生だった。
賢くて目はしのきく少女だったといっても、だからといって、大人の事情がわかるはずがない。
そして、陽菜の連れ去り事件の前日のことだ。
早朝、ほたるは凛に起こされた。
――大変だよ。作業場に、昨日のおじさんが来て、お母さんが泣いてる。
前日、母は夕食時になってもまだその男と話し込んでいた。心配になって、凛とともに一階に下りる階段の途中まで行き耳をそばだてた。
時折、母がすみませんと謝る声や、男の怒鳴り声が聞こえたが、大きな声を出したと思うと、二人は声をひそめ、何の話をしているかはわからなかった。
わかったことといえば、母がとても困っているということ。見知らぬ男がひどく腹を立てていることだけだった。
階段は狭く、古くて、足を乗せるとギシギシと音を立てた。そっと足のつま先を踏み板に置き、ほたるは凛と手をつないで、もっと話を聞くために下へ下りていった。
どうにか作業場のドアの前までやって来て、わずかに開いた隙間から、そっと作業場を覗いた。
作業場の隅にあるプレス機の前で、灰色のジャンパーとズボンを穿いた男が、色の薄くなったチェックのエプロンをしている母に、覆いかぶさるようにして怒鳴っていた。
どうやら、見知らぬ男は、死んだ父親にかなりの金額の金を貸していたようだった。それは、父が鉄工所を開くために借りた金のようだった。
鉄工所を始めるに当たって、父は開業資金を親戚から借りたと、母は聞かされていたのだという。
――秋定さんに借りていたとは知りませんでした。
母が泣きながらそう言う声が聞こえてきた。
男の名前は秋定というらしかった。ほたるは凛と顔を見合わせた。初めて聞く名前だった。
ふいに男が、顔を歪め、両手を自分の顎の下へ持っていった。
――俺はね、今、ここまで水が来てる状態なんだよ!
白髪交じりのくしゃくしゃの髪と、汚れた赤茶けた顔。目がぎょろりと大きくで、顎にはまだらに髭が生えていた。
母はふたたび体を折って、すみませんと、何度も繰り返した。
すると男は、もう、声をひそめる気もなくしたようで、謝ってもらっても仕方ないんだよと怒鳴った。
――明日までにはなんとかしてもらいたいんだよ。そうしないと、俺はもうおしまいなんだ。明日、もう一回来るから、それまでに……。
声が尻すぼみなったが、男の声は最後まで聞き取れた。
「お母さんを助けなきゃ」
凛を見上げると、唇を噛み締め、目を光らせていた。
そう。
凛の言うとおりだ。
お母さんを助けなくちゃならない。
だが、どうやって?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます