第2話:カフェテリアのハラールと十字架
小説「where.is.love」
第二話:カフェテリアのハラールと十字架
フェスティバルの全体ミーティングから数日が経った。昼休みの喧騒が満ちるクロスロード国際大学の広大なカフェテリアで、高橋健太は山盛りの唐揚げ定食を前に、どこか浮かない顔で箸を動かしていた。先日のミーティングで、自分が良かれと思って放った言葉が、思いがけず引き起こした波紋。それが今も心の底に小さなしこりのように引っかかっていた。
「健太、どうしたんだよ。眉間にシワが寄ってるぜ」
聞き慣れた陽気な声に顔を上げると、ラージ・クマールがベジタリアンカレーのプレートを手に立っていた。その屈託のない笑顔は、いつも通り太陽のようだ。
「ラージか…。いや、別に元気がないわけじゃないんだけど」健太は曖昧に笑ってみせた。「ただ、この前のミーティングのこと、少し考えてて。僕の提案、みんなを困惑させちゃったかなって」
「そんなことないよ! むしろ、すごくいい議論のきっかけになったじゃないか」
ラージは健太の向かいの席にひょいと腰を下ろし、ターメリックの黄色が鮮やかなカレーをスプーンで混ぜながら言った。「みんな、自分の信じていること、大切にしていることを真剣に話してくれた。僕はすごく面白かったけどな」
「面白い、か…」健太は唇を噛んだ。「僕は、みんなが同じ方向を向いて、一つの目標に進めるような、そんなスローガンにしたかったんだ。愛と平和って、誰にとっても良いことだろ? そう信じてたんだけど…」
彼の声には、戸惑いが滲んでいた。牧師である父から教えられた「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を胸に、全ての人と手を取り合える世界を夢見てきた。その理想が、こんなにも簡単に共有されない現実は、彼の純粋な信念を静かに揺さぶっていた。
ラージは穏やかに言った。「健太の言う『愛と平和』はもちろん素晴らしいよ。でもね、そこに至る道筋とか、その言葉から感じるイメージとかは、人それぞれ違うんじゃないかな。例えば、僕にとっての平和は、心の静けさ、調和(サンティ)なんだ。それは、毎朝のヨガや瞑想を通して、自分の内側に見つけ出すもの。健太の言う、社会に働きかけるような平和とは、少しニュアンスが違うかもしれないだろ?」
「内側に見出す平和…」健太はラージの言葉を反芻した。それは、自分が今まで考えてきた「平和」とは全く違う手触りの言葉だった。
その時、二人のテーブルに、アハマド・ハッサンが静かに近づいてきた。彼は、ハラール認証の緑のマークがついたチキンサンドイッチとサラダのトレーを持っている。
「高橋さん、ラージさん、こんにちは。隣、よろしいですか?」
「アハマドさん! もちろんです、どうぞ」健太は背筋を伸ばし、少し緊張しながらも笑顔で迎えた。
アハマドは静かに席に着くと、食事を始める前にほんの僅かな時間、目を閉じ、小声で何かを唱えた。それは、食事を与えてくれた神(アッラー)への感謝の祈りだった。その厳粛な一連の動作に、健太は文化の違いという言葉では片付けられない、信仰の深さを見せつけられた気がした。
ラージが朗らかに口火を切った。「アハマドさん、先日は鋭い指摘をありがとう。おかげで、僕も色々考えさせられたよ」
アハマドは穏やかに頷いた。「いえ、私こそ、皆さんの貴重な意見を聞くことができ、有益でした。ただ、高橋さんには、私の発言が少し批判的に聞こえたかもしれません。もしそうであれば、申し訳ありません」
「いやいや、そんなことは!」健太は慌てて手を振った。「アハマドさんの問いかけは、本当に大切な視点だと思いました。僕が…単純すぎたんです」
アハマドは少しだけ表情を和らげた。「単純というわけではないと思います。ただ、言葉というものは、時として意図しない形で他者の心に届くことがあります。特に、私たちのように異なる文化的背景を持つ者が集う場では、より慎重な配慮が必要になるのでしょう。例えば、イスラムにおいて『平和(サラーム)』はアッラーの美しい御名前の一つであり、ムスリム同士の挨拶でもあります。それは、神の庇護のもとにある、完全な安寧の状態を意味します。これもまた、ラージさんの言う『心の静けさ』や、高橋さんの目指す『社会的な平和』とは、同じ言葉でも異なる深みを持つかもしれません」
アハマドは、サンドイッチを一口食べ、丁寧に咀嚼してから続けた。「フェスティバルは、相互理解を深める絶好の機会です。だからこそ、スローガンのような象徴的な言葉は、できる限り多くの人が共感し、誤解なく受け止められるものが望ましい。そう考えたのです」
彼の理路整然とした言葉には、棘のかけらもなかった。そこにあるのは、彼の信仰に基づく誠実さと、このイベントを成功させたいという純粋な願いだけだった。健太は、自分が彼の意図を全く誤解していたことに気づき、頬が熱くなるのを感じた。
「アハマドさんの言う通りですね…」健太は呟いた。「僕、もっと皆さんのことを知りたいです。アハマドさんの信仰のこと、もっと教えていただけませんか?」
アハマドは少し驚いたように健太を見たが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「私でよければ、喜んで。ただ、イスラムは広大で深い海のような教えです。私一人の知識では、その全てを語り尽くすことはできませんが」
その時だった。パスタとサラダのトレーを持ったマリア・ロッセリーニが、健太たちのテーブルの近くで立ち止まった。彼女は辺りを見回していたが、他に空いている席も少ないのだろう、健太たちを見つけると、一瞬、躊躇うような表情を見せた。その白いブラウスの胸元で、小さな銀の十字架が控えめに光を反射していた。
ラージが彼女に気づき、気さくに手を振った。「マリア! こっちこっち、席空いてるよ!」
マリアは少しだけ眉を寄せたが、観念したように小さくため息をつくと、彼らのテーブルにやってきた。
「…お邪魔するわ」
マニアックな男たちの集まりに割って入るような、少し皮肉の混じった声色でそう言うと、彼女は健太の隣に腰を下ろした。ふわりと、彼女からフローラルな香りがした。
健太は緊張で少し乾いた喉を潤しながら、マリアに話しかけた。「マリアさん、先日はありがとうございました。マリアさんの意見も、すごく参考になりました」
マリアはフォークでパスタを器用に巻きながら、健太を一瞥した。「別に、あなたのためを思って言ったわけじゃないわ。カトリックの信徒として、言うべきことを言っただけ。私たちの信仰にとって、『愛』はそんなに軽い言葉じゃないの。それは、イエス・キリストが、あの十字架の上で私たちの罪のためにご自身を捧げられた、究極の自己犠牲の愛。神の無限の愛の現れなのよ」
彼女の言葉には、揺るぎない確信があった。その小さな十字架は、彼女にとって単なるアクセサリーではなく、信仰の核心であり、日々の祈りの対象なのだ。健太は、同じキリストを信じると言いながら、プロテスタントである自分とは違う、伝統と秘跡の重みをひしひしと感じた。
すると、アハマドが静かに口を開いた。
「マリアさんの仰る、イエス・キリストの自己犠牲の精神は、私たちイスラム教徒も、偉大な預言者イーサー(イエス)の教えとして深く尊重しています。ただ、彼を神の子として崇拝することは、神の唯一性(タウヒード)という、私たちの信仰の根幹に反するため、受け入れることはできません。しかし、彼が人々に示した愛や慈悲の精神は、時代や文化を超える普遍的な価値を持つものだと理解しています」
アハマドの言葉は、敬意に満ちていたが、同時に譲れない一線を明確に引いていた。
マリアは驚いたようにアハマドを見た。カフェテリアの喧騒が、一瞬遠のいたように感じられた。
「…そう。預言者として、ね。私たちにとっては、彼は神であり、救い主だけれど」
彼女の声には、氷の破片のような、わずかな棘が含まれていた。
健太は、二人の間に漂う、目に見えない微妙な緊張感を感じ取り、どうしたものかとラージに救いを求める視線を送った。ラージは、いつものように穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は注意深く二人を見つめていた。
その静寂を破るように、ラージが言った。
「いやあ、でもすごいよね。健太はイエス様の愛を語り、マリアはイエス・キリストの愛を語る。そしてアハマドさんは、預言者イーサー様の教えを尊重している。呼び方や捉え方は違うかもしれないけど、みんな何かすごく大きな、大切なものを共有してるんじゃないかな?」
ラージの言葉は、対立する二つの真実を、そっと大きな手で包み込むような、不思議な響きを持っていた。
マリアは「ふん」と鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。アハマドも静かに頷き、自分の食事に視線を戻した。
健太は、この賑やかなカフェテリアの一角で交わされる会話が、まるで世界の縮図のように感じられた。異なる信仰、異なる価値観。ハラールチキンと、ベジタリアンカレーと、唐揚げと、パスタが、一つのテーブルに並んでいる。ぎこちないけれど、こうして同じテーブルを囲み、言葉を交わすことができる。それ自体が、小さな奇跡なのかもしれない。
「皆さん…」健太は改めて口を開いた。「今日の話を聞いて、僕、もっと皆さんのことを知りたいと強く思いました。フェスティバルのスローガンも、きっともっと良いものにできる気がします。次の実行委員会のミーティングで、また皆さんの意見を聞かせてくださいませんか?」
マリアは少し考えてから、フォークを置き、挑むような視線を健太に向けた。
「…気が向けばね」
アハマドは静かに頷いた。「ええ、喜んで協力します」
ラージはにっこりと満面の笑みで言った。「もちろんさ! 面白くなってきたじゃないか!」
健太の心に残っていた小さなしこりは、まだ完全には消えていない。しかし、その代わりに、新たな興味と、そして確かな希望の光が芽生え始めていた。異なる祈りが交差するこの場所で、もしかしたら本当に「ハーモニー」が生まれるかもしれない。そんな予感が、彼の胸を温かくしていた。
(第二話 了)
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