where.is.love
志乃原七海
第1話:交差する祈り、響き合う異論
小説「where.is.love」
第一話:交差する祈り、響き合う異論
春の陽光が、真新しいガラス窓から斜めに差し込んでいる。
クロスロード国際大学、大講義室。新学期の喧騒がまだ熱を帯びて残るこの場所で、学内最大のイベント「ワールド・カルチャー・フェスティバル」の全体ミーティングが始まろうとしていた。様々な言語の私語が飛び交い、期待と高揚感がホールを満たしている。
ステージの中央に立った実行委員、高橋健太は、マイクを握り、集まった学生たちの顔をぐるりと見渡した。張りのある声が、スピーカーを通して響き渡る。
「――以上を踏まえ、僕たちが提案する今年のフェスティバルのスローガンは、『愛と平和で繋がる世界! 多様性のハーモニーを奏でよう!』です! 皆さん、いかがでしょうか!」
一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が湧き起こった。健太の屈託のない笑顔と、言葉に込められた前向きなエネルギーは、多くの学生を惹きつける力があった。プロテスタントの家庭で育ち、ボランティア活動に青春を捧げてきた彼にとって、「愛」と「平和」は疑いようのない絶対的な善であり、それを世界に広めることは自らの使命だと信じていた。その純粋な情熱が、拍手の中で誇らしげに彼の胸を張らせた。
拍手が緩やかに波のように引いていった頃、後方の席から、丁寧だが芯のある声が響いた。
「高橋さん、素晴らしい提案だと思います。ただ、一点だけ、少し確認させていただいてもよろしいでしょうか」
声の主は、アハマド・ハッサン。中東からの大学院生で、工学を専攻している。すっと伸びた背筋と落ち着いた物腰。彼が発言すると、その周囲のざわめきが自然と吸い込まれるように静かになった。イスラム教徒である彼は、日々の礼拝を欠かさず、その知的で穏やかな言動には、常に神(アッラー)への深い信仰が滲み出ていた。
健太は満面の笑みで応じた。「もちろん! アハマドさん、どうぞ。どんなことでも遠慮なく」
「ありがとうございます」アハマドは小さく頷いた。「その『愛』という言葉ですが、非常に広範な意味を持つと同時に、文化や宗教によって捉え方が大きく異なる場合があります。例えば、我々ムスリムにとって、最も根源的で絶対的な愛は、唯一なる創造主アッラーに対するものです。そして、そのアッラーの無限の慈悲(ラフマ)と公正(アドゥル)の教えに基づき、家族や隣人、そして全ての被造物に対して善意をもって接することが求められます。このスローガンが、そうした多様な愛のあり方を内包しているのか、それとも特定の価値観、例えば西欧的な博愛精神を前提としているのか、少し確認させて頂きたく思いました」
彼の言葉に、非難の色はない。ただ、真理を探究する学者としての真摯な問いかけがあった。アッラーがクルアーンを通して示した道こそが唯一の真理であり、その言葉を軽々しく扱うことへのためらいが、彼の揺るがない瞳に表れていた。
健太は一瞬、言葉に詰まった。考えたこともなかった視点だった。しかし、すぐに笑顔を取り戻して答える。
「なるほど、ご指摘ありがとうございます。僕の意図としては、もちろん、あらゆる形の愛を包括したつもりでした。キリスト教で言う『アガペー』、無償の愛のようなものも、アハマドさんの仰るアッラーへの愛や隣人愛も、きっと根っこでは繋がっているんじゃないかと……」
その時、別の手がすっと挙がった。イタリアからの留学生、マリア・ロッセリーニだ。芸術学部で学ぶ彼女の、華やかな容姿と情熱的な身振りは、常に人の目を惹きつける。
「健太の言うこともわかるわ。でも、アハマドの問いはとても重要よ」
マリアは立ち上がり、その場の空気を支配した。カトリックの家庭で育ち、今も日曜のミサを欠かさない彼女にとって、信仰は美意識や家族観と分かちがたく結びついている。
「私たちカトリックにとって、『愛(アモール)』は神そのものなの。それは父と子と聖霊、三位一体の神の交わりであり、その愛は教会という共同体を通して私たちに与えられる。結婚も神聖な秘跡であり、神の前での愛の約束。だから、スローガンで安易に『愛』と言うなら、その言葉が持つ二千年の重みと、私たちの信仰における神聖な意味を軽んじてほしくないの」
マリアの言葉には、教会が守り伝えてきた伝統への誇りと確信が込められていた。講義室の空気が、ぴんと張り詰めるのを感じた。
その緊張を、陽気な声がふわりと破った。
「いやー、みんな真面目だねえ! でも、すごく面白いじゃないか、こういう話!」
インドからの留学生、ラージ・クマールだった。ヨガと瞑想を日課とし、常に穏やかな笑みを浮かべている。その自由で掴みどころのない雰囲気は、時に周囲を戸惑わせるが、同時に場を和ませる不思議な力があった。
ラージは楽しそうに手をひらひらさせながら続けた。「僕たちのヒンドゥーの世界ではね、愛(プレーム)も本当にいろんな形があるんだ。神様への熱烈な信愛(バクティ)、男女の愛、親子の愛、師匠と弟子の愛……みんな尊い愛だよ。それに、カルマの法則とか、ダルマ(法・義務)とか、いろんなものが複雑に絡み合って世界はできている。だから、一つの『愛』という言葉で、みんなが同じものを思い浮かべるなんて、たぶん不可能じゃないかな? でも、それでいいんだよ。それが豊かさってことさ!」
ラージにとって、世界は広大で多様な精神の海だった。絶対的な一つの真理より、無数の神々の顕現と、魂の輪廻転生を信じる彼の言葉には、全てを飲み込むような寛容さがあった。
最後に、静かに皆のやり取りに耳を傾けていた佐伯陽菜が、おずおずと手を挙げた。彼女の小さな動きに、なぜか皆の視線が集まった。日本の一般的な仏教徒の家庭で育った彼女は、普段あまり積極的に発言するタイプではない。
「あの……私も、少しだけいいですか」
陽菜の澄んだ声が、静かに響いた。
「仏教では、愛は『渇愛(かつあい)』と言って、執着や苦しみの原因になるもの、と捉えることがあります。何かを強く求める心そのものが、私たちを苦しめる、と。もちろん、同時に『慈悲(じひ)』という、生きとし生けるもの全てに対する大きな思いやりの心も、とても大切にされています。だから……ラージさんの言うように、言葉の捉え方って本当に色々あるんだな、と皆さんの話を聞いて改めて思いました。スローガンも、ここにいる誰もが、心地よく受け止められる言葉が見つかるといいですね」
その言葉には派手さはない。だが、物事の両面を見つめ、静かに本質を探ろうとする思慮深さがあった。
健太は、次々と投げかけられる深く、そして全く異なる視点からの意見に、頭を殴られたような衝撃を受けていた。自分が良かれと信じて疑わなかった言葉が、これほど多様な解釈と、そして意図せず誰かを傷つける可能性を秘めているとは。
彼はマイクを握り直し、もう一度、ゆっくりと会場を見渡した。
そこには、アハマドの真摯な眼差し、マリアの情熱的な表情、ラージの穏やかな笑み、そして陽菜の優しいまなざしがあった。それぞれが、異なる祈りを胸に抱き、異なる道を歩んできた。しかし今、彼らは同じ場所にいる。
「皆さん……貴重なご意見、本当にありがとうございます。正直に言います。僕は、ここまで深く考えていませんでした。僕が当たり前だと思っていた『愛』という言葉が、こんなにも豊かで、複雑で……そしてデリケートなものだということに、今、気づかされました」
健太は一度言葉を切り、誠実な声で続けた。
「このスローガンは、もう一度、実行委員会で話し合いたいと思います。そして、もしよろしければ……アハマドさん、マリアさん、ラージさん、陽菜さん。皆さんの知恵を貸していただけませんか? 皆さんの力を借りて、本当に『多様性のハーモニーを奏でられる』ような、そんなフェスティバルにしたいんです」
健太の真っ直ぐな申し出に、アハマドは静かに頷いた。マリアは少し驚いたように目を見開いた後、ふっと表情を和らげた。ラージは「もちろんさ!」と快活に笑い、陽菜もまた、小さく、しかし確かにはにかむように頷いた。
まだ肌寒い春の風が吹き抜ける講義室に、ほんの少しだけ、温かい空気が流れ始めたように感じられた。それは、異なる旋律が、やがて一つの和音を探し始める、そのほんの序章なのかもしれない。
where.is.love――その問いは、まだ誰の口からも発せられてはいない。
しかし、彼らの心の中には、既にその種火が、静かに灯り始めていた。
(第一話 了)
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