第2話

空に開いた亀裂から放り出された時、俺は自分が夢を見ているのかと思った。日本の、あの平凡な日常が、一瞬にして遠い幻になった。剣と魔法、魔族と神託――頭の悪いゲームのような世界に、俺は「勇者」として召喚されたのだ。


******


そして、あいつに出会った。ユリア。

光そのもの、と形容するしかなかった。村の片隅で、ひっそりと咲く花のように純粋で、触れると壊れてしまいそうな儚さ。だが、その瞳には、揺るぎない覚悟と、誰かを守るための強い光が宿っていた。


神託によって聖女に選ばれたと告げられた時、村人たちは沈痛な面持ちで、まるで死刑宣告でもされたかのように俺たちを見ていた。そんな中で、ユリアはカイルという名の幼馴染の少年を見つめ、そして、迷いなく首肯した。


「行きます。王国のため、世界のため、そして、カイルが安心して暮らせる世界のために」


その言葉を聞いた時、俺は胸の奥で、奇妙な疼きを感じた。それは、憧れか、羨望か、あるいは、もっと卑しい感情だったのかもしれない。彼女の心の中には、俺が踏み入れることのできない、聖域のような場所がある。そこに、カイルという少年が、深く根を張っているのが、痛いほど理解できた。


******


十年。それは、言葉では語り尽くせない、地獄のような歳月だった。

血と汗と、そして仲間の屍が、旅路の足跡だった。俺は前だけを見て、魔族を斬り伏せ続けた。


だが、ユリアは違った。彼女は、その苛烈な戦場においても、常に変わらぬ光を放っていた。その光の源が、故郷から届く、一枚一枚の手紙だということは、俺も、他の仲間も、皆が知っていた。

手紙を読み終えたユリアの表情は、いつも穏やかで、微笑みをたたえていた。カイルからの便りは、彼女にとって、唯一の心の拠り所であり、彼女を聖女たらしめる、最後の砦だったのだ。


王国が、聖女と勇者の婚姻を画策しているという話は、旅の途中、耳に届いていた。俺とユリアが結ばれれば、勇者の力と聖女の権威が融合し、揺るぎない王国の礎となる。そう、彼らは考えていたのだろう。俺自身も、ユリアの傍にいることは、決して悪い話ではないと思っていた。彼女の純粋さに、俺の中の澱んだ部分が、洗い流されるような錯覚を覚えたからだ。だが、カイルという存在が、常にその計画の影に、不気味なほど大きくのしかかっていた。王国の動きを考えれば、いずれは彼が「処理」されるだろうことは、朧げながらも想像していた。だが、その詳細までは知ろうとはしなかった。知りたくなかった、と言った方が正しいのかもしれない。


******


魔王は倒れた。世界は救われた。

王都での凱旋式は、熱狂の渦だった。民衆の歓声、王族の賛辞、貴族たちの羨望の眼差し。


だが、ユリアの瞳は、どこか遠くを見ていた。俺が、彼女を繋ぎ留めようと手を伸ばしても、彼女はするりとその手をすり抜けた。


「私、村へ帰ります。カイルが待っていますから」


その言葉は、俺の耳には、まるで呪文のように響いた。俺は、彼女の心の奥深くに根差した、その「純愛」という名の執着を、理解することも、引き剥がすこともできなかった。


王城を抜け出したユリアを追って、俺は将軍と兵士たちと共に、彼女の村へと向かった。


******


村に到着した時、目の前で繰り広げられていた光景に、俺は息を呑んだ。

ユリアは、カイルの両親の前で泣き崩れ、何事かを懇願していた。やがて、その両親が、重々しく、しかし堰を切ったように真実を語り始めた。


「王国が…カイルを…暗殺した」


その言葉が、凍てつく刃となって、俺の心臓を抉った。やはり、そうだったのか。だが、ここまで露骨に、ここまで卑劣な手段で、ユリアの心の支えを奪い去っていたとは。俺は、その計画を黙認していた。いや、むしろ、その恩恵にあずかろうとしていた。吐き気がした。


ユリアは、俺たちの姿を認め、その瞳に宿る最後の光を、痛々しいほどに輝かせた。


「手紙も…カイルからの手紙も、嘘だったの…?」


将軍が、ユリアの問いに答えるために、一歩前に出る。


「聖女殿の心の安定のため、王国の繁栄のため…最善を尽くしたまで。カイル殿が…その役目を終えられてから、手紙は全て、文官が代筆しておりました」


将軍の言葉は、淡々としていた。しかし、その言葉が、ユリアの心に、決定的な亀裂を入れたのが、俺にははっきりと見えた。


ユリアの瞳から、光が消えた。

その代わりに入り込んだのは、深淵を覗き込むような、底知れない闇だった。


「…王国…許さない…!」


声は、ユリアのものでありながら、ユリアではなかった。それは、純粋な絶望と、憎悪が凝り固まった、冷たい響きを持っていた。

彼女が、聖女の衣を纏う「化け物」へと変貌していく瞬間だった。


次の瞬間、俺の視界は、強烈な光に包まれた。

痛みは、なかった。

ただ、自分が、形を保てずに、砂のように崩れ去っていくのを感じた。

ああ、俺は、この光を、この世界を、本当に守りたかったのだろうか。

それとも、聖女の隣に立つ、英雄という栄光に酔いしれていただけだったのだろうか。

ユリアは、俺の、いや、俺たちが作り上げた、業そのものだった。

その、悍ましくも美しい、絶望の具現化が、俺を、そして王国を、容赦なく飲み込んでいく。


最後の最後に見たのは、かつての聖女の、虚ろな瞳だった。

そして、その瞳の奥底で、永遠に響き続ける、悲痛な慟哭の残響だった。

それが、俺の、この世界での最後の記憶だった。

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