最後の聖女は、絶望の魔女となった
@flameflame
第1話
あの村には、名もない花が咲き乱れていた。陽光を浴びては微かに揺れるその花弁は、一見すると牧歌的な風景に溶け込んでいる。しかし、その根底には、粘りつくような血の匂いが深く染み付いていた。誰もが知っていて、しかし誰もが口を噤む、悍ましい真実の残り香が。
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彼女は村の光だった。クリスタルのように澄んだ瞳、天使のような微笑み、そして誰をも包み込むような優しい心。名をユリアといった。
ユリアには、幼馴染の少年がいた。名をカイル。村の誰よりも素朴で、誰よりも真っ直ぐな瞳を持つ少年だった。まだ十二歳のあどけない二人だったが、互いの心には、すでに揺るぎない想いが宿っていた。
小さな頃から、彼らはよく村外れにある老木の下で、手を取り合って未来を語り合った。
「ユリア、大きくなったら、俺がお前を守るからな。ずっと一緒だ」
「うん、カイル。私も、ずっとカイルの隣にいるよ。約束」
互いの薬指に、細い草の指輪をはめ、慎ましくも確かな結婚の約束を交わした。その約束だけが、ユリアの世界の全てだった。
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しかし、その平穏は、ある日突然、打ち砕かれる。
王国から派遣された使者が、村にやって来たのだ。彼らが携えてきたのは、およそこの小さな村には不釣り合いな、豪華な馬車と、重々しい宣託の言葉だった。
「魔族の脅威に対抗するため、異世界より勇者が召喚された。同時に、神託により聖女が選定されし。その聖女こそ、この村のユリア殿である!」
使者の言葉は、村中に衝撃を与えた。そして、ユリアは、そのあまりに非現実的な言葉に、ただ立ち尽くすしかなかった。
使者は続けた。
「聖女ユリア殿、どうか勇者と共に、魔王討伐の旅に出ていただきたい。これは、王国のため、世界の安寧のため、そして何より、あなたの大切な者たちを守るための、神の御意思なのです!」
ユリアは、カイルを見た。不安げに自分を見上げる彼の瞳に、彼女の心は締め付けられる。だが、同時に、彼女の中にある純粋な光が、使命感として燃え上がった。王国のため、世界のため。そして、何よりも、この愛するカイルが、安心して暮らせる世界のために。
「行きます」
彼女の声は、震えていなかった。むしろ、決意に満ちた、清らかな響きを持っていた。
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十年が過ぎた。地獄のような激戦の連続だった。幾度となく死線を彷徨い、仲間を失い、心身ともに疲弊した。しかし、ユリアは決して折れなかった。その胸には、故郷の村、そしてカイルとの約束が、彼女を支え続けた。
勇者一行は、ついに魔族を、そして魔王を打ち倒した。世界は救われた。
王都での凱旋式は、熱狂に包まれた。王族、貴族、民衆からの歓声は、耳を劈くほどだった。
勇者や王国の王族・貴族たちは、聖女を王都に留めようとした。彼女を称賛し、労い、そして――あるいは、別の思惑があったのかもしれない。だが、ユリアは、それら全てを振り切った。
彼女の心は、ただ故郷にあった。
王都の王城をこっそりと抜け出し、十年ぶりに、あの懐かしい村へと戻った。
******
村は、あの頃と何も変わらないように見えた。風に揺れる花、子供たちの笑い声、土の匂い。
だが、そこに、カイルの姿はなかった。
彼の家へ駆け寄る。両親、村長、そして村人たちに、堰を切ったように尋ねた。
「カイルは?カイルはどこにいるの?」
しかし、返ってくる言葉は、どれもこれも曖昧で、そして重苦しかった。
ある者は悲しげに目を伏せ、「ここにいない」とだけ呟いた。
ある者は憎しみに歪んだ顔で、視線を逸らし「いない」と吐き捨てた。
またある者は、感情のない人形のように、「彼はもう、ここにいない」と、ただ繰り返すだけだった。
彼らの瞳の奥に、共通する怯えのようなものが読み取れ、ユリアの胸には、拭い難い不安が募る。
ユリアは、カイルの両親に、しつこくしつこく懇願した。夜通し、彼らの前で泣き、縋り続けた。
長い沈黙の末、カイルの母親が、重たい口を開いた。その声は、掠れて、今にも消え入りそうだった。
「ユリア…王国がね、ユリアが旅立って数年後…カイルを…」
父親が、母親の肩を抱き、残りの言葉を代わりに紡いだ。
「王国が、勇者と聖女の婚姻を企んでおった。そのためには…カイルが邪魔だったのだ。奴らは、カイルを…暗殺したのだ。そして、我々村人には、一切他言せぬよう…脅しをかけた」
その瞬間、ユリアの体から、血の気が引いた。全身の細胞が、凍り付いていくような感覚。
******
そして、その時だった。
村の入口に、新たな馬車が到着した音が響く。視線を向ければ、そこには、勇者の姿があった。そして、彼に付き従うのは、見慣れた王国の将軍、そして数多の兵士たち。
彼らは、何かを察したかのように、まっすぐにこちらへ向かってくる。
「聖女殿!一体何をしておられるのですか!王都へお戻りください!」
将軍の声が、耳に届く。だが、その声は、ユリアには最早、ただの雑音でしかなかった。
脳裏を、カイルとの思い出が、走馬灯のように駆け巡る。そして、旅の間、心の支えにしていた、彼からの手紙。
「まさか…手紙も…?」
ユリアは、震える声で、目の前の将軍に尋ねた。
将軍は、わずかに顔を歪ませ、観念したように息を吐いた。
「…賢明な聖女殿のこと、いずれ気づかれると思っておりました。聖女殿の心の安定のため、魔王討伐の功績のため…王国は最善を尽くしたまで。カイル殿が…その役目を終えられてから、手紙は全て、文官が代筆しておりました」
その言葉が、最後の、決定的な一撃だった。
ユリアは、悟った。全てが、嘘だった。十年間の戦いも、王国への貢献も、全て、自分を騙し、利用するための、壮大な茶番だったのだと。
カイルの死。
手紙の嘘。
何よりも、自分が信じていたものの、全てが偽りだったという絶望。
彼女は、喉の奥から、獣のような慟哭を上げた。それは、悲しみ、憎悪、そして自己への深い失望が混じり合った、悍ましい叫びだった。
ユリアの瞳から、それまで宿っていた光が、音を立てて消えていく。代わりに入り込んだのは、深淵のような、純粋な闇だった。
「…王国…許さない…!」
聖女は、絶望の魔女となった。
その場にいた勇者、将軍、そして王国の兵士たちは、一瞬にして、血肉も残さず、消滅した。彼らがいた場所には、ただ、焦げ付いた土の匂いが残るのみ。
魔女は、その身を閃光に変え、王都へと転移した。
王城。祝宴に沸く、貴族たちの笑い声が聞こえる。
刹那。笑い声は、断末魔の悲鳴へと変わった。
魔女の目の前にいた王族、貴族たちは、次々と、理解不能な方法で惨殺されていった。彼らの血が、王城の豪華な絨毯を、瞬く間に赤く染め上げていく。
だが、魔女の復讐は、そこで終わらなかった。
彼女は、闇夜の空へと舞い上がった。その掌から放たれたのは、この世の理を捻じ曲げる、おぞましい魔力。
巨大な光の渦が生まれ、やがてそれは、大気圏を突き破り、遥か彼方の宇宙から、一つの影を引きずり降ろした。
王国を、その中心から打ち砕く、巨大な隕石。
一夜にして、光り輝く王国は、炎と瓦礫の山と化した。
絶望の魔女は、燃え盛る王国の残骸を、漆黒の空から、ただ静かに見下ろしていた。
もう涙は枯れ果てた。憎悪も、悲しみも、全てが混じり合って、ただの虚無と化した。
それでも、彼女の唇からは、途切れることのない、慟哭の響きが漏れ続けていた。
それは、世界を滅ぼした魔女の咆哮ではなく、全てを失った、かつての聖女の、永遠の叫び声だった。
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