第2話 仮装と夜の入口
実験が終わると、疲労が一気に襲ってきた。
僕は駅へ向かって、とぼとぼと夜道を歩いていた。
冷たい空気が街灯の光を通して足元に影を落とし、伸びた影はどこへ向かうのかもわからずに続いていた。
自分の足がどこへ向かおうとしているのか──それを考えても、答えは出なかった。
ただ、ひとつ確かなのは、ここを何度歩いても、何も変わらないということだった。
そのとき、不意に背後から声がした。
「お! 今帰り?」
振り返ると、いつもの友人がいた。おどけた調子は相変わらずだ。
「うん、今終わったばかり」
「そっか。……で、今暇?」
少しだけ間を置いて、僕は言った。
「暇、かな」
「じゃあ、行こうか。前に言ってた女装クラブ」
「……いいけど、女装はしないよ」
「え〜? しないの? いつも“多様性が〜”とか言ってるのに〜」
「僕が言ってるのは、社会の矛盾を皮肉ってるだけ。当事者には興味があるよ。一次情報抜きで語るのは危ういからね」
「ははっ、まあいいじゃん。じゃあ決まり」
くだらないやり取りが、どこか気を楽にさせていた。
その店は新宿にあり、終電で帰れば日付が変わる前には家に着く。
翌朝のことを考えると躊躇もしたが、そういう計算すら、どうでもよくなる夜もある。
地下鉄に乗る。
ICカードの残高はいくらもなかった。
地上に上がるエスカレーターでは、上から吹き下ろす風が容赦なく吹き付けてくる。
それでもこの風は、底から這い上がるような感覚をもたらしてくれた。
繁華街は、まるで夜を忘れさせるように煌めいていた。
昼の抑圧から解放された人々は、酔いと笑いに任せて、重力を忘れているようだった。
その眩しさが、本当に自由であるのかはまだわからなかった。
自由になったとして、そこで人は何を求めるのだろうか。
やがて僕らは、二丁目の裏通りへと入った。
街灯は少なく、人影もまばら。バイクが数台、整然と並び、静けさのなかで小さな看板がひとつ、わずかな光を放っていた。
「あれか……随分、目立たない店だね」
店は二階に受付があり、入場料を払うと三階の“部屋”へ案内された。
子ども部屋をつなげたようなその空間には、化粧台と衣服が壁沿いにぎっしりと並べられていた。
友人ははしゃぎ気味でカウンターに座り、元気よく声をかける。
「こんばんは〜! なに飲もうかな〜」
冗談めかしたテンションが、店員の笑顔を引き出していた。
僕も一杯だけ頼み、それから飲み放題のチケットを買った。
計算上は損だが、ここで金を気にするのも無粋なことかもしれない。
僕は場の空気に溶け込めず、周囲を観察していた。
部屋は桃色を基調とし、全体が丸みを帯びた柔らかいデザインで統一されていた。
数多くの鏡があり、そこには変身した自分を確認し、もう一つの人格を演じる装置のような力が宿っていた。
すると友人が僕に水を向けた。
「こいつ、ジェンダー問題に興味があってさ〜」
スタッフがにこやかに応じた。
「NGないんで、何でも聞いてくださいね」
カウンターの向こうには二人のスタッフがいた。
一人はふくよかで柔らかい雰囲気、もう一人はシャープで理知的な印象を与える人だった。
僕はどこから切り出すべきか逡巡していた。
子どもの頃の性差の薄さから?
それともLGBTという枠組みから?
だが、ここにいる人が“Q”に含まれるのかどうかも不確かで、むやみにカテゴライズすれば誤解を招く。
概念は理解のために必要だが、概念に囚われすぎれば、かえって本質を見失う。
そうした思考を押さえ込むように、僕は口を開いた。
「多様性を受け入れる社会が求められる今、やっぱり実際の声を聞くことが大切だと思っていて……それで、来ました」
「なんか本格的ですねぇ」
ふくよかなスタッフが笑いながら言い、ついでに尋ねる。
「女装、しないんですか〜?」
その問いに、友人が茶化すようにかぶせる。
「しないんすか〜?」
「……やらない」
僕が笑って否定すると、友人が目で合図を送り、ふくよかなスタッフの方へと向き直った。
「じゃあ俺、やっちゃおっかな〜。このままだと話題性に欠けるし」
そう言って彼はスタッフに連れられ、化粧台のある奥へと消えていった。
僕はカウンターに残され、シャープな方のスタッフと二人きりになった。
「ある本で“性同一性障害”という呼び方が良くないという話がありました。障害と呼べば、“治療の対象”という意味合いになってしまうから、と」
「そうですねぇ。私は単純に女装が好きなだけで、彼女もいますし、いろんな人がいますよ。ここ、ほんとにいろんな人来ますから」
本で読んだ言説と、目の前の言葉を一つひとつ照らし合わせるように、僕はチェックを入れていた。
問い詰めるのは避けながら、それでも「何か」がわかりたくて。
「お仕事で、大変なことってありますか?」
「夜型なので、昼夜逆転がつらいですかね。でも、休みの日は飲みに行ったり……あ、今度みんなで旅行に行くんですよ」
どこにでもある、当たり前のような生活の話。
疲れたら酒を飲んで、少し遊んで、また働く。
回り続ける時計のように、生活は続いていく。
しかし、秒針の陰で静かに進む長針や短針の変化は、ふとした拍子に現実を思い出させる。
──誰しも、終わりに向かっているのだ。
そのとき、常連らしき客が現れた。
スタッフは自然に応対し、会話は滑らかだった。
聞き手に徹していた僕は、自分の不器用さに気づかされた。
女装を終えた友人が戻ってきた。
厚化粧にウィッグ、ワンピース。ストッキングの中で、すね毛が縞模様を描いている。
「すね毛剃ってなくてストッキング買わされた〜。でもこれ、毛が柄みたいで意外と良くない?」
周囲から笑いがこぼれ、知らない客も親しげに話しかけてきた。
「女装、初めて?」
友人は調子を合わせ、輪の中へと自然に入っていった。
彼は、新しい可能性を広げていた。
一方、僕はいつものように、観察し、分析するだけだった。
ずっと考え、確かめ、何かをつかもうとするくせに、自分の立ち位置は変えようとしない。
「ドンペリ入れちゃおっかな〜。この前のお祝いできなかったし」
常連客がスタッフの勤続三年を祝って、高級酒を開けた。
その恩恵は僕たちにも回り、グラスを手に祝福を述べた。
そのとき、スタッフがふと提案した。
「せっかく女装したんだし、外でも歩いてきたら?」
場の空気が変わる。
僕らは促されるように店を出て、夜の街へと繰り出した。
友人は酔いが回り、はしゃぎながら下品な言葉を叫んでいた。
僕も、足元がふらついていた。
スマホを取り出し、ツーショットを撮る。
一度ではうまくいかず、何度かやり直してようやくピントの合った一枚が撮れた。
──まだ、午前零時を回ったばかりだった。
新宿駅の巨大な駅舎は、まるで怪物のように口を開け、次々と人々を呑み込んでは吐き出していた。
昼間の理性も、夜の欲望も、同じようにそこを通り過ぎていく。
周囲には、まだ活気があった。
それぞれの集団が、思い思いの言葉を交わし、何を語っているのかさえも分からないほどに声が重なり合っていた。
この街は、明日が平日であることを忘れている。
朝がやって来ることさえ、一瞬なら否定してくれる。
だからこそ、今だけは許された気がした。
酔いのまま、友人と一回り街を歩き、再び店へ戻ることにした。
冷えた風が体に染みる。
誰かの声が遠くで響いている。
街はすこしずつ眠り始める気配を見せながら、それでも完全には静まらない。
──僕たちはまだ、“夜の途中”にいた。
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