空への墜落

 心が疲れたときに、言葉を話さない動物や植物に、なにげなく話しかけてしまう。そこまではセーフ。

 ただ、それが「返事をした」と感じたら、心療内科に行ったほうがいいらしい。


 そんな話を聞いたことがあったから、自分があまりよくない状態なのは、なんとなく分かっていた。

 それでも僕がこのままでいようと選んだのは、単純に、彼女ともう少し話してみたかったからだ。


 君がくれた小石を見れば、長い残業を乗り越えられた。

 ベランダの椅子に座れば、君との会話に思いを馳せて日常を忘れられた。

 君のために買ったピーナッツが視界に入れば、なぜか涙が出た。

 ペットボトルの蓋をお守りにして持ち歩けば、君が見ていてくれる気がした。

 星空が広がれば、君の羽根の色が恋しくなった。

 電線に小鳥がとまれば、あの朝の手作りの歌が頭に流れた。


 初めて会った日に、「悪党」と罵られながら拾った羽根に触れれば――いつでもそばに、君がいる気がした。


 幻聴だったかもしれない。都合のいい妄想だったかもしれない。

 でも、今日この日まで僕を支えてくれたのは、たしかに彼女だったのだ。


 今の僕に怖いものはない。僕は彼女に教えてもらった時計台にのぼり、街を見下ろした。

 まるで星空を上から見てるみたいだ。あの日と同じ感想が、僕の頭に浮かぶ。


 彼女はこんなにものたくさんの愛をくれたのに、僕は彼女にたまごひとつ抱かせてあげられない。


「あなたはあなたのままでいいわ。そのままのあなたがいいの」


 彼女はそう言ってくれたけれど、他でもない僕自身が、僕の体を好きになれなかった。


 吹き荒ぶ風の中、いないはずの君の声がする。


「大丈夫よ」


 妄想の中の彼女が言う。


「私とあなたは、もう、ひとつの存在なの。あなたも飛べるわ。空を飛ぶ感覚、一緒に味わいましょう」


 大丈夫。そっと滑空するだけ。


「風を感じて、翼を広げて。大丈夫。私が支えるわ」


 彼女の姿はない。全部妄想だ。だが、この妄想が途切れない限り、ひとりじゃない。

 妄想を――君を言い訳に使って、この時計台の屋根を蹴った。


 眼前に広がる街明かりでできた星空へ、飛び立つ。

 大丈夫。星に願ったから。願いは叶うはず。星の流れの速さに、間に合わなかったけれど。


 君が風を捕まえて飛ぶように、僕は重力加速度に身を任せる。息苦しい日常も、疲れが取れない重い体も、社会生活のために殺してきた感情も。人間として生まれたせいで背負った、なにもかもを、この風が吹き飛ばす。

 羽ばたく練習をしてこなかったから思うようには飛べないけれど、僕が鳥になったそのときに、きっと君が飛び方を教えてくれる。


 君の羽根を握りしめて、僕は空とひとつになった。

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