第3話 模倣花嫁の夜会
──帳視点
午後十時を少し回った頃、
俺は、赤衣家の前に立っていた。
半年ぶりの玄関。
鍵は変えられていない。
灯りが漏れていた。カーテンの隙間から、暖色の光。
この家は、まだ息をしている。
死んだはずのリサが、
壊れた糸が、
そして“新しい儀式”が、この家の中に残っている。
恐怖はあった。
けれど、俺はそれを呑み込み、インターホンに手をかけた。
小さな電子音が、夜の静けさを破る。
ピンポーン……。
数秒の沈黙。
ドアの鍵が回る音がした。
──開いた。
出迎えたのは、糸ではなかった。
あの弟──赤衣 蝋(あかい ろう)。
黒のシャツにベスト、よく整えられた姿。
けれど、その眼だけは、笑っていなかった。
いや──目元だけが、過剰に笑っていた。
「こんばんは、帳さん。ようこそ、お帰りなさい」
まるで、この家に帰属していたかのように語る口調。
俺は、低く問うた。
「……何の真似ですか」
蝋は微笑を崩さずに、首を傾ける。
「真似……? いえ、帳さん。
これは“再現”です。正確には、兄さんの望んだ“結婚式の続き”」
俺の足が、自然と一歩後ずさった。
けれど、背後の夜が異様に静かすぎた。
何かを逃せば、二度と戻れないような気がした。
蝋が、扉を開いたまま言った。
「兄さん、着替え終わってるはずです。
“あなた”が来てくれるのを、ずっと鏡の前で待ってましたから」
その言葉が、
全身の毛細血管を冷たくなぞった。
──鏡の前。
それは、リサが最後に俺を拒んだ夜を再現する位置だ。
俺は、気づかないふりをして、蝋の目を見た。
「……お前たちは、何をしようとしている」
蝋は、まるで慈しむような声で言った。
「帳さん。兄さんが“リサとして、あなたに選ばれ直す”ことが、
どれだけ価値のあることか……
まだ、わかっていないんですね」
その瞬間、背後でドアがきちんと閉まる音がした。
俺は、逃げ道を失った。
──ここは、もう“外”ではない。
糸と蝋が作り上げた舞台の上。
俺がまだ名前を持っていた頃の、“結婚という幻影”の中だ。
奥の廊下に、微かな足音が響く。
──ヒールの音。
それは、ゆっくりと、絨毯の上を滑るように近づいてくる。
蝋が微笑んだ。
「お入りください。
新婦が──帳さんをお迎えに上がりますので」
廊下の奥から、足音が近づいてくる。
ゆっくりと、確かに──
高すぎるヒールが絨毯を踏みしめるたび、空気が張り詰めていく。
そして、現れた。
ドレスの裾が静かに揺れた。
深紅──まるで血のような色。
重たい布地が、無骨な身体に纏わりつくように貼りついていた。
胸元は開かれ、肩から腕へ流れるラインを誤魔化すようにレースが縫い込まれている。
唇は艶やかに赤く、目元には濃いアイライン。
黒髪のロングが背中まで落ちていた。
──それは、リサだった。
いや、リサを模倣し、“演じている”誰かだった。
「帳さん……やっと、会えましたね」
声が低く、静かだった。
けれど、その声音には微笑みと甘えが入り混じっていた。
その姿は、確かに──糸だった。
「……赤衣……」
俺の声が、喉から絞り出される。
「お前、何が目的なんだ?」
狂っている──
そう思った瞬間、糸の目がわずかに潤んだように見えた。
だが、それは人間の“涙”ではない。
……これは、演技だ。だが、魂ごと演じている。
糸は、ゆっくりと答えた。
「目的……?」
一度だけ、首を傾げる。
「……俺……いや、私はね、リサと“一つ”になったんです。」
その言葉に、背筋が凍る。
瞳が、真っ直ぐに俺を刺してくる。
「生前──あなたは、リサを“愛していた”でしょう?」
「……っ」
「私からリサを奪うほどに。
そして、リサも……それに応えていた。
──ふたりは、罪を犯した。
でも、いいんです」
声が、甘やかに歪んでいく。
狂気の温度が、熱ではなく“粘度”を持って空間に広がっていく。
「だから、彼女の願いを、私が叶えてあげる。
ちゃんと、最後まで、
あなたの隣に“リサとして”いられるように……」
赤いドレスの裾が、ゆっくりと擦れる音。
糸は一歩、俺に近づいてきた。
「帳さん。
どうして……そんなに怯えた目をするの?」
「俺は、リサを──」
「ねえ、抱いたんでしょう?
この身体と、同じ形の女を。
だから今度は、“この身体”で、続きをしましょうよ。
帳さん。私はもう、逃げたりしない。
……あなたのために、ここまで来たんです」
狂っている。
だが、正確に──
“こちら側の罪”を突いてくる。
俺は、一歩も動けなかった。
リサの形をした狂気。
目の前にいるのは“赤衣糸”ではない。
だが“リサ”でもない。
この家のどこにも、リサなんていなかった。
だが、糸の中には今も“リサが棲んでいる”。
そして──
彼はそれを、愛の証明だと本気で信じていた。
「帳さん……式、挙げましょう」
笑った。
「今度こそ、ふたりきりで。
──蝋も、見守ってくれるから」
**
背後の闇に、蝋の気配がにじむ。
全ては整っている。
舞台も、衣装も、照明も、脚本も──
そして“配役”も。
俺は今、**“誓いを拒絶できる唯一の観客”**だった。
けれどそれが、“次の犠牲者”という意味でもあることを、
この瞬間──ようやく理解した。
「……近寄るな」
その声は、自分でも驚くほど、低く乾いていた。
赤いドレスが、俺の目の前で揺れている。
黒髪が、顔にかかる。
口紅が滲み、頬が紅潮している。
──リサの姿をした、赤衣糸。
「気持ち悪いんだよ、お前はっ!」
俺の叫びは、
空気の膜を破るように響いた。
その瞬間、
糸の身体が、ぴたりと止まった。
足元が崩れ落ちるように、その場にへたり込む。
**
「……どうして……どうしてそんなこと言うの……?」
低く、掠れた声。
リサの声に似せた“演技”が、剥がれた。
これは、糸の本音だ。
化粧が少し崩れ、目元のラインに涙が滲む。
「だって、帳さんが……好きだったって言ったのに……
私は……ずっと……あなたのために、変わったのに……」
嗚咽が混じる。
泣きじゃくる声が、女のものでも、男のものでもない。
ただ、“壊れた誰か”の、
願いが叶わなかった哀しみだけが、響いていた。
──それは、狂気よりも、静かな絶望だった。
だが、その背後。
蝋が一歩、前へ出る。
「……どうして」
その声には、涙はなかった。
「どうして、こんなに綺麗な兄さんを……
“拒絶”なんて、できるんですか」
蝋の顔は笑っていなかった。
それが、余計に怖かった。
「帳さん。
あなた、兄さんがどれだけあなたのために変わったか、わかってますか?」
「蝋、やめ──」
「うるさいっ!」
蝋の怒声が、空気を裂いた。
「兄さんは、リサ以上にリサだった!
それなのに……あなたは、また兄さんを殺すんですか!?
だったら──
帳さん、あなたには“死ぬ役”を演じてもらうしかない。」
──次の瞬間。
背後から回り込んできた蝋の手が、俺の腕を捻り上げた。
「なっ──離せッ……!」
だが、すぐに背中に重さがのしかかる。
ロープの感触。
背後から誰か──いや、蝋が拘束を始めている。
リビングのソファに押し倒され、手首が縛られていく。
糸が、顔を伏せたまますすり泣いている。
赤いドレスの裾が揺れて、涙がぽたりと床に落ちる。
蝋が、俺の耳元でささやいた。
「兄さんを拒んだ人間はね、
一度ちゃんと、“リサを演じ直す”必要があるんですよ──帳さん」
その声は、
地獄の演出家のものだった。
顔を抑えつけられた。
冷たい指先が、頬に滑る。
何かを塗り広げる感触──
甘い、腐りかけのバラのような匂い。
「……やめろ、蝋……ふざけるなっ……!」
「静かに、帳さん」
蝋の声は、あくまで優しい。
まるで、兄の寝支度を整える看護師のように。
「今夜は兄さんが“誓い”をする夜ですから、
帳さんはちゃんと、リサになってもらわないと。」
「ふざけ──んッ!」
頬にリキッドファンデーションを強引に叩き込まれる。
皮膚が火照っていく。
羞恥ではない。
これは、自分の“輪郭が奪われていく感覚”だ。
**
蝋は用意していた化粧品を並べ、
熟練の手つきで作業を進めていく。
「兄さんが大好きだったのは、このアイライン。
リサさん、濃く入れるとちょっと泣き腫らしたみたいな目元になるの、知ってます?」
「お前……何を……」
蝋はにこりと笑った。
「これ、“あの夜”の再現なんですよ。
兄さんがリサさんを最後に見た夜──
泣いていた、睫毛が濡れていた、でも唇だけは笑ってた。
そういう女の顔。
今夜はそれを、帳さんがやってくれます」
「俺はっ──!」
動けない。
背中は拘束されたまま、椅子に縛られている。
鏡の前。
その鏡に映る自分が、少しずつ**“俺ではなくなっていく”**。
蝋は紅を塗る。
細い筆で、唇の輪郭をなぞり、わざと少しはみ出させる。
「崩れかけの女の顔が、一番エロいって……
兄さんが言ってたんですよ」
そう呟く蝋の瞳は、
笑っていた。
だがその奥には、神を奉じる信徒の冷たい意志があった。
**
「帳さん。
どうして、そんな顔するんです?」
「……誰が、こんな“劇”に出るか……」
「あなたはもう、主役なんですよ。
だって兄さん、
ずっと“リサとしての帳さん”と結婚したかったんです」
頬にブラシが当たる。
輪郭が、ぼやけていく。
俺が俺でなくなる感覚。
鏡の中。
そこにいたのは──確かに、**どこか“リサに似た誰か”**だった。
蝋が、耳元で囁いた。
「帳さん。
“名前”って、形だけのものですよ。
顔も、声も、仕草も、“誰か”をなぞれば再現できる。
兄さんはもうそれを証明してる。
──だから今度は、あなたが“リサを再演する番”です」
そう言って蝋は、
リサがつけていたイヤリングを俺の耳にかけた。
冷たい金属が、皮膚を焼いたように感じた。
**
鏡の前に立つ蝋が、満足そうに微笑む。
「ねぇ、兄さん。できたよ」
背後から、
ヒールの音がゆっくりと近づいてくる。
「帳さん……」
糸の声が聞こえた。
それは、男の声に似ていた。
でも、確かに“かつて愛した女の口調”でもあった。
「やっと、誓えるね……私と、ちゃんと……」
視線の先。
鏡に映る──俺と、リサの姿をした兄が並んで立っていた。
世界が歪む音がした。
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