第2話 鏡の花嫁
──糸視点
静寂。
まるで、世界そのものが音を止めてくれたみたいだった。
私は、鏡の前に座っていた。
長い髪が、肩を越えて垂れ下がる。
この黒髪は、もう何度も整え直した。
まるで、遺体に化粧を施すように。
いや、違う。
これは私の生──“生まれ直し”だ。
**
帳からの通話は、切られた。
言葉はなかった。
それでも私は、ずっと画面を見ていた。
まるで、彼が“見つめ返して”くれるのを待っているように。
数秒。
数十秒。
返事はない。
呼びかけは拒絶された。
「……帳さん……どうして……?」
胸の奥が、ひび割れる音がした。
耳の奥が、リサの声で満たされる。
でもそれは、もう私の声でもある。
拒絶されたのは、リサじゃない。
私だ。
「……どうして私を、拒むの……?」
唇から零れたその言葉は、
まるで“愛されなかった子どもの祈り”のように震えていた。
私は、膝を抱えてその場に崩れた。
床に広がった髪が、重たい水のように冷たく肌を撫でた。
「だって、帳さんが言ったじゃない……
あのとき、好きだって……あれは、嘘だったの……?」
──帳さんの口から、そんな言葉は出ていない。
けれど、記憶はときに都合よく捏造される。
私はその“嘘の愛”に縋って生きていた。
**
「……兄さん」
やがて、扉の向こうから声がした。
足音。柔らかく、まっすぐな足取り。
蝋だった。
彼は、私の横にしゃがみこみ、
そっと乱れた髪を指で梳く。
「帳さんは、まだ“自分の役割”に気づいてないんだよ。
でも大丈夫。兄さんが美しければ、きっと思い出す」
私は、彼の言葉に反応できずにいた。
でも蝋は、にこりと微笑んで、
そのまま私の手をとった。
「……兄さん、今のままで十分綺麗だよ」
その声は、
女の私ではなく、“糸”としての私を見つめた言葉だった。
けれど。
「私は、リサじゃないと意味がない……」
呟いた瞬間、蝋は首を小さく横に振った。
「違うよ。
兄さんは“リサを超えた存在”なんだよ」
蝋の指が、私の頬を撫でる。
掌の温度が、冷たかった。
──でも、それが心地よかった。
彼の目にだけは、私が「リサとして存在している」。
「兄さん、
このまま帳さんの前に立ってごらん。
絶対に──見惚れるよ」
「……でも……もし、また拒まれたら……?」
私の声は、ほとんど息のように細かった。
蝋は、その問いにゆっくりと微笑んで、こう囁いた。
「そしたら、
その“拒絶”を取り除いてあげればいいだけだよ」
それが何を意味するのか──もうわかっていた。
けれど私は頷いた。
それしか、答えがない世界にいたから。
**
蝋は立ち上がり、ドレッサーの上から髪飾りを取り上げる。
小さな白いリボン。
リサが好んでいた形に、蝋が自作した模倣品だ。
「兄さん、今日はこれをつけて。
帳さんに会いに行こう」
彼は、あくまで穏やかに笑っていた。
世界が壊れ始めていることに、
この兄弟だけが、気づいていないふりをしている。
いや、むしろ──
壊れることで、ようやく**“正しい形”**に戻ったと、信じている。
私はリボンを受け取り、そっと髪を結い直した。
「……帳さん。
今度こそ、私たちの誓いを結んでくれるよね……」
──蝋視点
兄さんは、壊れた。
あの夜──
俺と、婚約者だった菜月の“心中未遂”があったあの深夜の海から、
すべては変わり始めた。
菜月は助かった。
帳さんが来たからだ。
“外”の人間が、兄の幻想を引き裂いた。
リサの幻影を、菜月の身体から奪い去った。
そして──兄さんは、
もう二度と誰にも奪われないように、自分を“リサにする”ことを選んだ。
**
最初は、ただ髪を切らなくなっただけだった。
何も言わず、ただ毎晩鏡の前で梳かしていた。
落ちる髪を見て、悲しそうに微笑むようになった。
その次に現れたのは、リップだった。
赤く、艶のある色。
つけ慣れていない手つきで何度も塗っては、拭き取り、また塗る。
自分の口元を、リサの形に寄せようとしていた。
**
今の兄さんは、
漆黒のロングストレートの髪を肩にかけ、
赤いネイルを指に乗せている。
白い肌が、その色彩によって“違う人間”に見える。
けれど俺にはわかる。
──これは、兄さんのままだ。
“なろうとしている”んじゃない。
“戻ろうとしている”んだ。
あの日、壊れる前の、“最初の家族の姿”に。
**
看護師たちは、怯えていた。
兄さんが笑うたび、後ずさりする。
そりゃそうだ。彼女たちには、
**「男が女を模倣することで狂気に堕ちていく様」**にしか見えない。
でも俺は、違う。
俺には──
兄さんがようやく“完成”へ近づいてるのが、わかる。
**
病室に入ると、兄さんは鏡を見つめていた。
膝を組んで座り、指先にあやとりの動きを繰り返している。
目線は鏡の中の“リサ”へ。
誰よりも、彼は今──美しい。
俺は、声をかける。
「兄さん……今日も、綺麗だよ」
兄さんは、微笑んだ。
口元だけが、ゆっくり動いた。
「ねえ、蝋……帳さん、どうして私を拒むの?」
ああ、またか。
それは、毎夜繰り返される呪文のような言葉。
でも、兄さんはそれを**“愛された証拠”**として口にしている。
拒まれるたび、想いが深まる。
それが兄さんの“純粋な歪み”だ。
俺は、そっと彼の背後にまわり、長い髪を手櫛でとかした。
「帳さんはね、まだ“兄さんの美しさ”に気づいてないだけだよ。
ちゃんと、見せてあげれば、分かるはずさ」
「……ほんと?」
「うん。だって俺が保証する。
兄さんは、誰より綺麗だ。
リサなんか──もう、いないんだから」
兄さんの肩が、少し震えた。
その背中に、俺はそっと額を寄せた。
「兄さんが“リサ”になるなら、
俺は、何度だってその続きを書き足してあげるよ」
**
これは、舞台だ。
兄さんはヒロイン。
帳は、その運命の男。
そして俺は、
その劇を完璧にする脚本家であり、証人だ。
誰にも邪魔はさせない。
帳さんが拒むなら──
もう一度、舞台に引きずり込んでやるだけだ。
俺たちは、最初から“家族”なんだから。
──帳視点
菜月さんに電話をかけた。
無言で呼び出し音を聞きながら、額に汗が滲む。
……ようやく繋がった。
「菜月さん、すまない。こんな時間に。少しだけ、話を──」
「……」
「糸のことで、少し確認したい。あいつが、また──」
──ツーッ……
静かな切断音。
無音。
拒絶ではなく、“閉じた”音だった。
……やはり、だめか。
あの事件のあと、
彼女が俺の声に反応してくれたのは一度だけだった。
もう、過去と関わることを望んでいない。
糸という名前を耳にするだけで、
“あの夜の波音”を思い出してしまうのだろう。
それも当然だ。
俺のせいで彼女は命を狙われた。
そして──俺もまた、何もできなかった。
**
もう、考えても仕方がない。
赤衣糸が何を考えているのか。
なぜ、今になって“リサの仮面”をかぶり、俺に連絡してくるのか。
分からない。
分かる必要もない。
──あいつはもう、壊れている。
感情や理性の形をしていない。
きっと、今の糸にとって
“俺”も“菜月”も“リサ”も、すべては同じパーツなのだ。
ただの──“配役”。
**
俺は、静かにスマートフォンの連絡先一覧を開いた。
【リサ】
画面にその名前が浮かぶ。
本来なら、とっくに削除しておくべきだった。
けれど、どこかで「けじめの瞬間」を求めて残していた。
今だ。
俺は削除の確認画面まで指を進めた。
【本当に削除しますか?】
【はい/いいえ】
右の指に、わずかに力が入る。
──次の瞬間だった。
震える音。
着信ではない。
通知。
【新着メール】
差出人:非通知
件名:(なし)
添付:なし
本文:
「会社に、私たちのことを知られたくないなら──
今夜、来て。
あなたの“奥さん”として、最後のお願いです」
送信者名:リサ
**
喉の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
視界がぐらつく。
汗が背筋を伝う。
“私たちのこと”──
それはリサとの過去の不倫を意味している。
糸がそれを把握していたことは、知っている。
けれど、それを“本人の口調”で突きつけられるのは──
まるで、死者がメールを打ってきたかのようだった。
そして、何より──
「今夜、来て」と書かれている。
場所の指定はない。
けれど、あいつが“俺の中に植えた記憶”は知っている。
──赤衣家だ。
あの家は、まだ何かを
**“保存するため”に、未だあの形で残されている。**
**
俺は、しばらくそのメールを見つめていた。
削除したい。
逃げたい。
知らないふりをしたい。
だが。
あの兄弟に巻き込まれたまま、
何もせずに背を向けることは、
今度こそ、誰かが“死ぬ”という確信に変わっていた。
俺は画面を閉じ、
立ち上がった。
覚悟を決める、というよりも──
再び“あの劇場”の扉を叩くしかなかった。
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