赤い糸は解けないーとりかえっこー

×ルチル×

第1話 再送信

◆前作:赤い糸は解けない―二重橋―の続編です。


あの事件から、半年が経った。


海辺で起きた心中未遂。

義兄・赤衣糸と、彼の弟の婚約者だった菜月の“誘拐心中未遂”。

その名を口に出すたびに、胸の奥で冷たい何かが揺れる。


自分は直接の血縁者ではない。

だが──あの夜、菜月に呼ばれ、結果的に彼女を救い、糸に殴られ、海辺で血を流した男。


それが俺、**帳(とばり)**という存在だった。


事件後、警察への事情聴取が続いたが、数週間で「関係なし」とされた。

今はただのサラリーマンに戻り、以前と変わらぬ日々を送っている。


……ように、見えているだけだ。


実際には、仕事に集中するふりをしているだけで、毎朝ベッドを出る理由すら見つけられずにいた。


**


その日も、いつもと変わらない会社だった。

鳴らない電話、気のない返事、目を通すだけの書類。


気温はすでに春を通り過ぎ、湿った夏の気配を運んでいた。


──あの夜も、こんな生温い風だったな。


蝉が鳴くにはまだ早い。

けれど俺の頭の奥では、波の音と、糸の呟きだけが今も消えない。


「リサ……また僕を置いていくの?」


死んだ妻の幻影を、あの男はずっと抱き続けていた。

あれは恋じゃない。執着とも違う。


あれは──“儀式”だ。


失った人間を、生きている者で再構築しようとする、身勝手で歪んだ信仰。


それに巻き込まれた菜月は、今も療養中だと風の噂で聞いた。


俺はというと、ただ何もなかったふりをして、ここにいる。

変わらない日常。壊れた誰かを残して、生き延びた日々。


そんな矢先だった。


**


昼過ぎ。

スマートフォンが震えた。


無意識に画面を見て、血の気が引いた。


差出人:リサ

件名:(無題)

本文:なし

添付:1件の画像ファイル(.jpg)


……ありえない。

リサは、死んだ。俺の知る限り、確実に。


糸との心中──彼女だけが、もう戻らないはずだった。


だが、この着信履歴は“登録済みのリサ”からのものだった。


冷たい汗が背中を伝う。

誰かの悪戯か? なぜ今、半年も経った今になって?


いや、何より問題なのは──

俺が、彼女の名前をスマホから削除していなかったということだ。


まるで、自分自身がこの“再来”をどこかで待っていたようで、嫌悪と動揺が混じる。


**


指が震えながらも、添付ファイルを開く。


画像が表示されるまでの数秒が異様に長く感じた。


──写っていたのは、洗面所の鏡だった。


そして、そこに立っているのは、リサに酷似した長髪の人物。


首筋、輪郭、立ち姿……すべてが記憶の中の彼女に似ていた。

だが、鏡に映る目元だけが、どこか“異質”だった。


……男だ。


そこにいたのは、“誰かを模した男”だった。

赤いワンピース、赤い口紅、濃いアイライン、

しかし骨格と目元だけが──糸を思わせた。


「……嘘、だろ……」


震える声が漏れた瞬間。

スマホが、再び震えた。


【新着メール】

差出人:リサ

件名:ただいま

本文:


「帳さん、待っててくれてありがとう。

今度こそ、ちゃんと愛せる気がするの。

また“赤い糸”で、繋がり直しましょう?」


**


俺は、その場で立ち上がっていた。


目の奥が痛い。鼓動が耳に響く。

周囲の同僚が不思議そうに俺を見るが、そんなものはどうでもよかった。


リサの名前を借りた狂気が、また歩き始めている。


半年の静寂が、今、破られた。


──あの兄弟が、戻ってきたのだ。


俺は、携帯を手放した。

机の上に落ちたそれが、小さく音を立てる。


手のひらが濡れている。

心臓は暴れていた。

──鼓動ではない、これは警告だ。


だが、次の瞬間。

音が鳴る。


着信。


また──リサの名前。


画面に映る文字が、

まるで死人が“言葉を操る手”として生きているかのように、俺を嘲笑う。


冗談じゃない。


これは、もう悪戯なんかじゃない。

また、赤衣が……いや──糸が何かを始めた。


そして、その背後には必ず──弟の蝋がいる。


アイツらの“劇”は、終わっていなかった。


もしかすると、

もう誰かが巻き込まれているかもしれない。


……俺のせいで。


**


俺は、意を決した。


震える指で、着信を取る。

音が、耳へ流れ込んでくる。


だが──声はない。


しばらくして、聞こえたのは、


“あやとり”の音。


皮膚と皮膚が擦れる、乾いた音。

空気をかきまわすような、小さな摩擦。

誰かの指先が、“糸”を操っている。


俺は耳を澄ませた。

だが、何も返ってこない。


──そう思った瞬間、


ノイズの隙間から、女のような、けれど低く押し殺した声が、囁いた。


「帳さん……また、会えて嬉しいよ」


その声は、

リサに似ていた。


だが、決定的に違った。


その奥にあるものは、

涙でも愛でもなく──模倣された記憶の飢えだった。


「ねぇ、ちゃんと“繋がり直そう”? 今度こそ、失敗しないように……」


ぞっとした。

この声の主が、

あの“糸”であることを、確信してしまった。


リサの服を着て、化粧をして、声を似せて、俺の名前を呼ぶ。


……これは、

過去の追憶でも償いでもない。


これは、“次の儀式”だ。


次の“リサ”、

次の“帳”、

次の“あやとり”。


糸はきっと、もう次の犠牲者に糸を張り始めている。


俺は、電話を握りしめたまま、歯を食いしばった。


「……また、誰かを“繋ぐ”気か。ふざけるな……」


心の底から、怒りが湧き上がる。

後悔、嫌悪、そして、絶望。


だがそのどれよりも先に立つのは、ただ一つの意志。


──もう、二度と、誰も巻き込ませない。


俺は電話を切り、立ち上がった。

このまま逃げ続けるなら、次は俺じゃない“誰か”が壊れる。


**


午後の光が、窓のブラインドを斜めに裂いていた。


リサはもういない。

だが、赤衣糸の中では、彼女は今も“呼吸している”。


だったら──俺がその幻想を断ち切る。


過去にけじめをつけるために。

“あの兄弟の演劇”に、もう一度立ち向かうために。


俺はスマートフォンを握りしめ、

ある番号に、再び指を滑らせた。


警察でも、職場でもない。

あの事件のとき、俺にだけ送られてきた警告──


菜月の番号。


彼女なら知っている。

糸の狂気に“触れられた”人間の、痛みと怖さを。

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