第8話 花は折りたし梢は高し
今日から本格的にお嬢様の執事をすることになった為、早速朝のご挨拶をしましょう!と、若林さんから言われ、一緒に部屋へとやって来た。
「おはようございますっす!」
「おはようございます」
「おはよう」
各々が挨拶を済ますと、若林さんが一歩前に出る。
「綾芽お嬢様、昨夜旦那様から卒業後のことを聞くように言われたんすけど」
旦那様⋯お嬢様のお父様のことか。
そういえば会ったことないな。挨拶しなきゃいけないし⋯そのうち会えるかな。
「身近に天才がいるから、努力が無駄な時間に思えるの」
「そ、そんなことないっすよ!」
「ふん。若僧のくせに」
ぷいっと顔を背けるお嬢様は、朝からご機嫌斜めだ。お嬢様の方が若僧だと思う。
今日は土曜日で、学校がお休みだからか、ミーニャのイラストが目立つパジャマを着ている。
ミーニャの正体を考えていると、若林さんとお嬢様が二人して近付いてきた。
「ねぇ羊さん?」
「私の味方だよね?」
「⋯⋯⋯⋯ど、どうでしょう」
どちらの味方をしても争いが起きそうだ。
「なんすか奥歯にものが刺さるみたいな言い方してー!」
若林さん!違うよ刺さっちゃったら駄目だよ!
「ふん。奥歯にものが挟まったような言い方、でしょう」
「ぐ、ぐぬぬ⋯」
若林さんは、勝ち誇るお嬢様を恨めしそうに見ている。
仲が良いからできる態度や会話である。と思いたい。
「穴があったら入りたいわね」
「それは若林さんのセリフです、お嬢様」
「あら⋯?」
「ん?」
二人ともキョトンとしている。慣用句が苦手なのに無理するから。
「開いた口がふさがらない、ですか」
「そ、そうっすね⋯」
「そうね」
慣用句ごっこに満足したのか、顔が赤いお嬢様は、無言で椅子に座る。
ちなみに、くるくると回る回転椅子だ。
「話は戻りますが」
「戻さなくて結構よ」
まぶたを閉じ、優雅に紅茶を楽しんでいる。実にお嬢様だ。
「努力が無駄と⋯何故そう思うのですか」
「⋯⋯」
紅茶を楽しむ手を止め、こちらを振り向くお嬢様は気怠そうな顔をしている。
そして若林さんを一瞥すると、いたずらっ子のような顔をした。
「若林、百合お姉様がまだ起きていないだろうから、起こしてきて」
「え、ええ?!」
戸惑っているが、非常に喜んでいる。
「はい喜んで!」
お嬢様のお願いを聞き、蒸気機関車のように去って行った。
若林さんの心は見透かされている。
お嬢様は僕の方に向き直し、穴があくほど見つめてきた。
「あ、あの⋯」
カチコチと時計の音が部屋に響く。
言葉が発せられることはなく、時間だけ過ぎていく。
どれだけ過ぎたのか分からないが、お嬢様は僕の観察に飽きたのだろう、口を開いた。
「私の姉はね、天才なのよ。二人共」
「三姉妹、でしたね」
「うん。百合お姉様は音楽。紅葉お姉様は絵。私は何もない」
「⋯⋯」
会ったことはないが、次女は紅葉さんと言う名前のようだ。
自分を卑下するお嬢様は、悲しむ様子もなく、諦めた、冷めた顔をしている。
「もちろん、努力した。お姉様の真似をしてピアノを弾いたり絵を描いたり、したのよ」
時松家に生まれたお嬢様は、二人のお姉さんの背中を見て育ち、そして努力したのだろう。
同級生やご両親の視線もあっただろう。
僕には家族や友達の記憶が空っぽだから、想像しかできない。
「でもね、追いつけないの」
「追いつけない、ですか⋯」
オウム返ししかできないでいると、清々しいほどに凛とした笑顔を向けてきた。
「努力の天才が努力をしても、天才が努力を続ける限り、勝てないのよ」
なんて返せば、お嬢様は救われるのだろう。
なんて返せば、努力が無駄ではないと証明できるのだろう。
「そんなことない」ではいけない、「そうですね」も違う。
正解があるなら知りたいくらいだ。
「勝ち負けじゃないって⋯自分を鼓舞したこともあるんだけどね」
そう言うと、お嬢様は床を蹴り、くるくると回る。
回転椅子が回転し、目が合ったり合わなかったりの繰り返し。
メリーゴーランドのように心地よいスピードで回り、満足したのか、突然ぱんっ!と両手を叩いた。
「はい!もうこの話終わり!」
「⋯お嬢様⋯」
くるくる回っている間に、話すか否かを思案したのだろうか。
それとも純粋に卒業後の話は、これ以上したくなかったのか。
そういえば、お嬢様のことを何も知らない。ミーニャが好きなのは知っているが、何が好きで嫌いか、答えられないし、そもそも年齢も知らない。
表面上のお嬢様のことしか知らない。そんな僕にあれこれ言われたら、嫌だろう。
「朝ご飯の支度ができていますから、行きましょう」
「⋯⋯⋯⋯は?」
腹が減っては戦はできぬ。である。
「お腹空いていませんか」
「⋯⋯⋯空いてる」
「はい。では行きましょう⋯いえ、参りましょう、ですかね?」
「どっちでも良いんじゃない?」
呆れた顔をしている。何故だ。
「あのね、執事。普通は慰めるんじゃないかなぁ」
「何故ですか」
お嬢様には悲壮感もないし、僕の言葉は響かないと思う。
「そうですよ〜、勝ち負けじゃないですよ〜とか」
声真似を披露してくれたが、全く似ていないし可愛いので、まぁ許します。
「私は、お嬢様のこれまでの人生を知りません。それに、私にはここで目覚める前の記憶が、何一つありません。それなのに、誰かに物を言う立場ではありません」
全て本当のことで、本心だ。
自分自身のことも分からない僕が、とやかく言うのは間違っている。
「そう⋯」
小さく口を開きそれだけ言うと、椅子から立ち上がり、大きな瞳に僕を映した。
「なら、これからね」
「⋯?」
「これからの私を、見て、知ってね」
「一一一一一っ!」
囁くように言われ、ゾクリとした。
妖艶な笑みに、釘付けになってしまう。
「お嬢様⋯」
「なぁに」
僕はとっさに両手で照れた顔を隠す。
「反則ですよそれ⋯」
「何の話?」
僕が羊(執事)だから良かったものの、同級生の男の子だったら、ハートを射抜かれていた。
そう思うくらいに、色気があり、狙った獲物は逃さない一一そんな顔をしていた。
「ふぅー⋯」
落ち着こう。僕は執事で、この方はお嬢様だ。
⋯よし。
「お嬢様、とりあえず着替えて下さい。その後に朝食をとりましょう」
「分かった。部屋の外で待ってて」
「はい」
にしても、お嬢様は頭部だけ羊の僕にも優しいんだな⋯。
ミーニャが好きだし動物が好きなのかもしれないな。
「では、お待ちしております」
「うん」
扉を開けて、お辞儀をして出ようとする瞬間だった。
「⋯⋯本当に、覚えてないんだ」
小さな声だった。
今日に限って聞こえてしまった。
もしかして、また試されたのだろうか。
表情を想像するが、うまくできない。真っ白なキャンパスを前に、筆が動かない感じだ。
しばらくするとドアノブが動き、お嬢様は制服姿で現れた。
「学校に行かれるんですか?」
「ううん。私服嫌いなの」
「そう、ですか⋯」
僕の横をスタスタと通り過ぎると同時に、ラベンダーのような匂いが鼻を刺激した。
(あれ⋯⋯?)
どうしてだろう。この匂いを知っている⋯?
(香水かな?さっきはしてなかったはずだけど⋯)
刹那、頭がズキズキと痛みだした。
「⋯っ!」
唐突の痛みと視界の歪みに、耐えられずその場にしゃがみ込んでしまった。
「ちょ、ちょっと大丈夫?!誰か!誰かいる?!」
一体どうしたんだろうか。体が言うことを聞かない。
息が荒い。心臓の音もうるさいくらいだ。
「しっかりして!」
お嬢様の焦る声が聞こえたが、遠くに感じた。
✱
脳内で切ない声が再生される。
「先生⋯」
誰のことだろう。
「卒業したら⋯会いに来るから!」
卒業⋯?
「え⋯それでもダメなの?」
話が見えない。
「だ、だったら!仕事クビになったら執事にするよ!」
クビになるようなことをするのか。それとも、もうしたのか。
「⋯⋯本当に、覚えてないんだ」
一一一一一一え?
そのセリフはお嬢様の一一
「っ⋯うっ⋯⋯っ」
「?」
何か聞こえる。何の音だろう。
ゆっくりまぶたを開けると、知った天井が視界に入る。
ああ、この天井か。
「ぐすっ⋯」
鼻をすする音が聞こえる。
天井に向けていた視線を、音のする方へと移す。
「⋯⋯!」
お嬢様だ。僕の手を握り、顔をくしゃくしゃにして泣いている。
僕の為に、こんなに泣いてくれる人がいるのか。
不謹慎だが、嬉しく思う。
「お、じょう、さま⋯」
「⋯⋯!」
絞り出す声に気付き、とっさに顔を上げたお嬢様は、金魚のように口をパクパクさせている。
瞬きを忘れた瞳からあふれる涙が、僕の手の甲に落ちる。
「だ、だ⋯だ大丈夫なの?!」
「は、い⋯」
「待ってて!すぐに進藤さん呼んでくるから!」
ガタン。と椅子が傾き床に倒れるのも気にせずに、猪突猛進に扉へ走っていく。
以前は偽善白衣とかなんとか言っていたが、今は違うんだな。さすがにそういう空気じゃないか⋯。
バタバタとお嬢様の足音が離れていく。
僕の周りに、ラベンダーの香りがかすかに残る。
頭が痛い。
思い出そうとすればするほど痛くなる。
ああ、これはあれだ。
知らぬが仏。
手の甲についた涙に、そっと触れた。
僕が泣いたら、同じ色だろうか。
虹色だったら、びっくりするだろう。
そういえば、アヤメは学名がイリスで、ギリシャ語で「虹」だったかな⋯。
曖昧だが覚えている。虹の女神だったかな。
意識が朦朧とするなか、頭が羊になる前は、何をしていたのか想像する。
花のことをよく覚えているから、花屋さんだろうか。
もし花屋さんなら、アヤメをお嬢様に差し上げたい。
アヤメを手に微笑むお嬢様⋯女神かもしれない。
妄想が膨らみかけたが、そこでプツリと途切れた。
私はお嬢様だけの執事です。 @entei
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