第一幕 優しき日々、赫血の予感:後編

「好き」って言えば、

このざわつきに、名前がつけられる気がした。


涙が出なかった。

でも、笑顔も上手く作れなかった。


だから私は、ただ言葉にしてみた。


「ずっと一緒にいたい」


本当かは分からないけど、

それでも――そう言わずには、いられなかった。




















――赫血の運命の影――

 


私は「好き」ってことにしていた。

そうすれば、胸がぎゅってなるこの感じにも、名前を与えられる。


 


けれど――本当は、よく分かっていなかった。

守りたいって、どういうこと?

一緒にいたいって、どんな意味?

どうして、あの子の笑顔を見ると、喉が詰まりそうになるの?


 


まさみちは、私をまっすぐ見つめる。

何も持っていないのに、何も守れていないのに、

それでも私に笑いかけてくる。


 


そのたびに、胸の奥がざわついた。

“演技”でも“模倣”でも処理しきれない感覚が、

喉の奥に引っかかるように残った。


 


私は、万能だった。

勝てる、読める、動ける。

感情なんて、形にすれば理解できるものだと思っていた。


 


でも――

まさみちだけは、違った。


 


彼の笑顔に、正解はなかった。

彼の涙に、適切な返答がなかった。

「姉ちゃん、大好き」と言われた瞬間、私の中の“答え”が崩れた。


 


理解できない。

でも、否定もできない。


 


この“ざわつき”は、

きっと何か、大切なものなんだと思った。


 


だから私は、それも「好き」ってことにした。


 


「私がいるから、大丈夫だよ。まさみちは、私がずっと守ってあげる!」


 


その台詞が正しいのかどうかも分からないまま、

私は、ただ“そう言うべき”だと思って言った。


 


今は、まだ――。


 


 


万能で、無敵で。

でも、ただ笑っているだけだった私は、

彼といるときだけ、“正体のない揺らぎ”に飲み込まれそうになった。


 


それが「楽しい」なのか、「怖い」なのかも、

まだ私には処理できなかった。


 


――それでも私は、その時間に、微かに“生”を感じていた。


それは確かに、私にとっての

小さな、仮初の“生”だった。







【天才と小さな影】

 


町の子どもたちは、沖田司のことを“別格”だと思っていた。


 


誰よりも足が速くて、跳び箱も一発で飛び越える。

竹馬は最初の一歩で乗れてしまうし、読み書きも、そろばんも、字の形まで綺麗だ。

それでいて、笑えば愛嬌もあるし、大人たちの受けもいい。

なにより、どこか“浮世離れ”している。


 


だから、みんな思っていた。


 


「あの子は……“人間じゃない”みたいだよね」

「神さまの子とか、天女の生まれ変わりとか……」


 


でも、そんな司の隣には、いつも一人の男の子がいた。


 


鈴のついた草履を履き、ほっぺを真っ赤にして息を切らせながら、

一生懸命、ちょこちょこと走ってくる男の子――まさみちだった。


 


司が走れば、彼も走る。

司が跳べば、彼も跳ぶ。

司が九九を唱えれば、彼も「いーちいちがいち!」と叫ぶ。


 


もちろん、彼の足は遅い。

文字もうまく書けないし、竹馬に乗ると転んで膝を擦りむく。

でも、どんなに差をつけられても、まさみちは決して司の背中を諦めなかった。


 


「……すげえ根性だな、あいつ」

「ふつう、あんな天才のそばにいたら嫌になるだろ……」

「でもさ、司ちゃん、けっこう優しいよな」

「うん、あの子にだけは……って感じ。なんでだろうな」


 


町の子どもたちは、ぽつりぽつりとそう話した。


 


羨ましくないと言えば嘘になる。

でも、誰も正道の場所にはなりたがらなかった。

だって――**「あんなに頑張れるか」**と思ったからだ。


 


まさみちは、五歳だった。

けれど、**その年齢に似合わぬ「諦めなさ」と「覚えの早さ」**を持っていた。


 


司がぽろっと言った言葉を、彼は何度も何度も口に出して覚えようとした。

「掛け算は“しきたり”みたいなもんだよ」と言われれば、翌日には一の段を暗唱してきた。

「投げ方は手首が肝心」と言われれば、何度も小石を投げて、腕を真っ赤にしていた。


 


誰も見ていないところでも、彼は努力していた。

それを「努力」と思わず、「姉ちゃんの言葉だから」と当然のように。


 


だから、町の大人たちは言った。


 


「あの司ちゃんは“天才”だけど……」

「まさみちも、あの年であそこまでやるのは、たいしたもんだよ」


 


そして、子どもたちは、うすうす感じていた。


 


――司ちゃんの“笑い方”が少し自然になるのは、

  あの子がそばにいるときだけかもしれない。


 


異質な天才と、無骨な努力の塊。

まるで月と灯火のように異なるふたりは、なぜか不思議に並んでいた。


 


そして、それはきっと――

まだ「感情」という名前を持たぬ何かで、

司の心のどこかを、確かに温め始めていたのだった。





――幼き恋のようなもの、そして別れの時――

「え……京都に、行くの……?」


その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥で止まった気がした。


だけど、すぐには意味が理解できなかった。


頭では分かっている。

“遠くへ行く”――それがどういうことか、私は知識として知っていた。


でも、感情がついてこない。

ひやりとした何かが胸に流れた気がするけれど、それが悲しみなのか寂しさなのか、わからない。


「うん……父上が、京の役に就くことになって……来週には、出立するって」


私は、一拍遅れて息を飲み込んだ。


「やだよ……そんなの、やだっ!」


――“好き”な相手が離れるなら、こう言うべきだ。

そう思ったから、私は叫ぶように言葉を選んだ。

声を震わせてみせた。涙ぐんだ表情を作って、袖をぎゅっと掴んだ。


でも――


それが本当に“悲しみ”なのかは、やっぱり分からなかった。


「だって……いつも一緒にいるって言ったじゃん……

明日も遊ぼうって、ずっと、そう言ってたのに!」


涙は……出ない。

目は熱くもならなかった。


それでも、表情を崩してみせる。泣いているように。

“こういうときは泣くべき”だと思ったから。

そうすれば、伝わると思ったから。


「ごめん……でも、行かなきゃいけないんだ……僕は、御家人の家の子だから……」


「そんなの、関係ない! 私のこと、捨てるの……!?」


そう言いながらも、心のどこかで冷静に思っていた。

この言葉は少しドラマチックすぎるかもしれないな、って。

でも、きっと感情が高ぶっている時は、そういうものだから――と、私は自己修正した。


まさみちの手が、私の手の上に重なった。


「捨てないよ……絶対、忘れないよ。司姉ちゃんは、ずっと僕の……大切な人だもん」


――“大切”。


それは、きっと“好き”に近い言葉。


私も言わなきゃ、と思った。


「私……まさみちのこと、好きだよ……ずっと一緒にいたいよ……」


口にした瞬間、胸が――少しだけ、苦しくなった。


これはエラーだ。

プログラム通りに動いていたはずの心が、うまく整わなくなった。


それでも、私は笑ってみせようとした。


……けれど、笑顔が上手く作れなかった。


いつもなら、唇を吊り上げて、頬を引いて、目元を少し細めれば“笑ってる”顔になるのに――


今は、なぜか動かない。

命令を送っても、体が応答しない。


おかしいな。おかしい。

なのに――その“おかしさ”が、なんだか、苦しかった。


「……私、大きくなったら、京都に行く。

だから、待ってて。

絶対、また会いに行くから!」


それは、きっと“希望”を伝える言葉。

前に読んだ小説にも、そう書いてあった。


まさみちは目を丸くして、それから、少し泣きそうな笑顔で頷いた。


「……うん。約束、だよ?」


「うんっ、やくそくっ!」


指切りをして、拳固をして、意味も知らないまま血の契りまで真似した。


私たちは、それが“別れ”を乗り越える儀式だと信じていた。


その夜――私は、泣かなかった。


日中に泣く“ふり”をした。感情は演じた。

だから、もう泣かなくていいはずだった。


でも、布団の中で目を閉じたとき、胸の奥が、ずっと重かった。


寂しいのか? 悲しいのか?

わからない。わからない。


けれど、体のどこかが、しんと冷たくて、息をするのが少しだけ苦しかった。


「強くなれば、また会える――」


そう思った。

そう思うようにした。


……そうすれば、たぶん、今夜は眠れる気がした。





――赫血の再会――

再会は、まるで風が止むように静かに――そして不可避な一手のように唐突に、訪れた。


司があの“事件”以来、ずっと胸のどこかに空いたままの何かを、ただ黙々と剣で埋め続けていた頃だった。


かつて笑い、信じ、唯一「人」として自分を見てくれていた誰かを、自らの手で手放してからというもの――

沖田司は、どこか機械のように、生の実感のない日々を積み重ねていた。


息を吸い、剣を振るい、命を斬る。

それらはすべて、淡々と整った動作の一部であり、もはや何の感情も混じっていなかった。


だが――その日、その名前が耳に入ったとき、時計の針が、一瞬だけ止まり、そして再び動き出した。


「新入りだ。正道って言う。」


それだけの紹介だった。


だが、司の心臓は、久しくなかった静かな跳ね返りを見せた。


それは鼓動というより、記憶の震えだった。


振り返る。


そこにいたのは――まさみちだった。


いや、少年はすでに成長し、その名を「正道」と改め、まっすぐこちらを見据えて立っていた。


かつての幼さは、跡形もない。


武士としての厳格さを纏った面差しに、かつて「司姉ちゃん」と笑っていた面影は薄くなっていたが――

それでも、あの頃の優しいまなざしは変わらず残っていた。


「……あれ……司……姉ちゃん……?」


その声音に、司は何も言わずに、ただ、いつものように微笑んでみせた。


――この瞬間に、何を返せばいいのか。

それはきっと、“笑う”という動作だろうと、どこかで思考したから。


「もう“姉ちゃん”って年でもないよ。

それに……今の私は、“沖田総司”だから。」


それは、きっと冗談のように聞こえたかもしれない。

けれど、その言葉の内には、かつて交わした誓いも、失われた幼き日々も、すべてを封じ込めたような冷たさがあった。


正道は戸惑った顔を浮かべた。


だが司は、その揺らぎすら見ていないふりをしていた。


「……久しぶり。元気だった?」


その問いかけもまた、どこか他人行儀で、遠い。


けれど、たしかにそれは――

剣の鬼となり、人の感情を模倣しながら生きてきた沖田司が、初めて“誰か”に向けて、心の奥から発した言葉だった。


その夜から、司の歩みは少しずつ変わり始めた。


機械のようだった振る舞いに、わずかに“呼吸”のリズムが戻り、

常に無感の眼で見ていた世界が、かすかに色を取り戻し始めた。


再会は、過去が戻った瞬間ではない。


再会は、前へと進むための、再び歯車が噛み合った一瞬だった。


そしてそれは同時に、

少女が“赫血”と呼ばれ、鬼の如き強さを得てなお、避けようのない運命に向かって歩き出す瞬間でもあった。


――もう一度、会ってしまった。

そのこと自体が、決定的だった。


この再会は、始まりではない。


約束された、悲劇への“続き”だった。















あとがき

◆正道(5歳、元気いっぱい)

「司姉ちゃん! ぼく出番あった! あったよね!? なんかかっこよかったよね!?」


◆司(淡々と、でも少し照れて)

「うん、まあ……正道は、がんばってたと思うよ。……あの頃にしては、ね?」


◆正道(食い気味)

「“しては”ってなに!? ぼく、血の契りまでしたんだよ!? あと拳固とか……拳固ってなんだっけ?」


◆司(くすっと笑って)

「勢いで言っただけでしょ、ほとんど。あんた、“契り”の意味、わかってなかったじゃん」


◆正道(えっへんポーズ)

「でも“大切な人”って言ったのは本気だったよっ!」


◆司(表情をやや逸らして)

「……うん、知ってる。……たぶん、あれが初めて、“言葉が刺さった”瞬間だったかもね」


◆正道(ぽかん)

「……ささった!? 司姉ちゃん、ぼくの言葉で怪我したの!?」


◆司(吹き出して)

「ちがう! そういう意味じゃないってば! もー、もうちょっと大きくなってから読んでよ、この章!」


◆正道(ムキになって)

「じゃあ次、かっこいい剣のシーン書いてよ! できれば、ぼくが司姉ちゃん守るやつ!」


◆司(にやり)

「ふーん……じゃあ、“主人公のピンチに駆けつける5歳児”ってことで、いい?」


◆正道(びしっ!と指さして)

「うん! そんで、最後にお姫様だっこして逃げるんだ!」


◆司(真顔で)

「……物理的に無理」


◆正道(がーん)

「えぇぇぇぇ~~っ!?」


◆司(ちょっと笑って)

「でもまあ……そばにいてくれるだけで、充分だったよ。……ありがとね、まさみち」


◆正道(照れてぼそっ)

「……うん。また、一緒に遊ぼ?」


◆司(優しく)

「うん。約束――だよ」


(*このあと、再び運命がふたりを引き裂くとも知らずに。)

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