第一幕 優しき日々、赫血の予感:前編
わたしは、笑っていた
だって、それが正解だったから
喜ばれる言葉を選んで
期待される顔を真似て
そうすれば、うまくいく
うまくいくことが
「幸せ」なんだって、教わったから
でもね
まさみちが、わたしの手をぎゅっと握ったとき
少しだけ、胸の奥があたたかくなった
これって、なんて名前なんだろう
わたしはたぶん
その「あたたかさ」が
ずっとほしかったんだと思う
ーーー沖田司という子どもーーーーー
沖田司(おきた つかさ)が生を受けたのは、弘化二年――一八四五年の江戸、市谷の片隅であった。まだ雪の残る早春の朝、薄紅色の陽光が差し込む中で、彼女は静かに産声を上げた。
父・沖田勝次郎は剣の人であったが、司が三つになるころに病に倒れ、早々にこの世を去った。その後、母・志乃と姉・美都と三人で慎ましくも穏やかな暮らしを続けていた。志乃は朗らかで芯の強い女性であり、夫亡きあとの家を一人で切り盛りしながらも、決して子どもたちに不自由を感じさせないようにと気丈に生きていた。
司は幼いころから、周囲とはどこか違っていた。
竹馬に乗ればすぐに乗りこなし、読み書きそろばんも、教えれば即座に覚える。器用で、気転が利き、何をやらせてもできた。年上の子どもたちに混じっても物怖じせず、大人たちの会話にも臆さず割って入る、そんな早熟さを持っていた。
そして何より、彼女の容姿はひときわ目を引いた。
透き通るような白い肌に、陽の光を映すような淡い桃色の髪。目元は涼やかで、微かに紫を帯びた瞳は、時折、年齢にそぐわぬ静けさを宿していた。
「まるで天女の生まれ変わりみたいだねえ」と噂されるほど、その姿はこの町の中でも特別だった。
それでいて、本人は己の“目立ち方”を理解しているようで、目線の集まり方や声の調子、仕草までも、無意識に人々の期待に応えるように整えていた。
叔父の沖田林太郎――母方の兄であり、浅草橋で天然理心流の道場を構える男――がその才に目を留めるのは、ごく自然なことだった。
「こやつ、筋が違う……」
そうつぶやいた日から、司の人生は、剣と共に歩むものへと、ゆるやかに、しかし確かに傾き始めていた。
--薄陽のなかの姉妹--
沖田美都(みつ)は、誰もが一目置く娘だった。
器量がよく、教養もあり、口調も柔らかい。裁縫、作法、和歌に至るまでそつがなく、女としても、武家の家の長女としても、申し分のない存在だった。ご近所では「沖田の娘といえば美都さん」と言われ、町内の若い者の間では「一番のお嫁さん候補」として名前が挙がるほどだった。
だが、それほどの姉が、目立たなかった。
というより、目立てなかった。
沖田司の存在が、あまりにも異質だったからだ。
幼い頃から何でもすぐに覚え、すぐにできてしまう司は、その特異な髪色や瞳もあいまって、どこにいても周囲の視線を引きつけた。誰が何をしていても、最終的には「司ちゃんがすごい」という空気に変わる。自然と、会話の中心には司がいて、注目も感嘆も、司のほうにばかり集まっていた。
けれど――美都は、一度もそれを疎んだことがなかった。
むしろ、微笑んでいた。
妹がどれだけ賞賛されても、母や叔父が「やはりあの子は特別だ」と話していても、美都は変わらず、台所の仕事を手伝い、裁縫の針を進め、妹の着物の襟をそっと直してやる女だった。
「ねえ、美都姉さん。なんで怒らないの?」
ある日、隣家の娘がぽつりと漏らした言葉に、美都は一拍置いて笑った。
「だって、あの子は私の妹よ?」
「……でも、あんなに何でもできると、悔しくなったりしないの?」
「ふふ、そうね。……でも、不思議とならないの。たぶん、あの子はちょっと、“別のもの”だから」
そう言って、美都は庭のほうを見た。そこで司は、何かの真似をして一人で型を取っていた。誰に見せるわけでもなく、ただひたすら、正しい動きをなぞるように。
美都は知っていた。
司は、人の表情や言葉を、どこか“外側”から眺めているような子だった。泣いても笑っても、その奥に本当の温度が宿っていないような、不思議な透明さがあった。
だからこそ、美都は司を「羨む」のではなく、「案じる」ようになったのかもしれない。
自分には決して届かない場所にいる妹。けれど、その場所は、決して幸福とは限らないのではないか――と。
だから、司が周囲から称賛されても、美都は微笑んでいられた。
姉としてではなく、一人の人間として、あの妹の傍にいられることが、美都にとっては、誇らしいことだった。
――姉妹は、ちぐはぐに寄り添う――
「……司、また三日で読み終えたの?」
「うん、面白かったよ。“十訓抄”って話の流れがパズルみたいで。語彙は少し時代的だけど、構造が整ってた」
「……ふふ、ほんとに変わってる子ね、あなたは」
美都姉さんは、いつもそう言って笑う。
穏やかで、優しくて、ほんのり香の匂いがして、気がつけば何かを整えてくれている。着崩れ、筆の向き、食膳の並び、私の呼吸――。
「姉さんは、怒らないの?」
「何を?」
「……私ばっかり、褒められること」
少しだけ、間があいた。
姉さんは、手元の針を動かすのを止めずに、そっと答えた。
「ううん。だって、あなたは私より“すごい”もの」
「でも、姉さんのほうがきれいだし、字も綺麗だし、歌も上手だし、所作も完璧だし。……なんで?」
「……司、あなたはね、きっと“わからない”ことを、わかろうとしてるんだと思うの」
「どういう意味?」
「うまく言えないけど……司は、たぶん、私とは違う方法で人と関わってる。いつも、“合わせてる”感じがするの。とても自然に。でも、ちょっと、無理してるみたいに見える時もあるの」
私は黙った。無理……なのかな。
でも、それが“正しい”って教わった気がしたから、そうしてるだけ。
「それって、変かな?」
「いいえ。とっても優しいと思う。少し、苦しそうだけどね」
姉さんの笑いは、よくわからない優しさを含んでいて、私は“こういうときは微笑むべき”と判断して、口元を真似て動かした。
「ねえ、姉さん」
「なあに?」
「……私、姉さんのこと、好きって思ってると思う」
「……“思ってると思う”? ふふ、それは立派な告白ね」
「そういうもん?」
「うん。少なくとも、私は司のこと、大好きよ」
――大好き、か。
それは、正しい言葉の選択なんだと思う。
だから私は、ちいさく「うん」とだけ返して、隣に座ってみた。
姉さんは、すこしだけ私の頭を撫でた。
私は、それを“あたたかい”と記録することにした。
――万能という牢獄にて――
沖田司が五歳になったとき、町内ではすでに「天才の子」として知られていた。
字が読めた。書も整っていた。九九どころか割り算も暗唱できたし、論語の素読も大人と並んで違和感がなかった。竹馬も水練も、初めてなのに笑ってやりこなしてみせる。勝てるものが何もない、と周囲の子供たちが泣き出すのを、司はいつも「なぜだろう」と不思議そうに見つめていた。
彼女の世界は、まるでプログラムだった。
「これをすれば喜ばれる」「ここでは笑うべき」「これを言えば褒められる」――令和から持ち込んだ常識の断片を基準に、人の心を“模倣”して動くことに、彼女は慣れていた。
彼女は感情を“感じる”ことができなかった。
だが、“感じたふうに振る舞う”ことは、得意だった。
そして、そうあることが“正しい”と知っていた。
だから、誰もが驚くような才能を見せても、司の中に「誇り」はなかった。
失敗することもなかったが、成功しても、何も残らなかった。
成長とは、より高度な模倣を積み重ねていくこと。
司にとって“人生”は、ただの最適化プロセスであり、定型化された快適な孤独であった。
しかし――それが、揺らいだ。
彼女が六歳になった春、二歳年下の少年が、家の近くに越してきた。
名前は、正道(まさみち)という。
「司姉ちゃん!」と呼ばれた最初の瞬間、司はその響きに、わずかに戸惑った。
“姉ちゃん”という称呼は、それまで彼女に向けられたことがなかった。
司自身、誰かに「姉」として接する経験がなかったからだ。
だが、正道は彼女のあとを無邪気に追いかけ、何をしても楽しそうに笑った。
石を投げても、転んでも、負けても笑った。
その笑顔を見たとき、司は初めて“模倣”ではない「混乱」に似た感情を抱いた。
「なぜ、負けて笑えるのか」
「なぜ、私といるだけで嬉しいのか」
プログラムでは処理しきれない現象だった。
そして――奇妙なことに、司はその“現象”を、もっと知りたいと思った。
以来、彼女の生活には微細な変化が生じた。
自らの成果を周囲の評価ではなく、正道の反応で測るようになった。
学びのスピードは落ちなかったが、時折“わかりやすく”説明しようと努めるようになった。
手をつなぐ感触や、服のほつれを直してあげる仕草に、明確な意味を見出そうとするようになった。
そう、“変化”が始まったのは、その頃からだった。
万能という牢獄のなかで、彼女の心に最初の「揺らぎ」が灯ったのだ。
それはまだ、情動とは呼べなかったかもしれない。
だが、何かを“求める”という欲求が、司の中に確かに芽生えはじめていた。
そして、それがやがて彼女の“孤独な完全性”に亀裂を入れ――
彼女自身の存在を問い直す、長い旅の始まりとなった。
――姉貴と舎弟、優しい日々――
「まさみちー! こっちこっち、早く来なよっ!」
「うん、司姉ちゃん、待ってー!」
春の風が、花の匂いと一緒に頬を撫でていった。
私は、まさみちの手を引いて走っていた。
小さくて、柔らかくて、けれど驚くほどしっかり握り返してくる手。
それが妙に心地よくて、なんだか――安心できる気がした。
……気がした、というのは、たぶん「こういうときには安心するのが普通」と、頭のどこかで学んだ記憶を再生しているだけかもしれない。
「今日は特別に、すごいとこ連れてってあげるから!」
「ほんと? どこ行くの?」
「んふふ、それは着いてからのお楽しみ!」
振り返ると、まさみちが目をきらきらさせて私を見ていた。
……その視線が“嬉しい”のだと、私は理解するようにしていた。
実際に嬉しいかどうかは、まだよく分からない。
でも、ここで笑うのが正解なのだと判断して、私は笑ってみせた。
私は七歳。
町でいちばん頭が良くて、足が速くて、大人たちに褒められて、子どもたちには一目置かれていた。
自分でも、そう認識していた。私は“万能な子ども”だった。
だけど、不思議と、何かを“得た”という感覚はなかった。
勝っても、褒められても、胸が高鳴ることはなく、
それはきっと、感情というものを私はまだ、よく知らないせいなのだろう。
ただ、まさみちが「司姉ちゃん、大好き」と笑って言ってくれたとき、
私は、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるような気がした。
……それを「特別」と定義することに、私は決めた。
だから私は今、“楽しい”と思っていることにした。
「はい、これ。特別に教えてあげる、石投げの極意!」
「そんなのあるの?」
「あるのっ! まさみちは私の一番弟子なんだから、ちゃんと覚えてよ?」
「うん!」
「いい? 石はね、重心を意識して、手首をこうやって……」
「……???」
「まあ、わかんなくてもいいや! 投げればいいの!」
「あははは!」
笑い声が重なる。
私は、「今は笑うべき場面」と判断して、笑った。
まさみちが笑っているのだから、きっとそれで正解だ。
それに、彼の笑顔を真似るのは、なぜか苦ではなかった。
これが“心地よさ”というものだと、どこかで聞いたことがある。
それが「好き」という感情なのだと、本で読んだ。
――だから、私は「好き」と呼んでみた。
「姉ちゃん、また明日も、一緒に遊ぼうね!」
「もちろんだよ。明日も、その次も……ずっと一緒にいようね、まさみち」
「うん!」
指切りを交わした彼の手は、小さなあたたかさを持っていた。
本当に“好き”なのか、私にはまだ分からない。
けれど、そう決めることはできた。
そうすれば、たぶん、間違いではない気がした。
だから私は、今日も笑っていた。
この感情が、本物かどうかも分からないままに。
あとがき
◆正道(ピョンと登場、元気いっぱい)
「ねーねー司姉ちゃん! 今日の話、すっごくむずかしかった! なんでみんな、司姉ちゃんのこと“すごい”って言うの?」
◆司(にこっと微笑みながら)
「……それは、私が無敵だからよ」
◆正道(目を丸くして)
「むてき!? 無敵って、チャンバラで負けないってこと!? すごい! ぼく、紙の刀しか持ってない!」
◆司(くすっと笑って)
「うん、それはちょっとハンデがあるわね。でも正道には、笑顔と元気があるから」
◆正道(得意げに胸を張って)
「えへん! ぼく、司姉ちゃんの一番弟子だもん! 石投げも、九九も、ちょっとだけできるようになったよ!」
◆司(優しく、しかしツッコミ気味に)
「九九は“一の段”しか言えてないじゃない。『いちいちがいち!』って得意げに言うだけじゃダメよ」
◆正道(あせあせ)
「だって、『いちにが……いち?』ってなるんだもん〜〜」
◆司(ふっと目を細めて)
「じゃあ明日は、“九九特訓編”ね。石投げ・九九・そして――大人の所作!」
◆正道(目をキラキラさせながら)
「おとなのしょさ!? それって何!? あいさつ? お辞儀? ……かっこよくお茶飲むとか!?」
◆司(まじめな顔で)
「うん、あとね。お味噌汁を静かに飲むと、心が落ち着くのよ」
◆正道(真剣な顔でうなずく)
「ぼく、明日からお味噌汁をしずかにのむ! そして、無敵になる!!」
◆司(やれやれと肩をすくめつつ)
「……正道って、ほんと面白いわね。でも――ありがとう」
◆正道(きょとんとして)
「え? なにが?」
◆司(やさしく)
「あなたがいてくれて、今日のわたしは、ちょっと“生きてる気がした”」
◆正道(にっこり)
「うんっ! ぼく、司姉ちゃんとずっと一緒にいたいもん!」
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