願いと繫栄
笹川ドルマゲドン
願いと繁栄
照り付ける日差しはじりじりと肌を焼き、視界の先にはありもしない水溜りが見える。まだ六月だというのに、暑さに呼ばれた蝉が鳴いていた。
梅雨という季節が噓のように、雲の一つもない青い空。日はちょうど頭の真上にあって、小さな街路樹では涼むことさえできやしない。
心を癒すはずの小川のせせらぎも、まるで聞こえないのと同じだった。
学校を早退した。別にずる休みではない、保健室で横になりたかっただけなのに、ほんの少しの微熱のせいで帰れと言われたのだ。
父も母も仕事だから、一人で帰るしかなかった。
熱と日差しで茹だった頭では、バスやタクシーという選択肢も出てこない。歩き始めて十数分してからバスに追い抜かれて、ようやく己の判断を呪った。
急に視界が歪み、ぐらりと大きく傾いたかと思うと、肩に衝撃が走った。
倒れては、いない。地面についているのは両足だけだ。
一拍遅れて、肩に触れているのは橋の欄干であることに気付いた。水に反射した私が空に落ちかけている。
「死んでは良くないね」
言い方は優しいのに、どことなく寒気の走る声がした。
首から足まで鳥肌が立って、頭が急に冷えていく。重たかった足取りもだるい身体も、今だけはそれを忘れたように動いた。
振り返った先には誰もいない。細い街路樹とアスファルト、そして蜃気楼が続くだけだ。
何故か誰も居なくてほっとため息をつけば、足元に干からびた蛙の死骸が落ちていた。
あと一歩足りれば、干乾びずに済んだだろうに。
無情にも落ち着く音を奏でる川の流れに、なぜか悲しくなってしまった。
気付けば川に向かって死骸を蹴っていた。触りたくはなかったが、蹴ったら蹴ったで自分が心無い人間に思えて、余計に気分が暗くなった。
平べったいその蛙は、ポチャンと音を立てて川に沈みこんだかと思うと、今度は浮き上がってそのまま流されていった。
肝が冷えたせいか幾らか頭も回るようになって、大きく伸びをしながら帰路を歩いた。
__
男がこちらに微笑みかけている。表情はうまく見えないが、口元が弧を描いているのだから笑んでいるのだろう。
灰と白の混じったような着物を着た男は、こちらに腕を伸ばす。何とも細い腕だ、不健康というか、飯もろくに食えていなそうというか。
青白い腕はひた、と前髪の掻きあがったむき出しの額に触れた。ひんやりと冷たい手が心地いい。伝わってくる優しい涼しさに、初めて自分が暑いと感じているのだと気付かされた。
「だ、れ」
乾いた喉は声もうまく発せず、浅い呼吸に交じって掠れた音を吐くばかりだ。男はずいと顔を近付けると、どこから取り出したともわからない水を私の体に掛けた。
着ていた服が体に張り付いて変な感じだ。確かに熱いとは思っていたし、涼しさを求めてはいたが、これでは余計に風邪を拗らせそうである。
眉間に皺を寄せながら困惑する私をしばらく見つめる男の目はやけに曇って見えた。
「目、見えないんですか」
「そうらしいね」
ようやく言葉を発した男の声は、なぜか聞き覚えがあった。優しいのに気が休まらない感覚に、蛙の死骸を川に蹴り飛ばした記憶が映像のようになだれ込んできた。
男は他人事のように呟きながら、細い指を自身の目玉へと伸ばしていく。
確か、コンタクトレンズは入っていなかった。曇りは眼球そのものだとわかる距離感のはずだ。
だのに躊躇もなく伸びていく指先は、とうとうそこへひたりと触れた。
痛覚などまるでないのか痛がるそぶりもなく、「やはりだめか」と呑気に呟く男に眩暈さえ覚えた。
「でも少しは見えるよ。あれ、顔色が悪いね、どこか怪我したのかい?」
男はこちらに手を伸ばし、頬を支えながら顔をさらに近づけて、濁った眼をしきりに細めていた。肌を舐めまわすように下へ下へと頭を動かし、濡れた服を引っ張って腹まで確認しようとする。
慌てて「大丈夫です」と頭を振って、冷たい男の手首を押した。
正直触るのさえ恐ろしかった。異常者か、人間ですらないのか、その二択でしか表せない存在。それでも服を掴んで離さないのだから、鳥肌が立つのを堪えながら触れるしかなかった。
「服、こういうものにした方が接しやすいかね」
男はぽつりと呟くと、瞬きひとつの間に、汚れた白装束から着崩した制服に変化した。
人ならざる者なのだ、とようやく安堵した。一番怖いのは人間だと本能的に思っていたのかもしれない。
正体がわかってからは、彼の声もただ優しいものに感じられた。それでもやはり人ならざる者特有の凄みがあって、少し背筋が冷えるが。
「橋の上で、私に話しかけてきた方ですか?」
「そうだよ、病で川に落ちかけていた子。無事か心配でここまで来てしまったけれど、大丈夫そうだね、良かった」
男は我が子を愛しむような表情で、服を握っていた手を伸ばし、頭を優しく撫でた。くすぐったくて吹き出せば、一瞬呆けた顔をして、またにこやかに撫で続ける。
「そうだ、それとお礼を言おうと思っていたんだよ。川に私を流してくれたからね」
感情の読めない声が心臓を刺すようだった。
礼は礼でも、お礼参りをされそうな所業しか記憶にない。小川の精霊とばかり思い込んでいたが、蹴り飛ばした蛙の化けた姿だったとは。
頭が必死に言い訳を考え始め、熱の籠った頭から湿った皮膚を温(ぬる)い汗が伝っていく。震える、乾いた唇を何度か舌で濡らし、浅い呼吸を繰り返す。
白濁した瞳がじっと見つめていた。嘘を吐いたとて全てを見透かすかのように。
きっとこの体温も、急に吹き出した汗も、髪に触れたままの手から伝わっているのだ。
「ご、めんなさい、どうか許してください」
横たわっていた身体を起こして土下座の一つでもしたいのに、顔をつい合わせるように眼前に男の顔があるものだから、じりじりと後ずさりするしかなかった。
ようやく起き上がっていた上体に対応するように、男の顔は距離感をキープしたままずっとこちらを見ている。
上ずった声で謝罪をすれば、何とも言えぬ顔で男は首を傾げた。
「はて、私は別に君を責めてはいないのだが」
曇った眼を細めながら、表情を確かめるように顔に指を這わせてくる。細い骨ばった指が触れる度、ゾクゾクと悪寒が全身を駆け巡るが、それでも言葉のせいだろうか、何故か安心感がある。
「恨んではいないのですか?」
恐る恐る口を開けば、男は当たり前だとでも言うように頷いた。
一息つく余裕もなく、ならばどうして、という疑問が頭をよぎる。
「お前は、病に侵されているのだろう。他の人間が言っていた、ネッチュウショウというものだと。私は人間の病には詳しくないのだが、よくわからぬ管など繋がれていて、重い病だと思ったのだ」
そんなはずはなかった。あの後確かに家路を歩いていたはずだ。
しかし、確かに橋を渡り終えてから今に至るまでの記憶はすっぽりと抜け落ちているらしい、どんなに考えてもどう歩いたかなど思い出せない。
「俺、死にそうなんですか?」
目の前の存在が噓を吐いているようにも見えず、恐る恐る聞いてみれば首を横に振った。ただ「わからない、人間の病には詳しくないのだ」と困り顔で言った後、男は押し黙った。
どうしようもない不安と、熱中症で毎年何人も死人が出ていることを思い出し、心が凍てつくようだった。
いつもならこういう時鼓膜を震わせる心の音が、今に限って聞こえてこない。
「ここは夢の中なんですか?」
「お前にとってはそうだろう。永い夢になるか、短い夢になるかはわからないが」
含みのある言い方をしながら、男は切れ長の目を逸らした。さらりと耳にかけていた白髪の毛の束が顔の前に出てきては、鬱陶しそうに背中に回す。
その姿がどうしようもなく儚くて、触れたら一瞬で割れてしまうシャボン玉のようで。生き死にの境に立っているのは自分自身のはずなのに、目の前の男の方が先にふっと灯を消してしまいそうだった。
何か話していないとこのまますべてが搔き消えるような気がして、考えのまとまらない頭を動かし、どうにか口を動かした。
「俺も死んだら、こうして誰かの夢の中に出たりするんでしょうか」
「それは君の自由かな。夢に出られるのは一度だけ。友人でも、家族でも、他人でもいい」
ふっと笑った男は、顔に添えていた手を離すと、こちらの顔よりも随分と遠くを見ていた。
下がった眉と目尻に、薄っすら弧を描く口元が対照的だった。誰かを懐かしむような、そんな寂しい顔。
思わず息を呑んだ。男の感情が乗り移ったかのように、喉がきゅうと締まって苦しくなる。
「あなたは、家族の夢に出なくてよかったのですか」
絞り出すように口にした言葉に、男は眉間の皺をより濃くした。
ごくり、と生唾を飲み込むだけなのに、これほど長く感じられたことがあっただろうか。まるで時が止まったようだった。
発した言葉の重さに今更気付いて、目を泳がせながら必死に言葉を探した。
先程と微塵も違わぬ笑みを張り付けた男は、大きく息を吸ったと思えば小さく噴き出すように笑った。目を細めてこちらを見ながら笑う男に、困惑した顔で向き合えば、頬をつんと緩く押してくる。
「何分子供が多くて、誰の夢に出ていいのか迷っている間に死んだ体が干乾びてしまった。正直、人間と違って子育てする時間も短いし、どの子がどうとか、あまりわからなくてな」
子育て期間が短い分、寿命も同じように短いはずなのに。子供の区別がつかない親なんて。大家族だって子供の名前と顔は覚えていて当たり前だろう。
侮蔑を心の中だけにはしまっておけなかった。こちらの表情が芳しくないのがその曇った瞳に映ったのか、男は少し焦ったような表情で弁明する。
「私たちは一組の番で何百もの子を残す。私も、人間はそうではないのだと、君の記憶を読んでから知ったのだ。君もきっと知らないのだろう」
口調は初めから一定の固さのままだが、声音は感情をそのまま帯びているようだった。少し早口で、まるで自身に言い聞かせるように、こちらの返事を求めるでもなく。
男は深呼吸を一つすると、また元の感情の読めない声と表情に戻っていた。「少し取り乱した」とだけ言って口を噤むが、こちらから目を逸らすその顔はどうにも赤らんでいた。
「無理して繕っているなら、普段通りにしてください。多分その方が接しやすい、です」
男は聞くや否や、ふわりと表情も雰囲気も綻ばせた。伸ばした手で、こちらの頬を引き伸ばして笑顔を作り、「ならば君も柔らかい表情をしなさい。私だけこうでは寂しいから」と微笑んだ。
柔らかい、優雅で気品のある話し方は、先ほどの口調よりもよりその外見を引き立てる。まるで昔の貴族のようなのに、人間ではありえない距離感は相変わらずだ。
作られた表情に沿って笑おうとしたが、近さだけは変わらないのが何故かどうにもおかしくて、指を頬肉で押しのけるように笑ってしまった。
「さっきまでの表情が嘘みたいだ。そうやって初めから笑ってくれればいいのに」
あなたの繕った姿に委縮していたんですよ、と言葉が出かかったが、吸った空気と一緒に呑み込んだ。空気の塊が食道を圧迫し、上に抜けたか下に抜けたかはわからないが、身体の奥からグーと音がした。
途端に男は小さく噴き出して、「人間でも蛙の真似ができるんだね」と、自分の喉を抑えながらごくりと空気を飲んだ。喉奥からこちらにも聞こえるくらいの音が鳴って、二人で笑ってしまった。
口元に指を添えながら笑うその姿は、何とも上品で。今まで畏怖していたとはとても思えないほどに、興味を孕んだ視線を逸らすことができなかった
「こんな距離で鳴いていたら喧嘩になってしまうね」
男は数歩後ろに下がって喉を鳴らしていたが、急にふと驚いたようにこちらを見た。ひどい地響きのような音がして、何もない空間が急に狭まるような感じがした。
「これって自分が目覚めようとしているんですか?」
「そうだったら良かったんだけどね。君は危ない状態みたいだ」
自分が死にかけているというのに、どうにもパニックにはならなかった。普段なら、焦ると過呼吸と心臓の音で何も聞こえなくなるはずなのに、何もかもが落ち着いていた。
死んだらこの男とまたこうやって笑っていられるのかな、と死ぬことさえ肯定的に捉えてしまう。
「こら、君を生かすために夢に出ているんだから、そんなこと考えないで」
男は表情を険しくしながらぴしゃりとしかりつけた。そのままこちらに近付こうとするも、何かに押されたように転んで床に頭をぶつけている。
あまりにも勢いよくいったものだから、鼻からたらりと黒い血が出ていた。駆け寄って袖で拭おうとして初めて、自分が白装束を着ていることに気付いた。
それでも構わず、目が痛くなるほどの白を黒で汚した。じわり、と布の繊維に沿って広がる黒は、水に落とした墨のようにじわじわとすべてを呑んでいく。
ただ頭や鼻を打って出た血には思えなかった。
何かに耐えているような、苦しい表情。しかし、こちらの顔を見る時だけは、優しい笑顔を作るのだ。
「最後に一つ聞きたいことがあるんだ。君がもし子を持ったら、いつか私に顔を見せてくれるかい?」
男が死ぬ直前のようにそう言うものだから、言葉の意味など考えるまでもなく「当たり前です」と返していた。
唯一触れている鼻のあたりの白い肌がやけに冷たく感じて、目の前で命が失われてしまいそうで恐ろしかった。地についた骨ばった手を見つけては、そのまま消えてしまわないようにと握り締めた。男は痛みに顔をしかめたが気にする余裕はない。
男に触れている箇所にじりじりと痛みが走ったが、自分のことなど二の次だった。どこからともなく煙のくすぶるような匂いがして、本当にこのままでは男の存在が無くなってしまいそうだった。
「死ぬ直前みたいなこと言わないでください。子供の顔だってあの世で見せるから、消えないで」
曇った男の瞳が輝いた。みるみるうちに境目が潤んで、下睫毛に乗った涙はそのまま頬に零れる。
瞳を、瞼を震わせながら、地についたままの手を翻し、こちらの手を強く握り返した。焼けるような痛みはいつの間にか和らいでいた。
「ありがとう、君の願いのおかげで消えずに済みそうだ。お返しに私は君の繫栄を約束するよ」
するりと絹の織物が抜けていくように、あんなに強く握りしめていたはずの彼の手が抜けていった。
男は宙に浮いていた。絵巻物で見る神のように、淡くも強い光を放ちながら。いつ変わったのか、羽衣をなびかせて、触れられないほど高く浮き上がっていた。
別れが惜しくて飛び跳ねるが、指先は宙をかすめるだけだった。
「また会えるよ、私たちの再会は約束されたんだ」
男は先ほどの苦痛など何もなかったように、心からの笑みを浮かべて薄らいでいった。
否、遅れて気付く。空間ごと全て、夢の中の自分自身の意識が掻き消えていった。
__
目が覚めると、見慣れない天井だった。音がどうにも煩くて首を動かせば、医療ドラマでよく見る心電図モニターとよくわからない機械の群れがそこにある。
生きている安心感よりも、薄らぐ夢の喪失感の方が大きかった。
夢で見た男の顔が、もう思い出せなくなっていた。
重い身体を起こすと、サイドテーブルに置いてあったペン付きのメモ帳が目に入った。そこに曇った瞳と白い長髪、とだけ書き込んで、頭を抱えてしまった。
霧がかかったように、先程までそこにいたはずの男の記憶が薄らいでいた。まるでその夢に触れるのは禁忌だとでもいうようだ。それでも約束だけはしっかりと思い出せた。
忘れもしないだろうが念のためそのままペンを走らせると、途端にどっと疲れが湧いてきて、ペンを床に落としてしまった。
どさりと沈み込んでしまった上体を起こす気力もなくて、腕だけ下に伸ばそうとすれば痛みが走る。そういえば管も刺さっていたと聞いたことを思い出し、結局取れないのだから仕方ないと諦めた。
腕をベッドの上に戻すと、包み込むような睡魔が襲ってきた。落下するような睡魔の中に、僅かに煙の混じったような匂いがする。
ハッとしてその匂いを辿れば、彼の手を握り締めていたはずの左手だった。掌には、今まではなかったはずの火傷の跡。微かに煙の香る掌に顔を摺り寄せて、瞼の重さに身を任せた。
願いと繫栄 笹川ドルマゲドン @sasagawa_doll
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