このままじゃ溺れてしまう
数田朗
このままじゃ溺れてしまう
暖房のうなる音が思いのほかうるさく聞こえる。視線をあげると、結露したガラスの向こうに『ホテル』のHとOのネオンサインが大きく紫色に輝いている。格安のビジネスホテルの質の悪いかけ布団をたぐり寄せると、ねばついた液体が手についた。部屋が薄暗くてそれがローションなのか精液なのか分からない。
優吾はいつもセックスのとき、部屋を薄暗くしてくれと頼む。それはもしかすると、僕への配慮なのかも知れなかった。ゲイではない僕に、相手の体がよく見えないようにするための。
――そんなことしなくていいのに。
視線を窓から下ろすと、隣で眠る優吾がいる。優吾は気持ちよさそうに眠っている。僕は少しだけ腰を動かして、優吾に体を近づける。暖かかった。
優吾の顔を撫でようと手を伸ばすと、その指にはまった結婚指輪がネオンの紫色の光を反射した。僕はそれを自分でも驚くほど無感動に見つめた。
結婚し子供を作るという未来に疑問を持ったことはなかった。父も母も、そのまた父も母もそうして来たのだし、自分も自然とそうすることになるだろうと思っていた。
そしてそうした。
大学の同級生だった里紗と結婚し、産まれてきた子供に孝弘と名前をつけたとき、俺は幸せの絶頂にいた――とまでは言わないが、人並みの幸福を感じていた。自分が一人前になったと思った。ようやく大人になった、とも言えるだろうか。
孝弘が六ヶ月になるかと言うとき、久しぶりに参加したフットサルのサークルで妙な噂を聞いた。サークルメンバーの広瀬優吾が、ゲイではないかという噂だった。それを聞いた時、俺はある光景を思い出していた。以前――孝弘が生まれる前のことだ――新宿に行ったとき、広瀬が男と二人で歩いているのを偶然見かけたのだ。場所は丸の内線の改札近く。広瀬と男は別れ際に、ぽんと手のひらとてのひらを合わせた。ハイタッチと呼ぶにはあまりにささやかな触れ合い。一体なんだろうとそのときは思った。そんなことを普通するだろうか。僕の頭に、その光景は思っているよりも強く焼きついた。だから、その噂を聞いたとき、鮮やかにあのハイタッチが蘇ってきた。なるほど、つまりそういうことなのか。
広瀬はあまりサークルでも自分のプライベートをほとんど語っていなかった。サークルメンバーたちは好き勝手広瀬のことを語っていた。
ゲイとかそういう人たちのことを、最近ではLGBTとか言うらしい。少し前はセクシャルマイノリティと呼んでいたと思うのだが、いつの間に呼び方が変わったのだろう。それとも、セクシャルマイノリティとLGBTとは違うものなのだろうか。僕にはよくわからなかった。広瀬がゲイじゃないかという噂も飽きられて語られなくなったころ、夜の経済番組でLGBTの特集があった。どうやら彼らは結構金を持っていて、これからそこを如何にターゲティングしていくかがビジネスにおいては極めて重要なんだとか。同性同士でも加入できる保険だとか、性別不詳なキャラメイキングができるゲームなんかが紹介されていた。それを見ていたら、里紗は顔を顰めてリモコンを手に取りチャンネルを変えた。なんとなく触れてはならない気がして、俺は風呂に入った。
その特集に当事者として出演していたLGBTの人たちが、幼い頃にテレビで見たり話に聞いたりしたホモだとかとは随分印象が違っていて驚いた。彼らはなんというか――思っているよりも普通だった。
だけどきっと。
彼らもああやってハイタッチをするのだ、と思う。こっそりとしたひそやかな触れ合い。僕はそれを、なんだか尊いことだと思う。
子供が産まれたことで、家の中のこと、全ての中心が孝弘になった。子供が誤飲しないように小さなものは極力しまう。刃物は手の届かないところに。iPhoneの充電ケーブルの端子を舐める子供が多いと聞き、事故にはならないようだが非接触で充電できる装置を購入した。
幸い、孝弘はあまり危ないことをする子供ではなかった。イヤイヤ期もほとんど過剰なこともなく、孝弘は順調に成長した。立ち上がり、歩き、言葉を話すようになった。服のサイズが次々変わり、サッカーの教室にも通い出した。保育園では友人ができているようで、同じ組のタイシくんの話をいつも嬉しそうに話している。
仕事と家事と育児の両立は想像以上に大変だったが、里紗も泣き言一つ言わずに頑張っているのだし、僕も愚痴は言えなかった。何より、僕は子育てに生きがいを感じていた。自分は父親になったのだ。
「葉山さん、お子さん今どうですか? 元気ですか?」
サークルの練習上がりの飲み会で、広瀬がそう話しかけてきた。広瀬はあまり、僕の隣に座らない。たぶん好かれていないのだと思っていた。だから、今日は珍しく広瀬が僕の隣に座ったので落ち着かなかった。そして話しかけてきたのでどきりとする。何への動揺なのか自分でもわからない。その動揺を隠しながら、
「ああ、うん。元気だよ、元気すぎて困るくらい」
そう答える。
「いいなぁ、男の子でしたっけ? 写真とか、見せてくださいよ」
「ああ、いいよ」
僕はスマートフォンをスワイプして孝弘の写真を探す。孝弘がキッザニアに行ったときの、消防士の服を着ている写真は僕のお気に入りだった。
孝弘は、もう四歳になっていた。
子供が産まれると、年齢が進むのがあまりに早くて驚く。その驚きのあとに、同時に自分も同じだけ歳をとったのだと自覚して、また驚く。孝弘が生まれてから、もう四年も経っているのだ。
二十代後半に差し掛かった頃から、僕は時間感覚を喪っていた。毎日同じ仕事をし、同じ時間に帰宅し、休日はフットサルをし、その繰り返しだった。まるで孝弘が生まれたことで、止まっていた僕の時間が動き始めたみたいだった。今まで止まっていた分が、一気に。
「いいなぁ葉山さんは、家庭円満で」
広瀬くんはどうなの? と聞こうと思って、彼がゲイだと噂されていたことをふいに思い出す。あの噂は一体何だったのだろう。どこからか湧いたかと思えば、あっという間に鎮火してしまった。もはやその噂を覚えているのは僕だけかもしれないと思うほど、みんな広瀬に普通に接していた。そしてあのハイタッチを思い出した。だけど、ここで聞かないのも不自然かと思う。
「広瀬くんは今フリーなの?」
「いや、まあ一応いますけど。彼女」
なんでもないことのように広瀬は言う。その会話を聞きつけた別のサークルメンバーが、「何、彼女の話? 写真見せてよ!」と会話に乗っかってくる。広瀬は慣れた手つきでスマートフォンを触ると、女性とのツーショットの写真を僕達に披露した。
そこには、にこにこと笑顔でスターバックスのプラカップを手に持つ広瀬と、短い髪の毛の女性が写っていた。
僕は思った。
なんだ、そうなのか。
その当たり前に思える返答は、なぜか俺の中、心臓の奥の方に小さなしこりを残した。
まだその時、俺はそのしこりの正体を知らない。
「ただいま」
フットサルを終えて家に帰ると、里紗が起きて待っていた。里紗がまだ寝ていない、部屋に電気がついているというそれだけで、僕の心の中に不穏な予感が蔓延った。
里紗は僕に気がつくと、スマートフォンをいじる手を止めこちらを見た。
「おかえり」
「どうしたの、何かあった?」
あったに決まっているとわかっていながらそう聞いた。
「あのね、保育園で孝弘が、タイシくんのことぶったんだって」
「え」
「でも、別に怪我とかさせてないみたいなんだけど、……タイシくんずっと泣いてたみたいで。お迎えの時間にタイシくんのお母さんに会ったから、私とりあえず謝ったんだけど、ちゃんとお詫びしにいった方が良いかなぁ? ――昇?」
僕はリビングを出て、寝室で眠る孝弘のそばへと歩いていった。孝弘はすーすーと気持ちよさそうに眠っている。
僕は思う。
僕は孝弘のことをちゃんと愛しているし、里紗のことももちろん愛している。だけれど近頃、それがなんだかうまく回らなくなってしまっている気がする。
僕は親になるのにふさわしくなかったのかもしれない、孝弘の柔らかい頬を触りながら思う。
隆弘は里紗によく懐いた。里紗の言うことはちゃんと聞く。だけれど僕の言うことには、ときどき反抗することがあった。
「昇があの子に厳しくしすぎるからだよ」
里紗にはそう言われる。そう言われて、自分は確かに少し厳しくしすぎかもしれないと思う。
電車の中で騒いだ孝弘に、僕が厳しめの小言を言うと、
「昇は子供のためっていうより、世間体のために怒ってるよね」
里紗にそう言われてどきりとした。
里紗はもう僕を愛していないのではないかと思うときがある。里紗はもともと、セックスなどのコミュニケーションが割と好きな方だった。しかし子供が生まれてから、里紗はキスすることさえ拒むようになった。その僕とのキスを拒んだ唇で、孝弘の頬に嬉しそうにキスをしているのを見ると、僕はやはり複雑な気分になる。
エディプス・コンプレックスの説明を大学の心理学の授業で受けたとき、母親の愛情が子供に移って父親が嫉妬に狂うという話を聞いた。なんて馬鹿げた話だろうと思った。だけど今自分が同じ立場になってみると、嫉妬ではないだろうが、何か割り切れない感情を抱えていることに驚いた。
僕のキスを拒んだ唇で、
「二人目が欲しいね」
なんて言われてしまったら、僕はまるで精子バンクになったみたいではないか?
孝弘が生まれるまで、自分たち夫婦は完全独立採算制でやっていた。基本的に欲しいものは互いに自分の貯金から出す。家賃や光熱費は折半。食費は僕が多めに出す。そんな感じだ。だけど孝弘が生まれてから当然問題が生じた。孝弘はどちらの持ち物でもないし、どちらか一方だけに責任があるわけではない。孝弘のために買うものの量もそれまでの生活と比べると圧倒的に多く、いちいち計算して折半したりするのが面倒になって、いつの間にかなし崩しに合同採算制になってしまった。別にそれに不満があるわけではないが、里紗が「ストレス発散」と言ってちびちびと贅沢していることが気になっている。そのお金はどこから出てるのだろうと思う僕は、心が狭いのだろうか?
自分が父親という存在ではなく、その名前をつけられた装置になってしまったみたいだと思ったのはいつからだろう。お金を受け取ってジュースを吐き出す自動販売機みたいに、僕の中を何かが流れて変換されている。その変換先が、里紗と孝弘への愛情なのではないかと思う。
その想像は、恐ろしかった。
吐き出されるものが愛情なら、僕はその代わりに何を受け取っているのだろう。
僕のこの愛は、何かに仕組まれているのではないかと言う気がしたのだ。
ある日、サークルの後の飲み会でいつの間にかみんなが帰ってしまい、僕と広瀬の二人きりになった。
「葉山さんは」
広瀬が、そのどこか子供っぽい目をいたずらっぽく輝かせて言う。
「気づいているんでしょ」
「なに、が?」
僕はすぐに思い当たったが、誤魔化した。
「とぼけなくていいですよ。知ってるんでしょ、俺がゲイだって」
広瀬は頬に手のひらをあて、肘を机について俺を流し見る。
「ゲイって。だって彼女、いたんじゃなかったの。写真――」
なぜ本人がそうだと言っているのに、僕が否定しようとしているのか。無茶苦茶だと思いながらも僕は言い訳を探している。
「あれ、レズビアンの友達です。偽装用に、カップルっぽい写真撮影したんです」
何でもないことのように広瀬は言う。
そこから一体どうして僕と広瀬がセックスすることになったのか、細かい流れは忘れてしまった。ただそれは、その頃もうずっと妻とセックスしていなかったことだけが原因ではない。
たぶん、僕はずっとどこかで意識していたのだ。広瀬――いや、優吾のことを。そしてたぶん、優吾もそれに気づいていた。だから優吾はああやって僕と二人きりになれる機会をずっと伺っていたのだ。
優吾は僕をラブホテルに連れて行った。雑居ビルの地下にある宿泊施設だ。僕は窓口に人がいたらどうしようと思っていたが、そこは全自動の受付だった。
「男同士だと入れないホテルも多いんですよ」
優吾がなぜか微笑みながらそう言った。まるで先生に告げ口するかのような顔だった。
「それは、」
僕は何といえば良いのかわからない。怒れば良いのか、戸惑えば良いのか。
「ま、しゃあないですよね」
部屋に入り、壁に備え付けの受付装置を操作しながら優吾はなんでもないように言う。
仕方のないこと。それは確かに仕方のないことだと思う。
「葉山さん」
受付が終わったのか、優吾は両手を軽く広げて僕の前に立った。
僕は戸惑わなかった。
すぽっとそこに収まって、僕は優吾を抱きしめた。
僕達はそれからたびたび、人目を忍んで体を重ねた。
僕は優吾と愛し合っていると、とても自由な気がする。
家庭や会社での息苦しい、役割だけに束縛された会話から解き放たれることができる。
優吾と話しているとき、自分がちゃんと頭を使って考えていると思う。脊髄反射的なコミュニケーションでも、ロールプレイング的な会話でもなく、ちゃんと生の自分で話している、そんな気がする。
それが本当の自分――なのかどうかは、僕には分からない。僕は今まで女性のことしか好きになってこなかったし、きっとそれはこれからもそうだと思う。
僕は優吾のことを愛しているのだろうか?
わからなかった。僕が優吾に感じる感情は、里紗に対して感じるような――そしてこれまで付き合った彼女たちに覚えていたような――ものとは異なっていた。
だからこれは浮気だ、という自覚さえ僕にはなかった。だから僕は何の罪悪感もなく家に帰ることができたし、孝弘の眠った頬を優しく撫でることもできた。里紗とは、相変わらず接触はなかったが。
かと言って、例えば優吾に肉欲だけを覚えていたとか、そういう話ではなかった。
とにかく、優吾といると心地が良い。この心地の良さは今まで味わったことのないものだった。
孝弘が生まれたことで、僕の時間が動き出したと思っていた。
だけど実際には、僕の時間は止まったままだったんだ。
僕の時間は、優吾と触れ合うことで本当に動き出した。そう思うほどだった。
「お前ら最近仲良いよな」
サークルメンバーの一人が言う。先ほどまでの試合は見事に勝利して終わった。そのためか、サークルメンバーは機嫌が良く、いつも以上に酒が進んでいる。
「そうそう、なんか随分打ち解けてるし」
サークルメンバーたちは口々に、むしろ仲が悪いんだと思ってたとか、なるべく話さないようにしてるのかと思ってたとか、こっちは結構気を使ってたとか好き勝手なことを言う。
別に最初から仲悪くないっすよ、と優吾の唇が動くのを、僕は見つめていた。その、僕を拒絶しない唇を。
バラバラに解散して、僕たちはこっそりと駅前でまた待ち合わせた。
「ほんとに行くの?」
「うん、行ってみたい」
その日は、優吾の通い付けだと言うゲイバーに一緒に行くことになっていた。
初めて行く二丁目は、思ったよりもひっそりとしていた。もっと仰々しく毒々しい世界を想像していたので、僕は少し拍子抜けだった。
雑居ビルの二階、まるで一般住宅の入り口のようなドアの向こうが、目的のバーらしい。ドアの真ん中には『会員制』という文言が貼られていた。
「これって」
「魔除けの札」
そう言い、当然のように優吾はドアを開ける。
バーはカウンター席だけの作りで、その後ろにはボトルらしく黄緑色の鏡月の瓶がずらりと並んでいた。
「あらゆうちゃん、久しぶりじゃない」
ラガーシャツを着た熊のような男――たぶん、この店のママだろう――が、独特の声音で話す。そう言った喋り方をする人間を見るのはテレビだけだったので、少し驚いてしまい、顔に出てないか不安になる。
「そちらの方は?」
「ノンケの友達」
優吾はそっけなく言う。友達。その表現に僕は少なからずショックを受ける。しかし、
「へえー」
ママはまったくそれを信じていないようだった。僕のことを上から下、下から上へと何度か見た。
「ともだち、ね」
意味深に一度くり返したあと、
「あんた、ノンケってホントなの」
おしぼりを出しながらママが言う。さすがに僕でもノンケという言葉くらいは知っている。ノンケ。僕はノンケなのだろうか。たぶんそうなのだろう。そのとき僕は、不思議と優吾としているセックスのことをほとんど考えていなかった。
「いやぁ、まあ、はい」
ママは「あらぁあんた、こんなとこ来ちゃダメよぉ」と言いながらすごく嬉しそうだ。
しばらく優吾とママと三人で取り止めのない話をしていると、団体客がやってきた。
「あ、ゆーごじゃん」
一人が優吾に気づいた。
「久しぶりじゃない?」「何してたのさぁ」「元気だったぁ?」
何人かが優吾を取り囲む。
「ちょっとあんたたち、今日はゆうちゃんがノンケのお友達連れてきてくれたんだから、ぞんざいな扱いしちゃダメよ」
男たちが僕を見る。僕はそれから、何人か僕に興味を持った男たちと話したりしながら、優吾が話すのを横から見ていた。
優吾の男たちに対する接し方は、僕に対するものとも、サークルメンバーに対するものとも違っていた。多分それは仕事の同僚に対するものとも、家族に対するものとも違っているのだろうと思った。
彼らと優吾の間には独特な紐帯があった。
それは、きっと彼らが同じ存在であるからなのだろう。
僕はそこに割り込めない。
気温がくだり始めた秋のある日、フットサルサークルが久しぶりに別のサークルと試合をすることになった。
おとうさんしあいにでるの?
珍しく孝弘が興味を示した。
おとうさんのしあい、みたいなあ。
隆弘はそう言ったが、そのときは、まさか孝弘が本当に試合を見に来るなんて思っていなかった。
「たかひろくぅん」
サークルメンバーは孝弘に幼児語で話しかけている。自分で言うのも親馬鹿のようだが孝弘は贔屓目に見なくてもそこらの子供よりは顔の作りは可愛いと思う。サークルメンバーたちも口々に「かわいい」「かわいい」「たかひろくん見ててねぇー」なんて言っている。そのおかげもあってか試合は5対2の快勝に終わった。
試合が終わり、さすがに打ち上げは辞退して、孝弘を連れてきてくれた里紗と帰ることにする。
「ばいばいたかひろくん」
そう言って、優吾が手を振った。
ゆうごさん、ばいばいー。
孝弘が元気よく手を振る。里紗も優吾に手を振っている。
「さ、帰ろっか」
里紗が言う。僕は孝弘と手をつないだ。里紗も孝弘と手を繋ぐ。孝弘を挟んで、三人で手を繋ぐかたちだ。孝弘は嬉しそうにぶんぶん手を振る。
里紗は幸せそうに孝弘を見つめている。僕はそんな里紗を見つめている。
いつの間にか季節は冬になって、街並みはイルミネーションで彩られて、冷えた空気に暖かさを添えていた。人工的な、作られた灯りだとわかっていたが、それでも眩しく見えた。
僕と優吾は東京駅で待ち合わせしていた。
「なんか、デートみたいだね」
息の白い優吾が言う。本当だった。まるで僕たちはデートをしているみたいだ。
デート。
そうして、僕は思った。僕たち二人の関係性には、一体何という名前がつけられるのだろう、と。というか、優吾は僕を――もしくは僕との関係を――どういう風に名付け処理しているのだろうと。
僕は優吾のことを彼氏でも、友達でも、かと言ってセックスフレンドでもないと思っている。優吾は、僕の中で今まで誰も座ったことのない椅子に座っていた。
優吾にとって僕もそうだろうか?
あの日優吾が、僕のことを友達と紹介したことを思い出す。
僕は不安になった。あの日優吾が僕をそう紹介したのは、あくまで建前のためだとわかっている。それでも不安だった。僕が座っているのは、優吾の中の誰でも座れるようなただの友人という名前の椅子でしかないのだろうか。
「きれいだね」
イルミネーションを見上げて優吾は言った。
確かに、イルミネーションは美しかった。
「うん、きれいだ」
優吾はこっそりと僕の手を握ってきた。街中で手を握ったことなどなかったので、僕は動揺し、一瞬体が強ばる。だけど、すぐに優吾の手を受け入れてつないだ。優吾も僕も手袋をしていなかったので、指先が冷え切っていた。それでもぎゅっと強く握っていると、徐々に血液がめぐって二人の指が温まってきた。
「あのさ」
優吾は言う。向こう側を見ていて、表情はわからない。
「俺はさ、ときどき不安でたまらなくなるんだ。大声で叫びたくなるくらい」
イルミネーションを見つめる優吾の表情は伺えなかった。その輪郭、顔に生えた産毛にオレンジ色の光が注いでいた。
「俺はこのままでいいのかなって、俺の場所はどこにあるんだろうって、不安になる」
場所。その言葉を聞いて、僕は自分の感情が腑に落ちた。優吾は僕にとっての居場所なのだ。ならば、僕は優吾の居場所になりたい。
「僕が居場所になるよ」そう言おうと思った。そして僕は急にまたあの日を思い出した。ゲイの友人と親しげに話す優吾の姿。あの場所で、僕はその輪の中に入ることができずにいた。だって、僕はゲイではなかったから。「僕が居場所になるよ」そう言いたかった。でも僕にはそんな資格が無かった。優吾からすれば、僕は興味本位に同性愛者の世界を覗き見しにきた観光客に過ぎないのだ。
僕では、優吾の居場所になれない。
そう思うと、僕が優吾に感じていたぬくもりが一方的なものに思えて、急にすべてが冷えて感じる。
綺麗なイルミネーションに囲まれた人混みの中で、僕は息苦しさを感じた。まるで澱んだ水の中にいるみたいだ。
このままじゃ、このままじゃ溺れてしまう。
僕はそう思った。僕は濁った水の中で必死にもがいて、喘いでいた。息がもたない。肺が強く痛む。目がかすんで視界が濁る。
そのとき、左手の薬指の輝きが目に入った。
瞬間、救われた気がした。僕の場所。そこは僕の場所だった。
「昇?」
優吾が僕の顔を覗き込んだ。
こんなに寒いのに、僕は顔に汗をかいていた。
「大丈夫? 人に酔った?」
優吾はいつのまにかいつも通りになっていた。こちらを覗き込んで、心配そうな顔をしている。
大丈夫、大丈夫だよ。
僕は優吾に言った。
優吾の場所。
――それはあの人たちの中にはないのだろうか?
太陽を直接見てしまい、黒ずんでチカチカする視界も、時間が経てばやがて元通りになるように、僕と優吾の関係は何事もなかったかのように解消した。
だけど、太陽を直接見てしまうと、ほんの少しだけ網膜に傷跡が残ってしまう。それを何度も繰り返せば、やがて失明に至るのだ。
僕はときどき、優吾と過ごした夜のことを思い出す。
薄暗い部屋の中、影のようにうつろな優吾を抱きしめたこと。
あの夜をもっと繰り返せば、僕の目は見えなくなっていたのだろうか。僕の目が見えなくなっていれば、僕はずっと優吾といられただろうか。
孝弘の小学校の入学式。僕の目の前に、この日しか着ないだろう式服に身を包んだ孝弘がいる。孝弘は里紗はママ友との付き合いで忙しいようで、ずっとあちらこちらへと慌ただしそうに飛び回っている。
里紗も最近は随分と落ち着いたようで、いよいよ二人目を、という話にもなっている。
「パス、こっち、パス!」
グラウンドを走る優吾が僕に向かって手を振る。僕はそちらに向かってボールを蹴り出した。ボールを受け取った優吾が華麗に動き、あっという間にゴールを決める。仲間たちが集って優吾をもみくちゃにする。僕はそれを遠くから見ていた。同じく見ていたメンバーの一人が僕に話しかける。
「お前と優吾って一時期仲良かったよな」
「……うん」
そう。僕たちはとても、とても仲が良かった。でも、それはもう過去のことだ。叮嚀に作った雪だるまが、翌朝には溶けてなくなってしまうように僕たちの関係は終わってしまった。
だけど僕は、優吾がいつか溺れる場所を――安心して溺れることができる場所を見つけることを、ずっと願っている。
このままじゃ溺れてしまう 数田朗 @kazta
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