飛翔
増田朋美
飛翔
5月も半ばとなり、暑いなと感じる日々も多くなってきた。そうなると、なんだか活動的になってくる。それは良い人ばかりではなく、悪役と呼ばれている人も、活動的になってくるから、困ったものである。例えば、変なものを売買したり、有害なものを押し売りするとか、、、。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所を新たに利用したいということでやってきた若い女性と面談を行っていた。なんでも、インターネットでこの施設を見つけ、ぜひ利用したいと思って来たそうである。
「えーとお名前は、佐野瞳さんですね。お住まいは富士宮市ですか。学歴は、静岡県立富士宮西高校中退。」
「ということは、かなり頭の良い女性だったんだね。」
杉ちゃんとジョチさんは、相次いでそういうことを言った。
「それで、お前さんが今一番困っていることは何だ?」
「はい。オーバードーズというのでしょうか。薬を大量に飲んでしまう癖があって、やめたくてもやめられないので、それでこさせてもらったのです。」
杉ちゃんがそう言うと、彼女は答えた。
「はあ、薬って何をだ?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。睡眠導入剤とかです。一度に10錠くらい飲んでしまって、大変な事になったりもしたんですけど、それでもやめられない。辛いことがあるとすぐに飲んでしまうんです。」
と、瞳さんは答えた。
「きっかけのようなものはありますか?」
ジョチさんが言うと、
「どうしても勉強についていけなくて、もう辛くてたまらない頃に、同級生がこれを使ってみろと言って来たのが始まりなんです。今では、高校どころか、SNSで薬はすぐ売買できるから、すぐ買えるし、薬を飲んだことをSNSに投稿すれば、すぐ反応が返ってきますし。」
と、彼女は答えた。
「じゃあ、お前さんの家族構成は?」
「はい、父と母と三人です。ふたりとも仕事があるから寂しいなんて言えないじゃないですか。ペットもマンションだから飼えないし。」
「なるほどね、それで、SNSでオーバードーズしたことを発信しているの?」
「はい。そのほうが、人間関係を持たなくても、友達付き合いはできます。それに変に扱われることもない。SNSに投稿すれば、いろんな人が本当に心配してくれて、大丈夫大丈夫って声をかけてくれるから、安心できるんです。」
「それはだめだよ!」
彼女がそう言うと、杉ちゃんはすぐに言った。
「でも、それしか私には、人付き合いできませんから。」
「そうかも知れないけどね。でも、薬ではなくて、なにか別のもので仲間を作らないと、これからの生活、全然だめになっちまうぞ。薬なんて、所詮は有害だもの。それでは、ろくなことないよ。SNSじゃなくて、現実に交流できる仲間を作ったほうがいいね。そのために、ここで誰かと喋ったり、身の上ばなしすることから始めて、少しづつ薬物から自分を切り離していかなくちゃ。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「そうですね。薬を大量に飲んでしまうというのは、明らかに異常事態で、正常な行為ではありませんね。しかし、その背景は随分悲しいものがありますね。それをなんとかして、友人関係が充実したものにする必要があります。」
ジョチさんも杉ちゃんに合わせていった。
「そういうわけだからなあ、お前さんはまず女性でも男性でもどっちでもいいから、手当たり次第に話しかけてみろ。ここの利用者は悪いやつはいないから、みんな話を聞いてくれるよ。それで、SNSではなく、本当の人間の良さを味わってみろ。」
「わ、わかりました。」
杉ちゃんに言われて佐野瞳さんは、そういったのであった。
とりあえず、瞳さんには、中庭を竹箒で掃いてもらうという仕事が課された。瞳さんは、竹箒を持って、中庭を掃除に取り掛かったが、池のすぐ近くに生えている松の木が、大量に葉を落としているのが気になった。
「その松の木が気になりますか?」
不意に男性の声がした。振り向くと水穂さんであった。どこかの外国の俳優さんでもいそうな、美しい容姿をしているが、体は小さくてげっそりと痩せていた。
「いえ、他の木が、普通に新芽を生やしているのに、なんでこの木は葉を落としているのかなと。」
瞳さんが答えると、
「そうなんですよね。その木、日本の赤松とか、黒松ではなくて、イタリアカサマツという種類なんですよ。イタリアから無理やり連れてきたようなものだから、ちょっと繊細なんでしょうね。多分きっと、日本の気候に馴染めないのではないかな。」
と、水穂さんは言った。
「そうなんですか、イタリアに松があるなんて知りませんでした。」
「ええ、松はいろんな種類があって、日本ばかりではないんですよ。外国にもいろんな種類の松が生えていますよね。」
瞳さんがそう言うと、水穂さんは言った。
「そうですか。松も可哀想ですね。わざわざ馴染めないところに植えられるなんて。」
「優しいんですね。この松のことを、そう言って可愛そうだというのですから。大体の人は、松も頑張ってとか、そういうこと言うんですけどね。」
瞳さんの言葉に水穂さんは意外そうに言った。
「そんなことありません。ただ、感じたことを言っただけです。」
「でも、そういうことに気がつけるということは、心がお優しいんですよ。これからも、それを大事にしてください。」
「大事にしていいのかな。」
水穂さんがそう言うと瞳さんは、ちょっとつらそうに言った。
「そんなもの大事にしたって何になります。細かいことに気がつくのは、良いことなんてなにもありませんよ。ただ、色々感じすぎて、疲れ切ってしまって、邪魔になるだけじゃないですか。みんなが一生懸命やってるときに、私だけ薬を飲んで寝ているだけしかできなくて、社会に所属することもできないんですよ。みんなが仕事仕事で家族のために動いているのに、私は自分のことで精一杯なんて、なんて親不孝で、だめな人間なんでしょう。生きていて申し訳ないって気持ちになりますよね。早く、逝ったほうがいいんじゃないかって思いますよね。」
「そうですね。」
水穂さんは言った。
「貴女の言っていることは、多分真実だと思うんですけどね。でも、人間は不思議なもので、真実通りにはいそうですかと動ける動物ではないんですよ。真実は1つだけかもしれないですけど一人ひとりの個性や考え方というものがあって、そのとおりに動いてしまうのが人間で、その人間の考え方で何十通りの真実がある。それが人間です。」
「そうなんでしょうか。私は、働けないだめな人間で、この世から消し去ったほうがいいと思ってますが。」
「そうですね。でも一つの真実に向かって、全員がそうしようって動けるのは、戦争のときとか、そういうときじゃないとまずないですよね。いろんな真実があるっていうのは、ある意味それだけ平和だということでもあると思いますけどね。」
「そうですか。ちょっと私には難しいけど、少なくとも私はここにいてもいいと、考えてくれる人は、本当に居るでしょうか?」
水穂さんに瞳さんは尋ねた。
「居るんじゃないですか。そういう人を相手にする仕事だってあるわけですから。そういう人がいないと成り立たない商売や、職業もたくさんあるでしょう。それに何よりも、貴女は先程のイタリアカサマツが可哀想だと言うことができるんです。それを伸ばしていけば、いい武器になると思いますよ。自分を大切にしてくださいね。」
「そうですか。ありがとうございます。」
水穂さんの言葉に瞳さんは言った。それと同時に、赤い着物と、緑の袴を履いた、まるで大正時代の女学生のような格好をした女性が、水穂さんたちの方へやってきた。
「只今戻りました。水穂さん、起きていたらだめじゃないの。すぐに横になりましょう。」
「ああ麻理恵さん。学校終わったんですね。いかがだったんですか?」
水穂さんは、そういってきた彼女に尋ねた。
「ええ、まあ、いつもと変わらずかな。勉強は難しいけど、私は学校に行けるようになったというだけで、幸せよ。それより水穂さんは寝てなくちゃだめだって、柳沢先生に言われたばかりでしょ。すぐよこになって頂戴。」
麻理恵さんは、水穂さんを四畳半につれていき、布団に入るように促した。
「そうですね。すみません。」
水穂さんは申し訳無さそうに言った。麻理恵さんは、はいはいと言って水穂さんを布団に寝かせて、掛ふとんをかけてやった。
「どこかお体でもお悪いのですか?」
と瞳さんが聞くと、
「まあちょっとわけがあってね。ずっと寝ているのよ。」
麻理恵さんはそう答えるのであった、それ以上聞くのはだめと言う顔をしていたので、瞳さんは麻理恵さんに質問を変えてみた。
「麻理恵さん、いつも着物で学校に行ってるんですか?」
「ええ。通信制の学校だからね。登校日の服装は自由なのよ。だから私は、昔の学生を連想して、こういう姿をしてるわけ。」
と麻理恵さんは答える。
「そうですか。学校は楽しいですか?あたしは碌に活動もしないでやめちゃったからなあ。」
「まあ私も色々あったわ。だけど今は、学校に行くのが本当に楽しい。それは、もうちょっと時間が経てばわかるわよ。着物を着れるようになって、本当に人生観変わったのよ。ねえ。貴女も着物着てみない?」
麻理恵さんに言われて、瞳さんは驚いてしまった。
「そんな、着物なんてそんな高いもの私には。」
「大丈夫大丈夫。ひどいときは500円で入手できるときもあるわ。すぐに買いに行きましょうよ。着物って本当に人生観変えてくれるのよ。貴女にもそれを感じてもらいたいわ。」
麻理恵さんはにこやかに瞳さんに言った。
「ほんとに、500円で入手できるんですか?」
「もちろんよ。あたしも見つけたときはもう感激だった。じゃあタクシーよんでくるから、二人で楽しく行きましょうよ。決まり事が多いことは確かだけど、それが帰って楽しくなるの。ちょっとまってて。」
麻理恵さんは、すぐにタクシー会社に電話をかけ始めてしまった。どうしようと言う顔をしている瞳さんに、水穂さんが布団に寝たまま、
「いってきたらどうですか。」
と言ったので、瞳さんは行くことにした。二人は、タクシーに乗って、カールおじさんという人が経営しているという、増田呉服店に向かった。
その店は小さな家を改造したような店であった。玄関先にリサイクル着物と書かれていなかったら、何を売っているのかわからない店であるかもしれない。麻理恵さんと瞳さんはタクシーを降りて、店の中へ入った。店の入口のドアに吊るされたザフィアチャイムが、カランコロンとなった。
「はい、いらっしゃいませ。お着物は初めてでございますか?」
カールさんが瞳さんに聞くと、瞳さんはハイと言った。
「それでは、初めての着物ということでしたら、初めての方には、訪問着や付下げをおすすめしていますが、いかがなさいましょうか?」
「訪問着とは何ですか?」
瞳さんは恥ずかしそうに言った。
「はい。胸と、袖と、下半身に大きな柄のある着物のことですね。帯次第でフォーマルにもカジュアルにもなれるので、初めての方にはおすすめしています。具体的にはお友達とお食事のようなカジュアルな用事から、クラシックのコンサートまで帯をかえれば着用できます。」
カールさんはそう説明して、訪問着を何枚か出してくれた。どれも可愛らしいものだ。
「私は、このピンクのユリの花のがいいです。」
瞳さんは、ピンク色の着物を取った。
「そうですか。じゃあそうしましょう。初めての方には、いきなり帯結びは難しいでしょうから、作り帯をおすすめしています。作り帯もたくさんありますから、選んでいってください。」
カールさんが、文庫結びの作り帯を出してくれると、瞳さんは、赤に金糸刺繍で花がらを入れた作り帯が良いと言った。
「あの、この2つを購入していくらになりますか?」
「はい、着物は1000円、帯は、500円ですから、1500円で大丈夫です。」
瞳さんがそう言うとカールさんはすぐに答えた。瞳さんは、それで良いのかと言ったが、カールさんは大丈夫だといったので、とりあえず、それを支払った。
「あとは、長襦袢や足袋、あるいは草履なども必要かな。どれも、500円から購入できますから、好きなものを選んでいただければと思います。決まり事は確かに着物にはあるんですけど、それは必要最小限だけ守ればいいと思うんですね。あまり決まり事にこだわらず、がんじがらめにしないで、楽しく着こなせば良いのではないかと思うんですよ。」
「カールおじさんみたいな売り方をしてくれれば、誰でもみんな着物が好きになるわよ。ほんとうに着物って色々うるさいけれど、木にしすぎないことが大事だと思うのよね。」
カールさんがそう言うと、麻理恵さんが言った。
「ここであれば、500円とか、1000円で購入できるし、いつでも可愛いおしゃれが楽しめますよ。それに着物はその人を大幅に変えてしまうことだってできるのよ。あたしは、着物着て、自分が好きになれた。人目を気にしすぎないってことが大事なんだってことも学んだ。だから、瞳ちゃんもそれをぜひ味わって。着物は弱い心を強くしてくれる魔法なのよ。」
「そうですねえ。麻理恵さんの言うことはある意味あたってますよ。」
麻理恵さんとカールさんはそう話しているのであった。
「それではちょっと着てみましょうか。洋服の上から羽織るだけで構いません。ピンクの訪問着を着てみてください。」
カールさんは瞳さんに言った。
「わかりました。」
瞳さんは、すぐに着物を羽織った。麻理恵さんが、腰紐や胸紐などをつけるのを手伝ってくれて、瞳さんの着付けはあれよあれよとできた。
「わあ、自分じゃないみたい!」
鏡に映った自分の姿を見て、瞳さんは言った。
「でしょう。こんな姿を見れば、自分の事を好きにならずにはいられないわよ。ほら、帯もつけて。」
麻理恵さんは、作り帯を彼女につけた。
「本当にこんな姿になれるとは思いませんでした着物ってすごいですね。」
「ええ。お客さんたち皆さんそういいます。着物は、力を与えてくれるんでしょうね。日本だけにしかないけれど、すごいものがありますよ。最近は海外のお客様も多くて。一種のセラピーみたいなものですかねえ。着物で世の中を明るくできたらいいなと思いますよ。」
カールさんはちょっと苦笑いしていった。
「本当にありがとうございました。こんなにこんなに変われるとは思わなかった。」
瞳さんが麻理恵さんにお礼を言うと、
「いいえ、あたしは当たり前のことをしただけよ。」
麻理恵さんは、にこやかに笑った。瞳さんは着物を紙袋に入れてもらい、改めてカールさんにお礼を言って、タクシーに乗って製鉄所へ戻った。
「おう、着物は買えたかい?」
杉ちゃんが、玄関先で出迎えた。
「ええ、こんなの買っちゃいました。」
瞳さんは、紙袋から訪問着を出して、杉ちゃんに見せた。
「へえ、なかなかいいじゃないか。良いもの買ったね。そうしたら、これからは、辛いことがあったら、大量に薬を飲んでしまうのではなくて、着物を楽しむことを約束してくれるか?」
杉ちゃんがそう言うと、瞳さんはしっかりと、
「はい、決していたしません。」
とにこやかに言った。
すると同時に、水穂さんの部屋から利用者が飛び出してきた。
「早く柳沢先生を呼んで!水穂さんが、布団が血まみれに。」
「はれまあ。またやったのね。」
杉ちゃんは、すぐに言った。麻理恵さんもまたかという顔をする。全員水穂さんの部屋へいき、水穂さんが、布団の上に横になって、えらく咳き込んで、同時に布団や畳を汚してしまったことを確認した。
「あーあ、また畳の張替え代が大変だ。」
杉ちゃんが言うと、
「あたし、柳沢先生に電話します。」
麻理恵さんが言った。
「ちょっと待ってください。どうして救急車を呼ばないんですか?病院に連れて行くとか、点滴打ってもらうとか、そういうことが必要なのではありませんか?」
瞳さんは驚いてそういうのであるが、
「ああ無理無理。水穂さんには救急車も西洋医療も効かないのよ。どうせさ、救急車に頼んだって、いろんな病院たらい回しにされるのが落ちだし、病院に連れて行ったって、銘仙の着物着てるやつを、ここへ連れて来るならほかへ行けと言われるのが当たり前。」
杉ちゃんはでかい声でそういうのであった。
「だから、そういうところへの理解がある医療関係者を頼まないと。まあねえ、そういうのに理解のある医者なんて、どこにもいないさね。幸い、漢方医の柳沢先生がなんとかしてくれるだけで。」
その言い方がちょっときつかったので瞳さんはそれ以上何も言えなかった。
「今柳沢先生に連絡が取れました。すぐに来てくださるそうです。」
麻理恵さんがスマートフォンをしまった。驚いている瞳さんに、
「瞳ちゃん。同和問題って聞いたことあるかしら?同和問題とはこういうことなのよ。水穂さんのような人は、医療機関になかなか頼れないのよ。」
と麻理恵さんは言った。それから数分して、かっぱみたいに頭がはげていて、着物姿に被布コートを着た老人がやってきた。彼は持っていた重箱を開けて、粉薬を出し、それを水で溶かして、水穂さんに飲ませた。それでやっと咳き込むのは止まってくれた。ああ良かったねえと、麻理恵さんも杉ちゃんも言っていた。
「そうであっても、私は医療機関に連れて行くべきだと思うんですが。きっと良い薬だってあるのではないかと思うんです。それであれば、もっと楽になるのではないかと思うのですが?」
瞳さんはまだ納得できないでそういったのであるが、
「いやあ、薬なんて水穂さんには高嶺の花だ。無理なものは無理なのさ。」
「そうよ。水穂さんには、いつもやってるアタリマエのことができなかったりすることもあるのよ。」
杉ちゃんも麻理恵さんもそういうことを言っていた。それを聞いて、瞳さんは何も言えなかった。
「いやいや、苦しんでいるのは、誰でもそうですよ。ただ、水穂さんは歴史的なことで苦しんでいるだけで。きっとね。みんなおんなじように苦しんでいると思いますよ。」
帰り支度をしていた柳沢先生がそっと瞳さんに言った。
飛翔 増田朋美 @masubuchi4996
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