まっすぐ卵が巻けなくても

卵を焼くための四角いフライパン。

それは思いつきの買い物だった。だけどそこから変われた気がする。



休日の夜、なんとなく点けたテレビ。

バラエティの合間に差し込まれた料理コーナーで、割烹着を着た年配の料理人が、飄々と笑いながら卵を巻いていた。


箸の動きは流れるようで、フライパンの中で卵がふわりと形を変えるたび、不思議な感動が胸を打った。


「……かっこいいな」

それだけで突き動かす動機は十分だった。



翌日、近くのホームセンターで、卵焼き器もとい、四角いフライパンを手に取っていた。持ち帰ったそれは、武骨な男の部屋には少し浮いて見えた。


料理は得意じゃなかった。

いつもはスーパーの半額になった惣菜とインスタント味噌汁で済ますような、よくある独り暮らしの男の生活。

けれど、なぜかその四角いフライパンを前にすると、ちょっと背筋が伸びるような気がした。



初めての卵焼きは、まあ、ひどかった。

巻こうとするたびに崩れ、焦げつき、最後はぐちゃっと折れ曲がる。

でも、それでもちゃんと“食べ物”になっているのが、なんとなく嬉しかった。



それから一週間も経つと、卵の流し込み方や火加減も、ほんの少し手慣れてきた。

出汁を入れてみたり、甘さを調整してみたり、刻んだ野菜をいれてみたり。

誰かに見せるわけでもない、ただ自分のための練習。でもその時間は、静かで、充実していた。



ある日、久しぶりに実家に顔を出すと、母が台所で洗い物をしていた。


「ごはん、作ってあるけど、食べる?」

「……たまには俺が作るよ。卵焼きしかできないけど」



不器用な手つきで、いつものように卵を巻いていく。

いつもと違って、母の視線が背中にあることを意識してしまい、フライパンと箸を握る手は緊張で変な感覚だった。


ひとつ、ふたつ、巻いて、形は少し崩れたけど、香りは悪くない。

皿にのせて差し出すと、母はちょっと驚いたような顔をして、一口食べた。


「……あんたが作ったの?意外と、ちゃんとしてるじゃない」


その言葉を聞いたとき、男はただ、「そっか」とだけつぶやいた。

照れを隠したくて、それ以上は言葉にできなかった。でも、胸の奥がすうっと温かくなっていた。



それからも男は毎朝、卵焼きを巻いている。

技術は少しずつ上達して、味も安定してきた。

でも、それ以上に大事なのは、自分で「やろう」と思ったことを、毎日繰り返しているということ。



油が敷かれた四角いフライパンは今日も、コンロの上で静かに熱される。

今でも、それはただの調理道具じゃない。

ひとりの男のちいさな憧れから、自信の象徴になっていた。

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