■第六話 担任、蕩ける

 その日は、なにもかもがスローモーションだった。


 ふー。


 あの一瞬の囁きと吐息。

 それだけで、園崎ゆりえの精神は、静かに地層のように崩れていった。


 職員室の片隅――


 背を丸め、手を顔に当ててうずくまる大人ひとり。


(あ、あれは……ただの気遣い……“やけどにふー”という……

 ……応急処置……よくある行為……あるある……あr……)


 冷静になろうとするほどに、頭に浮かぶのは

 ASMR配信で何度も聴いた“あの声”の完全一致。


 そして、実際に受けた“ふー”の感触。

 

「……がんばりすぎの、あなたへ……」


「……ふー……してあげますね……♡」


(ひぃっ……あれが現実になった……)


(夢じゃなかった……夢じゃなかったんだ……)


(むしろ夢のほうがマシ……!!)


「先生、だいじょうぶですか?」


「顔、真っ赤ですよ……」


 隣の席の国史担当にそう言われ、

 ゆりえは震える笑顔で「さっき熱いお茶を飲んだだけです!」と返す。


(ちがうの……推しの息が……直に触れたの……)


 そのとき――


 カタン、と控えめにドアが開いた。


 入ってきたのは、副級長・山瀬。


「あ、園崎先生。配布物の追加分、取りに来ました」


「……あっ、うん……そこに……あると思うよ……(死にかけ)」


 山瀬はスッと視線を走らせた。

 少し赤らんだ目。ぎこちない呼吸。揺れる手元のマグカップ。


(……やられたな)


「ありがとうございました。お疲れさまです」


 そう言って、静かにドアを閉める。 


 その直前、彼女は振り向いて――

 ほとんど無言で“親指をそっと立てた”。


(ご武運を)


 ゆりえはそのジェスチャーに気づかなかった。

 というか、もう何も入ってこなかった。


「ふぅ……ふー……はぁ………………っっっっ」


 崩壊。

 尊死。


 魂が、椅子から滑り落ちていくように。


 頭の中では、すでに“ふーされるシミュレーション”が3Dで再生されていた。

 アングル違い、左右交互、バイノーラル録音フルパッケージ。


(ももちゃんが……ももちゃんが……あんな無防備に……)


(いや、ちがう。あれは無防備じゃない。無自覚な武装。天然兵器。もも爆撃機)


「……あれは……合法ですか……?」


 誰にともなく、ポツリと漏らすゆりえ。


 誰も答えない。


 なぜならその問いは、もはや人智を超えていたからだ。


 ──だが、これが終わりではなかった。


 この“ふー事件”の余韻は、まだ収まらず、

 次の夜、ももの配信へと続いていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る