■第五話 ふたりきりの職員室

 放課後。

 生徒の数もまばらになった時間。


 職員室のドアが、控えめにノックされた。


「失礼します……あの、国語の質問で……」 


 顔を出したのは、篠原ももだった。


「ももちゃん、どうぞ。……あっ、はい、どうぞどうぞ!」


 ゆりえは、咄嗟に声を裏返しながら立ち上がる。


 自分の心拍数が上がっていくのを感じながら、

「これは普通のやりとり。教育的質問対応。教師として正常」と念仏のように唱えていた。


 ももは、手にプリントを持っておずおずと近づいてくる。


「ここの文法のところ……“~ようにしている”って……意識的な習慣、って意味で合ってますか……?」


「あ、うん、それで合ってるよ。えっとね……たとえば“毎朝早起きするようにしている”とか……」


 ゆりえがペンを手にして説明しながら、自分の席に腰を下ろす。

 ももは、少しだけその横に屈むようにして覗き込む。


 そして、ふと――


「先生、なんか……手、赤くなってませんか?」


「え?」


 言われて見てみると、指先にうっすら赤みが。


(あっ、さっき職員室でコーヒー入れたとき……ちょっとこぼしてかかった……)


「あー、たぶんちょっと熱かったかも……でも大丈夫。気にしないで――」


「……ふー、してあげますね」


 時 間 が 止 ま っ た (2回目)


 息をふっと吹きかけられた瞬間、

 ゆりえの脳内で火花が散った。


(えっ、いま!? 今、リアルで!?)


(この距離感で!?!?“ふー”を!?!?!?!?)


(無理無理無理無理むりむりむり!!!!)


 目の前のももは、ごく自然に、心配そうな顔で手を見ているだけ。


 あくまで行為は、“心配して吹いてあげただけ”。


 だが、ASMR地獄の知見を持つ重課金リスナーには、それが致命的だった。


(完全に一致した……声質も、タイミングも、トーンも、配信と一致……!!)


(これ……公式コラボ!?現実でのコラボ来た!?!?)


「せ、せんせい……?」


 ゆりえは震える声で答えた。


「……だ、だいじょうぶ……です……っ……」


「ありがとう……ございます……」


 なんとか理性の糸を保ちながら、震える手でマグカップを持ち直す。


 そして、ももが微笑みながら立ち上がる。


「じゃあ……ありがとうございました。……失礼します」


 ドアが静かに閉まったあと――


「…………ふぁぁぁぁああああああ!!!!!」


 職員室の片隅で、ゆりえが両手で顔を覆って机に突っ伏した。


(むり……もうむり……ぜったいバレてるよね……いやでもバレてたら“ふー”なんてしないよね……?えっでもむしろバレてる前提で“ふー”してきたの……???)


(ちがう、ちがう!!これはただの気遣い!!ふーは応急処置!!それ以上の意味なんてない!!!)


(でもなんでこんなに鼓膜が震えてるの!?!?) 


 後ろの席から、


「……園崎先生、大丈夫ですか?」


 と別の先生の心配の声が飛んできて、


「だいじょうぶですぅ~~~~!」


 と震えた声で返すゆりえ。


 理性ゲージはゼロ。

 ここまでくると、もはや“ふー”は兵器だった。

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