第4話「雨とミルクティーとトラブルと」
木曜日の午後。
客先訪問を終え、資料の入ったカバンの重さを少しだけ肩に感じながら、及川は最寄りの駅まで歩いていた。
空はどんよりと重く、遠くの空に薄い稲妻が滲む。
数分も経たないうちに、大粒の雨が歩道を叩き始めた。
(やられた……)
コンビニを探して駅へ向かおうとしたそのとき、ふと、視界に入ったのは見覚えのある小さなカフェ。
落ち着いた照明と木の扉。確か以前、七海と偶然再会した店だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、香ばしいコーヒーの香りに包まれ、心が少しだけ緩んだ。
ドアの奥、窓際の席に視線を向けたその時だった。
「……あ」
彼女もそこにいた。
ベージュのカーディガン。
手帳を開いてペンを走らせていた七海が、ふと顔を上げて、目を見開いた。
「部長……」
「やあ……また雨にやられてさ。まさか、また会うとは」
彼女は少しだけ照れたように笑い、手帳をそっと閉じた。
「……良かったら、ご一緒しますか?」
さりげない誘い。だが、先日の“距離”を思えば、それは明らかに「戻ってきた」サインだった。
「じゃあ、少しだけ。雨が止むまで」
そう答えながら、及川は心の中で、自分に言い訳をしていた。
――これは偶然で、時間潰しで、ただの部下との雑談だと。
だがその後、店を出るころには、彼女の声がまた少し近く感じられていた。
カップに残ったミルクティーの香りが、いつまでも鼻腔に残った。
次の日。
金曜の午前、及川が出社すると、秘書が駆け寄ってきた。
「部長、◯◯社のプレゼン資料に大きな修正依頼が入ってまして……七海さん、いま徹夜で作り直し中です」
「え? 今日の午後納品だろ……?」
焦る思いで制作フロアに向かうと、七海が目の下にクマを浮かべながら、PCに向かっていた。
「……すみません。思ってたより修正が複雑で……」
「いや、むしろ助かったよ。俺も一緒に対応する。午後の打合せには、俺が直接持ち込むよ」
「……いいんですか?」
「俺の責任でもあるから」
そのまま、二人きりで資料を見直し、構成を整え、分担してスライドを再構築していく。
午前中いっぱい、彼女の息遣いと呼吸を横で感じながら、ただただ手を動かす。
ふと、PC越しに彼女が言った。
「部長って、仕事してるとき、すごく静かですね」
「そうかな」
「……なんか、好きです。こういう感じ」
一瞬だけ、及川の手が止まった。
目を上げると、七海の視線は真っ直ぐに彼を見ていた。
そこにはもう、「後輩」でも「部下」でもない、ただひとりの女性としての熱があった。
時間は、午後1時。
会議室に持ち込む資料のファイルを閉じる音が、やけに静かに響いた。
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