第3話 「その視線の、温度」後編
「……七海さん」
名前を呼んだ直後、自分が何をしようとしていたのかに気づいた。
言葉の先を飲み込むように、及川は目を伏せた。
「今日は……もう帰ったほうがいい。時間、遅いし」
彼女は数秒、何かを測るように沈黙した。
そして、ごく小さな声で「……はい」とだけ答えた。
表情は変わらない。だが、わかってしまう。
少し残念そうに揺れたまつ毛。
ほんの一瞬だけ逸れた目線。
「何も起こらなかった」夜の名残を、彼女は丁寧に自分の中にしまい込んだようだった。
彼女がフロアから姿を消した後、及川は深いため息をついた。
そして、自分のネクタイを緩めた。
あの指先が触れた場所を、意識せずにはいられなかった。
週明け、月曜日。
出社してすぐ、及川は社内の空気が少しだけ冷たくなったように感じた。
冷房のせいだろうか。いや、違う。
七海の「視線」が、どこかいつもと違っていた。
「おはようございます」
挨拶は交わす。声も表情も、ごく自然だ。
だが、何かが足りない。
彼女は目を合わせることなく、モニターに視線を落としたまま、次の作業に移った。
及川は思わず、自分の席からそっと彼女の横顔を伺った。
先週、夜の静まり返ったオフィスで向き合ったときの、あの熱のようなものは、どこにも見当たらなかった。
「……ま、そうだよな」
独りごとのように呟き、椅子の背にもたれかかる。
あれは一時の空気だったのだ、と言い聞かせようとする。
彼女があの夜、ほんの少し残念そうにしていたように見えたのも――自分の思い込みだったのかもしれない。
ただ、それにしても。
彼女の視線が、いつもより数ミリだけ、自分を避けているように見えるのは、なぜだろう。
昼休み。
いつものようにチームで雑談をしている中でも、彼女は自然に他のメンバーと笑い合っていた。
だが、及川には、その笑顔の輪の中に“自分だけがいない”ような感覚が残った。
(あの夜、俺は……間違えたんだろうか)
何が正解だったのかは、わからない。
進めばきっと傷つく。
引けばきっと、何かを失う。
43歳。家族もいる。部下もいる。
それでも今、たった一人の女性の視線が自分から逸れたことに、こうも胸がざわつくのは、いったい何なのだろうか。
窓の外には、ビルの谷間に残る春の光。
見慣れたオフィスの風景の中で、ほんの少し、自分の居場所がずれていくような感覚だけが、確かにそこにあった。
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