魔王討伐。だが、勇者の魂は、故郷へも、ここへも還らなかった。

@flameflame

第一話 異邦の迷い子

城壁の向こうから響くのは、もはや戦いの音ではなかった。それは、飢えた獣が獲物を引き裂くような、無慈悲で一方的な破壊の響きだ。高く厚いはずの石壁も、魔王が率いる魔族と魔物たちの猛攻の前には、粘土細工のように脆く崩れていく。王国、いや、人間族そのものの最後の砦であるこの王都も、風前の灯火だった。


私の名はリゼット。この王国の第一王女だ。王城の最も古い塔、その最上階にある自室の窓から、茜色に染まる空を眺める。美しい夕焼けが、燃え盛る街の炎と奇妙に重なり、血の色のように見えた。乾いた唇を噛みしめる。私の無力さが、この光景と同じくらい、いや、それ以上に胸を灼いた。


王家の責務として、私は避難民たちの世話を手伝い、兵士たちの士気を鼓舞しようと努めた。しかし、それも焼け石に水。食料は底を突きかけ、傷薬も布も足りない。兵士たちの目には、もはや忠誠よりも深い疲労と、隠しきれない恐怖の色が濃く滲んでいた。魔族があまりに残虐で、あまりに強すぎたのだ。


「姫様」


背後からの声に振り返る。老侍女のエラだ。彼女の顔にも深い皺が刻まれ、その目もまた、希望よりも諦めを映していた。


「会議の時間です」


「ええ」


重い足取りで部屋を出る。向かう先は、評議の間。そこには、父である王と、残されたわずかな貴族たち、そして王国で最も力の強い魔法使いたちが集まっていた。議題は一つ。この絶望的な状況を覆す、唯一の、そして禁断の手段についてだ。


評議の間は、張り詰めた沈黙に包まれていた。皆の顔に「それ」を口にすることへの抵抗と、しかし他に道はないという絶望が浮かんでいる。父上が、枯れた声で口火を切った。


「…もはや、残された手は一つしかない」


その言葉に、場の空気が張り詰めた。皆が知っている。それが何を意味するのかを。


「禁断の召喚術…ですか」


宰相が、絞り出すような声で尋ねた。


「うむ。この世界の存在ではない、『異世界』からの力に頼る他ない」


父上の声には、王としての威厳は失われ、ただ追い詰められた男の響きだけがあった。禁断の召喚術。それは、古の時代に存在したという、他の世界から強大な存在を呼び出す術だ。成功すれば、この状況を打破できるかもしれない。だが、失敗すれば、何が起こるか分からない。そして、何よりも…


「異世界からの存在を、こちらの都合で無理矢理引きずり込むなど…許されることではありません」


老齢の魔法使い、グランダルが苦渋に満ちた表情で言った。彼はこの術の危険性と非道さを誰よりも理解している。


「だが、グランダルよ。他に道があると言うのか? 我々の民は、このまま魔族の餌になるのを待つだけなのか?」


父上が剣幕を強める。評議の間に重苦しい空気が満ちた。議論の余地はない。これは、もう決定されていたことなのだろう。私に、異を唱える力はなかった。


翌日、王城の地下深くにある、普段は固く閉ざされている部屋へと向かった。召喚術を行うための、特別な場所だ。湿った土の匂いが鼻をつく。部屋の中央には、複雑怪奇な魔法陣が床いっぱいに描かれていた。血のような赤、夜のような黒、そして星屑のような銀色の線が絡み合い、おぞましい模様を描いている。


数名の魔法使いたちが、魔法陣の周りに立っていた。彼らの顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。グランダルもいた。彼の目は、深い悲しみを宿していた。


私も魔法陣の端に立つよう促された。王族の血が、術に必要なのだという。緊張で体が硬くなる。


儀式が始まった。魔法使いたちの低い詠唱が、部屋に響き渡る。魔法陣が淡く光り始め、空気が震え始めた。それは、この世界のものではない、冷たく、しかし恐ろしいほど強い力だった。肌が粟立ち、全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。


詠唱が加速し、魔法陣の光が強さを増す。部屋全体が揺れ、耳鳴りがした。嵐の中心にいるような、圧倒的な力の奔流。私の意識が遠のきそうになる。


その時、魔法陣の中央に、眩いばかりの光がほとばしった。視界が真っ白になり、思わず目を閉じる。


次に目を開けた時、光は収まっていた。魔法陣の中央に、誰かが立っている。


そこにいたのは、戦士でも、魔法使いでも、恐ろしい異形の存在でもなかった。


そこにいたのは、驚きと困惑を顔に貼り付けた、年端も行かぬ子供だった。


私たちの世界の、鎧やローブとは似ても似つかない、奇妙な、だぶついた布の服を着ている。髪は黒く、瞳も黒い。年齢は…せいぜい十二、三歳だろうか。怯えた小動物のような、小さな体つき。


静かな子だった。大声で叫ぶこともなく、ただ呆然と私たちを見ている。その黒い瞳には、自分がなぜここにいるのか、一切理解できていない様子が明確に見て取れた。


「…これが…異世界からの…?」


誰かが呟いた。その声には、期待外れと、そして困惑の色が濃かった。


しかし、その困惑は一瞬で消え去った。評議の間でもっとも強硬に召喚を主張していた、軍の最高司令官が前に進み出た。


「異世界から来た者よ! お前こそ、この王国、人間族を救う勇者だ!」


力強い、有無を言わせぬ声だった。その子は、ただきょとんとしている。勇者? 救う? 何のことだか分かっていない。


「我々は、お前に魔王を倒してもらうために、ここに召喚した! 我々の希望、そして最後の切り札なのだ!」


司令官の言葉は、一方的な宣言だった。選択の余地など、最初から与える気がない。


数名の兵士が、その子に詰め寄った。抵抗する力など、彼にあるはずもない。小さな体は、あっという間に兵士たちに取り囲まれた。


「すぐに武具庫へ案内しろ! 戦えるように鍛え上げ、戦場へ送るのだ!」


司令官の声が響く。その子の目が、恐怖に大きく見開かれた。彼の顔に浮かんだ絶望は、この王都が抱える絶望と、何ら変わりないものだった。


私の胸に、鉛のような、冷たい塊が生まれた。


彼は、私たちの世界の何を知っているというのか? なぜここに連れてこられ、なぜ戦わされなければならないのか? 彼の故郷では、何が彼を待っていたのだろう? 友人は? 家族は?


差し伸べられた手は、励ましでも、助けの手でもなかった。それは、逃れることのできない運命へと、彼を引きずり込むための、冷たい命令だった。


その子は、何も言えずに連れて行かれた。その小さな背中は、あまりに頼りなく、あまりに無力に見えた。


私は、そこに立ち尽くしていた。召喚術の後処理をする魔法使いたちの慌ただしい気配が遠い。私の耳には、ただ、どこかで見た、怯えた小動物のような彼の目が焼き付いていた。


そして、私の心に、深い罪悪感の萌芽が芽生えたのを感じた。この子に、私たちは、何をしてしまったのだろうか。

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