第二話 祭り上げられた希望

召喚の報は、瞬く間に王城内を駆け巡り、やがて水面に広がる波紋のように街全体へと広がった。それは、干上がった大地に恵みの雨が降ったかのような…だが、私には、それは酷く危うく、そして痛々しい希望に見えた。


人々は、地下深くで行われた禁断の儀式の詳細を知らない。彼らが知るのは、「異世界から勇者が現れ、我々を救ってくれる」という、都合の良い、飾り付けられた真実だけだ。街には、久しぶりにわずかな活気が戻った。広場では、勇者様に関する根も葉もない噂が飛び交う。「神が遣わした救世主だ」「一振りで魔物を千匹屠るらしい」…それらは全て、現実の過酷さから目を背けるための、必死な願望の産物だった。


しかし、真実を知る者は、誰もその希望に酔うことなどできなかった。特に、彼…勇者様と呼ばれ始めたその子の置かれた状況を知る者は。


彼が召喚された後、休む間もなく連れて行かれたのは、訓練場だったという報告を受けた。私たちの世界の戦闘技術を、あの痩せ細った、子供の体に叩き込むのだ。剣の握り方、盾の使い方、この世界の魔法と魔物の特性…それらを、通常の兵士の何倍もの速さで詰め込まれる。


それは訓練ではなく、戦場で一秒でも長く生き延びるための、狂騒的な詰め込み作業だった。


私は、遠くから、訓練場らしき場所を見ることはできた。土埃が舞い上がり、兵士たちの怒鳴り声が響く。その中に、見慣れない、だぶついた布服と、ぎこちない動きの影があった。彼の顔は見えなかったが、その小さな体から伝わる疲弊と困惑は、想像に難くなかった。彼は、なぜ自分がこんなことをさせられているのか、理解できずにいるのだろうか。それとも、ただただ、目の前の過酷な現実に耐えているだけなのだろうか。


彼に会いたい、と思った。一言でも、話を聞いてみたい。だが、それは許されなかった。勇者様は国の最高機密であり、無闇に接触することは禁じられている。それに、私自身も、彼にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。私が、彼をこんな地獄に引きずり込む片棒を担いだのだから。


勇者様は、わずか数週間で前線に送られることになった。城の者たちは、その速度に驚きを隠せなかったが、軍部の決定は絶対だった。一刻の猶予も許されないほど、戦況は切迫していたのだ。


出陣の日。王都の正門前には、民衆が集まっていた。彼を称える歓声が響き渡る。私は王族として、父上と共にその場に立たねばならなかった。


粗末ではあるが、この国で最も頑丈な素材で作られた鎧を、彼は着せられていた。体には合っておらず、歩くたびに金属がぶつかり、ぎこちない音を立てる。手には、彼には重すぎるだろう、見かけだけの大きな剣を持たされていた。その姿は、まるで戦ごっこをするために無理矢理着飾らされた人形のようだった。


彼の顔を見た。あの時の困惑と恐怖は、より深い無表情に覆い隠されていた。彼の目は、私たちを映しておらず、ただ遠い虚空を見つめているようだった。そこに、かつて故郷で見たであろう、未来への希望や日常の輝きは、微塵も残っていなかった。


司令官が高らかに彼の名を叫び、鼓隊が勇ましい音楽を奏でる。兵士たちが雄叫びを上げる。民衆の歓声は最高潮に達した。


私は、精一杯の笑顔を作り、彼に呼びかけた。王女としての、勇者を激励する決まりきった言葉だ。その声は、自分のものではないように響いた。


彼は、私の声に反応したのか、ほんの一瞬だけこちらに顔を向けた。彼の虚ろな目が、私の顔を捉えたような気がした。しかし、そこに何か認識する色が宿ることはなかった。ただ、深い疲労と、感情を閉ざした壁のようなものがそこにあるだけだった。


そして、彼は向き直り、前門へと歩き出した。その小さな背中には、王国中の、人間族全体の希望という、あまりに巨大で重い荷が背負わされていた。


彼の後ろ姿を見送る。行かせたくない、と強く思った。あの子を、こんな地獄に送るべきではない。私たちの罪を、なぜ彼が償わねばならないのか。しかし、私の口から出るのは、王女としての、彼を戦場へ送り出すための言葉だけだった。


門が開き、彼は兵士たちと共に、地獄のような戦場へと消えていった。生きて帰れる確証など、どこにもない。彼の魂が、無事でいられる確証も、どこにもない。


その日から、戦場の報告が届くようになった。絶望的な状況は変わらない。日々、多くの兵士が命を落とす。そして、勇者様は…生きている。生き延びている、という報告だけが、無機質に伝えられた。


報告には、彼の活躍は詳しく記されない。ただ、「勇者様は健在」とだけ。それが、どれほどの苦痛と犠牲の上に成り立っているのか、私は知る由もなかった。だが、あの虚ろな目と、祭り上げられた彼の姿を思い出すたび、私の胸の鉛の塊は、さらに重く、冷たくなっていくのを感じていた。

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