第4章 part14 三度の3日目
「あっ!」
張り詰めていた空気の中、突然クロウが思い出したように声をあげた。その瞬間、教室に漂っていた戦いの緊張が、一瞬にして弾け飛ぶように消え去る。
「……どうした?」
素っ頓狂な声を上げたクロウに対し、完全に戦闘態勢だったダレントンは眉をひそめ、構えを崩さずに問いかけた。
「ユイ、午後の結界術と魂復士のクラス……出られないなって」
思い出したように言うクロウの言葉に、しばし沈黙が落ちる。
ダレントンはその言葉に肩の力を抜き、静かに構えを解いた。そして、自身に掛けられていた付与魔術の術式も順に解呪し、ゆっくりと魔力を収めていく。
「あ、ごめんなさい。変な空気にしちゃって」
自分が張り詰めた空気を台無しにしてしまったことを察し、クロウはすまなそうに頭を下げる。
ダレントンは呆れたように苦笑を浮かべると、懐からタバコを取り出し、器用に火を点けた。紫煙がふわりと立ち上り、戦いの名残を溶かしていく。
「……グリットとカオリには伝えておこう。俺がしごきすぎたせいで、本日の復帰は不可能になった、とな」
すっかり興が冷めた様子のダレントンは、普段通りの飄々とした調子に戻っていた。その姿に、クロウもようやく息を抜くことができる。
「ダレントン教授……ありがとうございます」
クロウが礼を述べると、ダレントンは再び煙を吐き出しながら、鋭い眼差しでクロウを見た。
「すっかり津秋ユイにべったりだな……何か理由でもあるのか?」
その問いに、クロウは肩をすくめ、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「ふふ……なんででしょうね」
「答える気がないならそれでいい。だが、“これ”は完成させろよ」
ダレントンは訝しげに眉をひそめると、周囲に放置された生徒たちの制作物へと視線を移した。
彼は教室中の作品がそのまま劣化せぬよう、極・劣化鈍化【マキシ・スロウ】の魔術を丁寧に施していく。
その魔術の光に包まれて、ユイとクロウの傑作――【人女王の右手】も、静かにその場に保存された。
「いずれ……わかることではあるかと思います。その“時”が、私の願わぬものでないことを祈りますよ、ダレントン教授」
クロウは静かにそう言い残すと、教室の出口へと歩みを進めた。
「その“時”……か」
紫煙を吐き出しながら、ダレントンは顔をしかめた。学生とは思えぬクロウの実力、なぜか彼女と行動を共にするユイ。その理由を悟りきれぬまま、それでも二人が辿る未来が光に満ちたものであるようにと、彼は心の奥で願うのだった。
そして、場面は静かに変わる。
「ユイ」
まるで宙に浮かぶような感覚。重力を忘れ、風に乗ってゆったりと流されるような心地よさ。暖かな水面に身を委ねているようでもあり、夢の中にいるようでもある。
誰かが、自分の名前を呼んでいる気がした。
「ユイ、起きて」
まだこの安らかな感覚を味わっていたかった。重さも痛みもない、ただただ心地よい世界に身を任せていたかった。
「ユーイ!起きて!」
その声にハッとし、どこかで聞いたような恐怖が背中を走る。まさか、あの恐ろしい般若の形相のレイムス教授が目の前にいるのでは――
「はいぃぃ!!すみませんでしたぁぁぁ!!」
反射的に飛び起きて叫んだユイ。しかし、目の前にいたのはレイムス教授ではなかった。
「わっ!?びっくりした!」
驚いた声を上げたのは、小さな手を握っていた幼女だった。その手は、ついさっき自分が全霊を込めて模したばかりのものに、どこか似ている。
「……あれ?」
目の前の幼女は、驚いたように目を見開き、キラキラと輝く瞳でユイを見つめている。その視線に戸惑いながら、ユイは自分の手を改めて見つめた。
「良かった……?のかな。おはよう、ユイ」
部屋の隅に置かれた机に腰掛けていたクロウが、静かに声をかけてくる。
「あれ?私、なんでここに?」
ユイは状況を呑み込めず、きょとんとした表情を浮かべる。最後の記憶は付与魔術クラスの教室、制作に夢中になり、限界まで魔力を使い果たした場面で途切れていた。
「まだ横になっていた方がいいですよ。魔力はほとんど枯渇してますし、無理な術式付与で魂にも負担がかかってます」
クロウの言葉に続き、幼女が嬉しそうに笑う。
「あ、フェイ!」
目の前の幼い少女は、昨日ともに戦った魂復士、フェイ・ベリアブルだった。
「えっ……まだ状況がよくわかってないんだけど」
ユイはもぞもぞとベッドから起き上がる。服は付与魔術クラスのままで、肌にはうっすらと冷たい汗が残っていた。
「付与魔術クラスで無茶な付与をして、そのまま気絶。部屋まで転送されたんだよ」
クロウは片手で魔導書を開いたまま、あっさりと説明する。
「き、気絶……?」
「そう。付与魔術は五大元素魔法ほどの消耗はないけど、脳への負担が特に大きいんだ。慣れるまでは、すぐ容量オーバーになるみたいだね」
その言葉に、ユイはふとクロウの余裕そうな表情を見て「いや、クロウは平気そうじゃん」と思った。いや、でもこの人は規格外だし、と内心で妙に納得してしまう。
「魂復士クラスと結界術クラスの欠席も伝えてある。グリット教授とカオリ教授には、事情を話して了承済み」
クロウの報告に、ユイは大きく目を見開いた。
「……あ!他にも授業があったのか!」
「今気づいたの?」
呆れた様子のクロウは、魔導書を閉じてため息をついた。
「ありがとう、フェイ。君の魂復魔法のおかげだ」
「えへへ、友達だもん」
フェイは嬉しそうに笑う。ユイはその小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「フェイ、ありがとー!」
ふわりと柔らかい笑顔を浮かべるフェイ。だが、その瞬間ユイは外の景色に違和感を覚える。窓の外には黒い影が漂い、あたりに光がない。
「まさか……もう夜!?」
「それも今気づくのか……」
クロウは呆れた様子で肩をすくめ、ユイに上着を手渡した。
「昼も食べずに気絶してたんだから。そろそろご飯でも行こうか」
「うん、お腹……めちゃくちゃ減ってる!」
ユイは自分の空腹にようやく気づき、勢いよく返事をしたのだった。
3人は、すぐさま寮の外へ出る。心地よい夜風がより一層今夜のディナーへの期待を膨らませた。
相変わらずカムイの繁華街は、今夜も変わらず賑わっている。
神国の統治下にありながら、ここには貧しさも戦争の気配もなく、まるで別世界のように平和な日常が広がっている。
街の至るところに灯るのは、魔力を込めた光を放つ魔灯。その淡く揺れる光が夜の道を照らし、街路を歩く人々や軒を連ねる露店の品を優しく照らし出していた。
もう夜も更けようかという時間だというのに、人々の笑い声や賑わいは途切れることなく、この街の活気を物語っている。
「クロウ! こっちこっち! フェイも遅れないで!」
空腹のあまり気が逸っているのか、ユイは声を弾ませながら小走りに先を急ぐ。その足取りは止まる気配もなく、まるで美味しい獲物を追う子猫のようだった。
「ユイ、ちょっと待ってよ。そんなに急いだってしょうがないでしょ」
クロウは肩をすくめ、まるで迷子になりそうな子犬を追う飼い主のように、せっせとその背中を追いかける。
「ユイ、クロウ、待ってくださいよー! 私、そんな早く走れませんからー!」
さらにその後ろからは、他の生徒よりも小柄な体を必死に動かし、フェイが息を弾ませながら懸命に二人を追っていた。短い脚でなんとかついて行こうとする彼女の姿は、どこか健気で可愛らしい。
「カム麺! カム麺! カム麺!」
ユイの口から謎の単語がリズミカルに飛び出す。
どうやら空腹の彼女は、繁華街の奥にある目的地までの道を既に把握しているらしく、迷う素振りも見せず、どんどんと人混みをかき分けて進んでいく。
「ちょっと、ユイ! 行き過ぎだって!」
クロウは焦って地面を強く蹴り、本気に近い速さで追いかける。ダン、と靴裏が石畳を叩く音が響き、彼女はユイの進んだ先の路地に素早く身を翻した。
「はぁ、はぁ……ユイ、あんまり遠くに行かないでよ。私たちも追いつけ……」
息を整えながら文句を言おうとしたクロウの言葉は、視線の先に現れた光景によって飲み込まれた。
「はぁ……はぁ……やっと……追いつきました……」
フェイもようやくたどり着き、膝に手をついて肩で息をする。小柄な体にはさすがに厳しかったようだ。
「……わぁ」
だが、その疲れも吹き飛ぶように、フェイも顔を上げた瞬間、思わず感嘆の声を漏らした。
目の前に広がっていたのは、異様とも言える巨大な物体。いや、それは食事処だった。普通の露店とはまるで違う。
街灯の淡い魔灯の光に照らされて、そこには堂々と構える巨大な魔獣の殻を利用して作られた食堂がそびえ立っていた。
「これは……食事処、なの?」
クロウはフェイの方をちらりと見て、困惑気味に眉をひそめる。
「ド……ドン・ロブスター、ですよね。おそらく」
フェイが呟くように言う。しかも、それは並の魔獣などではない。長命種の中でも数百年、いや下手をすれば千年は生きたであろう代物。その殻は今や店として再利用され、その迫力は圧巻だった。
「しかも長命種のドン・ロブスターの殻って……あんなの、街のど真ん中にあっていいの?」
クロウは呆れを通り越して、少し感心すらしていた。少し前に目にした魔導旅客機の機体にも劣らぬ巨体が、堂々と構え、そこに店の看板らしきものが無造作に掛けられている。
そんな二人の様子をよそに、ユイは意気揚々とその巨大なドン・ロブスターの、かつて目玉のあった穴のひとつから顔をひょっこりと覗かせた。
「クロウ! フェイ!」
その顔にふたりは、思わずため息を漏らす。
「……うわ」
「……ひぇ」
と、ほぼ同時に声を上げるクロウとフェイ。
「“口”から入ってきて! 大丈夫だから!」
ユイは嬉しそうに手を振り、そう呼びかける。
「く……口?」
フェイは顔を引きつらせた。その視線の先には、かつて魔獣だったドン・ロブスターの巨大な口が大きく開けられており、人間の背丈どころか、大人が二人並んで楽に通れるほどの大口だった。
その縁には鋭い歯がびっしりと残されていて、魔灯の明かりに照らされるとそれが尚更禍々しい。
「えーと、あの中に……?」
クロウは目を細め、戸惑いを隠せない。それでも、このまま空腹のユイを野放しにしておくのも危険だと判断し、軽く息をついて口元を緩めた。
「まったく……」
そう呟きながら、クロウはフェイの頭を軽く撫で、「行こう」と声をかけた。
「うぅ……行くしかないんですね」
フェイは腹をくくるように頷いた。三人はそのまま、巨大なドン・ロブスターの“口”の中へと歩を進めていった。
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