第4章 papt7 戦いの2日目


「ハーミット、立ちなさい!」


 場内に響き渡るビクトリアの鋭い声。


 その声音は、指揮官として命ずるもののようであり、幼き頃から長らく剣の道を共にしてきた者への、揺るぎない信頼と鼓舞が込められていた。


 倒れ伏したままのハーミットの全身を、淡い蒼の光が包み込んでいく。


 ビクトリアの掌から放たれた付与術式が、彼の肉体に直接干渉し、その損傷を癒し、痛覚を遮断し、さらに剣に纏わせる魔力を高めるものだ。


「今から貴方には痛みも感じない。その傷も、すぐに塞がるわ。そして、その剣は……さらに魔力を跳ね上げる」


 呪文詠唱と同時に、術式陣が空中に浮かび上がり、無数の小さな文字列と幾何学模様が連鎖しながらハーミットの肉体へと吸い込まれる。


「うっ……ほんと、人使いの荒いお嬢さんだな……」


 ハーミットは呻きながら、血の滲む口元を拭い、ふらつく足取りで立ち上がる。


 その表情はまだ青ざめ、意識も朦朧としながらも、その瞳には確かな闘志が灯っていた。


 立ち上がった彼の額の傷も消えきらないが、痛みを遮断された身体はもう悲鳴をあげてはいない。


「なるほど……付与魔術か」


 クロウは、じっとその様子を観察し、静かに口元を吊り上げた。


 ビクトリアの術式は、確かにただの学院生のものではない。これほど迅速かつ的確に付与を施す腕前は、一流と呼んで差し支えないだろう。


「ちなみに、なんでさっき付与しなかったんだ?」


 クロウが何気なく問うと、ハーミットは苦笑まじりに肩を竦める。


「さぁな……嬢ちゃんの事を舐めてたんじゃねぇか?」


「いや、術式の構築が遅いからか」


 そう言いながら、クロウの視線は遠巻きにビクトリアへと向けられる。彼女の周囲にはまだ幾重にも重なる術式陣が浮かび、次なる付与の準備を進めている最中だった。


「それに、そんな物がなくても貴方は充分強い。付与といっても微力だ。今こうして立っているのは、ギリギリのはずだろう?」


 事実、クロウの放った蹴りは常人ならば一撃で意識を刈り取る威力だった。


 それを食らいながらも立ち上がるには、相応の覚悟と意地が必要だ。


「彼女……どうせ『女王を目指す』とか言ってんじゃないのか? あの口調も、たぶん“真女王”の誰かを参考にしてるんだろうよ」


 クロウの言葉に、ハーミットは苦笑し、静かに頷いた。


「……御名答」


 その刹那、クロウはわざと会話を続けることで、ハーミットにわずかな回復の時間を稼いでいた。今は不思議と、こうした他愛ない会話すら心地良い。


「だが、実力がそれに追いついていない。確かに付与魔術を使えるのは立派だが、この学院ではその先、“永遠の付与”が必修だ。まだまだ越えるべき壁は高いぞ」


「それでも――お嬢様は立ち止まらない。俺はそれを支える」


 ハーミットは剣を構えた。その胸には、暗黒の時代と化した南大陸の記憶が過る。


 闇に沈んだ故郷、そして愛する者たちの顔。


 大陸から逃げ、命からがらこの学院にたどり着き、ようやく彼女と歩む道を手にしたのだ。この手を、もう二度と離さないために。


「残念だが、俺はもっと強くお前に撃ち込むぞ。頼む、死なないでくれ」


 ハーミットの瞳に宿る闘志が、紅蓮のように燃え上がる。それを見つめるクロウの瞳もまた、どこか慈しむような、敬意を湛えた光を湛えていた。


「ふふっ……そうだな。皆、守るべきものがある」


 クロウは構えを取り直した。と、その瞬間――脳内に魔法通信の声が響く。


『すいません、本当に長らくお待たせしました。魂復魔法の展開、完了しました』


 通信の向こう側から、フェイの声が慎ましやかに響く。その声を聞いた途端、クロウの口元は自然と緩んだ。


「なに、そんな歳でこの展開速度か。もっと時間がかかるもんだと思っていたよ。君は本当に天才なんだな」


『……褒めても、何も出ませんよ』


 照れ笑い混じりのフェイの声。そのやり取りの間に、クロウの肉体はフェイの術式を受け、魂の領域から活性化を始める。体の内側から、じわじわと熱が湧き上がり、骨格・神経・筋肉の隅々にまで力が満ちていくのを感じる。


「……ハーミット、すまないな。これじゃもう勝負にならない」


 感じる力の奔流はクロウを包み込んだ。


「実力差はそこまであるとは思えんさ。さっきの蹴りは痛かったが、もう食らっても問題ない。……それとも、あのお嬢ちゃんが君にかけてる魔法が、なんか関係してんのか?」


 ハーミットは己の剣を構え直し、同時に再び術式を展開する。


 だが、クロウの周囲には既にフェイの魂復魔法による淡い輝きが宿っていた。


「付与魔術と魂復魔法、似てるようで決定的に違うんだ。これはな、肉体の強化じゃない。魂そのものの活性化なんだよ」


「……悪いな。ちょっと学がなくてな。やってみて学ぶタイプなんだ」


 そう言いながら、ハーミットは迷いなくクロウに踏み込み、一閃の斬撃を放つ。その太刀筋は迷いがなく、鋭い。クロウの首筋を正確に捉えた――はずだった。


 だが。


 ガキイイイン――!


 鋭い金属音が鳴り響き、ハーミットの剣先はクロウの肉体を貫けなかった。


「な……っ!?」


「だから言ったろ、“もう終わってる”って」


 クロウは淡く微笑みながら、首筋に浮かんだ浅い切り傷を指先でなぞる。だが、その傷口は見る間に再生し、跡形もなく消えていった。


「魂を活性化させるっていうのはな、肉体もそれと共に引き上げられるってことだ。ほら、切られたそばから再生が始まってる」


「なっ……!」


 ハーミットは思わず距離を取る。


「そして、これは魔対だ。私の魔法も披露しよう」


 クロウは自らの身体に魔法術式を展開する。淡い光の文字列が、体の周囲に絡みつき、その肉体をさらなる極限へと引き上げる。


「ただの付与魔術じゃない。これは肉体強化というより、肉体・骨格・神経に作用する自動プログラムのようなものだ。一度起動すれば、もう加減が利かなくなる」


 そう言い終わると、クロウはひとつ深く息を吐き――踏み出した。


 ドンッ!


 その一歩で、地面は爆音と共に大きく抉れ、砂埃と破片が舞い上がった。


「……いくぞ、“剣聖”」


 静かに告げる声は、戦場に響く凶兆の風だった。




 天と地が反転した。




 突如として視界が回転し、目の前に広がっていたはずの大地が遥か頭上へと移動し、代わりに青く澄んだ空が足元を占める。


 意識が追いつかず、状況の変化を理解する前に、自分の足が地を踏んでいないことに気がついた。


「――足元が……無い!?」


 宙に投げ出された感覚。踏み込みも、踏ん張りも、何一つできない。ただ空間に投げ出され、重力の手のひらに弄ばれるように漂う己の体。それが今の自分の状態だった。


「ここは……空か」


 ハーミットは眉を寄せ、急速に意識を過去へと遡らせる。なぜ自分がこんな状況に置かれているのか。記憶の糸を手繰っても、直前の出来事が曖昧で、まるで断片しか浮かばない。


 ――確か、クロウが自分に術式を解放し、そのまま間合いを一気に詰めてきた。


 間髪入れずに剣を振るう。


 が、それは初撃はクロウの手に素手で受け止められ、続いて放った水刃魔法も何の意味も為さなかった。


 続けてクロウは剣をハーミットへ振り上げる、動揺したハーミットはガードをしたが、あまりの胆力に剣は大きく弾かれた。


 次の瞬間、さらに急接近したクロウによる顎へと叩き込まれた掌底。そして上へ蹴り上げられたのだ。


 ハーミットはまるで砲弾を食らったような衝撃に意識が途切れた。



 もしビクトリアの支援がなければ、その一撃で意識を完全に失っていたことは間違いない。


「……くそっ、二度も気絶するなんて、情けねぇ」


 歯噛みしながら、落下する己の体を制するべく、咄嗟に風魔法を展開する。


 手をかざし、周囲の空気を捻じ曲げ、脚からも魔力を放出。


 全身を包み込むように風の渦を作り出すと、そのまま【風飛翔】を発動した。風が体を支え、宙に浮かぶことを可能とする。


 ようやく制御を取り戻し、下方を見下ろすと、懐かしい街並みが遠くに広がっていた。



 遥か下には、小さく映るビクトリアと、少し離れた場所に立つフェイの姿。だが――


「……奴はどこだ?」


 クロウの姿が見当たらない。辺りを必死に探すも、どこにもいない。焦燥が胸を締め付ける。

 その時だった。突如、耳元に響く魔法通信。


『上よ! 上を見て!!』


 ビクトリアの声だ。即座に視線を上空へと向ける。

 途端に、そこにいた。探し求めていた“それ”が。


「チッ、俺の十八番を……!」


 ハーミットの口から小さく舌打ちが漏れる。


 クロウが己の得意とする上空からの奇襲を、そのままやり返してきている。既にクロウは急降下し、その勢いを殺すことなく突き刺さるようにこちらへ向かっていた。


「蹴りが痛いのだったな」


 クロウの声が冷ややかに響く。

 その体が宙で反転し、落下の反動を利用して、脚へとさらなる加速を加えた。


「や、やめ――!」


 言葉が最後まで紡がれるよりも早く、衝撃。

 ハーミットの悲鳴すらも掻き消すほどの衝撃波が、宙に響いた。


 流星の如く、ハーミットの体は空から地へと叩きつけられた。


 その落下の衝撃は凄まじく、大地は音を立てて抉れ、巨大なクレーターが出現する。


 クレーター周辺には、パラパラと大きな土煙が立ちこめた。


「やはり貴方は強い人なんだな。普通なら、これで跡形もなく砕け散っている」


 クロウの声が、頭上から降ってきた。



 地面にめり込み、土埃を巻き上げる中で、ハーミットは辛うじて意識を保っていた。


 だが、体はもう指一本動かせない。まるで全身を鉛で固められたかのように、重く沈む。



「この付与魔術を教えてくれた大男はね、こう言っていた。“これは術式が体を動かすのではない。自分の本質そのものが、体に付与魔術としてプログラムされるのだ”と」


 その言葉は、どこか遠い世界の声のように響いた。


「クロウ!」


 フェイの声。

 彼女が駆け寄り、クロウの前に立つ。その瞳は驚きと困惑と、ほんの僅かな尊敬の色を宿していた。


「フェイ、私の姿はどう映った?」


 突然の問いかけに、フェイは一瞬面食らったが、すぐに真剣な表情で考え込み、答えを紡ぐ。


「……凄かったです。剣士相手に有無を言わせぬ徒手拳による攻防、人体をいとも容易く吹き飛ばす胆力、そして徹底した追撃。鬼神そのものの強さでした」


 その言葉に、クロウはふふ、と微笑む。


「ありがとう、フェイ。そうか、ならば私はまだ“殺戮者”ではないのだな」


「な、何を……はなして…やがる」


 泥と血に塗れた口をどうにか動かし、ハーミットは辛うじて声を発した。


 それでも、クロウは彼に覗き込むように顔を寄せる。


「さて、これでもう終わりでいいかな?」


「……は、ははっ……これでまだ、やれると思ってるのかよ」


 もはや握り締めていた剣も手放し、空笑いを浮かべながら、虚ろな瞳で笑うハーミット。


「ハーミット!」


 そこに、青ざめた顔のビクトリアが駆け寄ってくる。彼女の顔には、はっきりと涙の痕が浮かんでいた。


「貴女、ボロボロじゃない……私の、せいなのね」


「ち、ちげぇ……よ」


 否定しかけた瞬間、ビクトリアはその手を彼の手に重ね、力いっぱい握りしめた。


「私が、私が弱いばかりに……ごめんなさい」


 その瞳から、悔しさではなく、後悔の涙が溢れ落ちる。

 南大陸の闇を渡り、生死の淵を越えてきた彼女たち。しかしその経験が慢心を生み、強者を前にした油断と過信を招いたのだった。


「クロウ、そしてフェイ……だったわね」


 ビクトリアは涙を拭い、二人の方へと向き直る。


「私の負けです。この魔対、完膚なきまでの敗北」


 その言葉に、フェイは静かに頷いた。だが、その声音は責めるものではない。


「ビクトリアさん。貴女は焦りすぎたんです。貴女がもっと強くなるためには、まだ時間がある。皆で、強くなりましょう」


 その言葉に、思わずハーミットも苦笑した。


「……なんか、一番大人だな、お前」


 フェイは鼻を鳴らし、得意げに胸を張る。


「当然です。私はいつでもみんなの一歩先を行く大人なのです。こんな無茶な戦い方するクロウは、まったく子供っぽいんだから」


「ぐうの音も出ないな」


 クロウは肩をすくめ、笑いながら認めた。

 その瞬間、学院からの通信魔法が全員の脳裏に流れ込む。


『勝負あり。勝者、クロウ、フェイ・ベリアブル。精神は肉体と還ります』


 次の瞬間、四人と、それを観覧していた学生たちの意識が仮想空間から解放され、自身の体へと戻っていく。

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