第3章 part10 母と娘


 神国——その地下深く、幾重にも重ねられた結界と封印、そして絶対に破ることのできぬ重厚な鉄扉と膨大な術式ロックによって守られた、誰一人として侵入も、ましてや“脱出”も許されぬ監獄の奥底に、ひとりの女が静かに座していた。


 その名は、狂女王。


 神国においては、もはや隠すまでもない公然の存在として知られているが、その在り様は異質そのもので、彼女に対する信奉者も、支持する者も、この地には誰ひとり存在しない。それもそのはず、彼女が抱えるある理由により、人々は恐怖と忌避の念を抱き、決して近づこうとはしないのだ。


 だがその一方で、彼女の担う役割は神国にとって極めて重要なものだった。


“技術”


 多様な魔法を自在に操る彼女の能力はもちろんのこと、むしろそれらを逆手に取るかのような、魔法を拒絶する術式や、干渉を打ち消す特殊な結界術、対術式の研究を専門としていたのだ。その成果は驚異的であり、この世界において常識とされる技術体系を大きく凌駕する物質やシステムの数々も、彼女の手によって開発されてきた。


 たとえば、圧倒的な戦闘能力を誇る魔導アーマー《飛竜》や、戦術強化歩兵用の魔導スーツアーマー《鴉》といった兵器群は、すべて狂女王が基礎設計から開発、運用設計までを手掛けたものだ。さらに“プログラム”と呼ばれる、複雑かつ精緻な術式体系を内包した魔導技術は、都市の建設、膨大な防衛設備、さらには大陸間を繋ぐ巨大魔導通信網など、様々な分野に応用され、この世界の進歩を陰から支えてきた。


 もっとも、これほどの技術力を誇る神国ですら、すべてを門外不出にしているわけではなかった。それは、神女王自らが掲げる“世界の発展”という理念のもと、周辺諸国に対する技術支援が施され、実際に神国の魔導技術の提供によって、百年以上もの発展を遂げた国も少なくない。だが、それもまたすべて女王の掌の上。狂女王の手によるものである。


 そんな彼女は、一見飄々としており、どこか掴みどころのない人物であったが、その内心には恐るべき思想が渦巻いていた。彼女自身が、口癖のように言う。


「皆、滅ぶべし」


 すべての存在を滅ぼし、無に還すことこそが、世界の真なる姿だと信じているのだ。


 そんな狂女王が、この世で唯一、絶対的な信頼を寄せている存在がいた。


 それが、カゲハ。


 狂女王の右腕にして直属の部下、そして《鴉部隊》の隊長を務める女性である。


 そのカゲハが、今――変貌した己の姿のまま、鉄格子越しに狂女王の前に立っていた。不機嫌そうな面持ちで。


「戻せ」


 カゲハの放った第一声は、そのひと言だった。


 鉄格子一枚を隔てたその距離感は、まるでふたりの心の距離を映し出しているかのように絶妙だった。カゲハは黒のジャケットを羽織り、タイトなパンツを身に纏った姿で立ち尽くし、その姿を見た狂女王は、実に楽しげにニヤニヤと微笑みながら彼女を観察する。


「似合ってるじゃないか。いやぁ、娘ってのはいいもんだねぇ。服も色々あって目移りする」


 カゲハは腕を組んだまま鋭い目つきで狂女王を睨みつける。だが、狂女王はどこ吹く風と、さらに口を開いた。


「その服、ミランダのチョイスだろ?あの子らしいよ。ボーイッシュさと美人さが絶妙に引き立つ良いセンスだ」


 カゲハは思わず大きく息を吐き出した。ミランダと共に買い物をした、あの少しばかり気恥ずかしいひとときを思い出してしまったのだ。


「とにかく、戻る方法はあるんだろうな」


 問い詰めるように言うカゲハに、狂女王はあっさりと肩を竦めた。


「まあね。だが、すぐには無理だぞ」


 その言葉に、カゲハの眉間に皺が寄る。この異形の姿には、未だ慣れず、部隊の仲間たちもよそよそしい態度を取る。ミランダに至っては、何かにつけて付き添おうとし、レイに至っては、隠れて写真でも撮っているのではないかという気配さえ感じる始末だ。


「理由を聞こうか」


 怒りを爆発させる寸前の感情を押し殺し、カゲハは静かに問い掛けた。


 狂女王は、牢獄の壁に設置された巨大なモニターを指差し、そこに映像を映し出した。そこに映っていたのは、次元の狭間で飢餓神レ=イリスを相手に、容赦のない蹂躙を繰り広げるカゲハの姿だった。


「……っ! 見ていたのか。まさか、あのとき話しかけてきたのは……」


 カゲハは、あの虚無の狭間で耳にした狂女王の声が幻ではなかったことに愕然とする。


「そう。お前の“千里眼”も、私の与えたもの。そして“世界の掌握”もまた、私由来だ。女王のセカンドってのは、そういうものなんだよ」


 そう言って狂女王は、映像の中で虚無空間への宣告術式を放つカゲハの姿に目を細め「おお……」と感嘆の声を漏らした。


「これ、やりすぎだろ。世界の掌握をこんな使い方するなんて、私ですら考えなかった」


 映像の中、虚無が広がり、異界の存在すら呑み込む様子を目の当たりにし、狂女王は心底楽しげに呟く。


「だがな、自分の肉体と魂すら破壊した後にこれをやったのが問題だった。女王因子が、完全にお前を創り変える工程を強制実行するまでに至った」


「そうなのか……」


 狂女王は映像を止め、カゲハが徐々に砂と化していく様子で画面を静止させた。


「普通なら、ここまでしなければ、女王因子はカゲハという存在を再創造し、女王の肉体は魂へと還るはずだった」


 カゲハは、ずきりと頭痛を覚え、こめかみに手を当てる。


「つまり……」


 狂女王は再び映像を巻き戻し、カゲハが巨大な虚無空間を《世界の掌握》によって顕現させた場面を映し出した。その顔は明らかに高揚しており、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


「調子に乗りすぎた」


 カゲハは額に手をやり、己の愚かしさに内心で舌打ちした。


「で、これ……どうすればいい」


 そう言いながら、自身の体を指差す。長く流れる髪、しなやかに引き締まった体つき、元の肉体よりわずかに小柄になった身長。ふと足元を見下ろしても、自分の足先がよく見えない。


「まあ、時間が経てば、戻るとは思うよ」


 狂女王は、さして気に留める様子もなく、軽く答えた。


「どのくらいだ」


「さあな。前例がないから、答えようがないだろ」



 狂女王は顎に指を添え、しばしカゲハの姿を見つめると、ふっと肩をすくめるようにして呟いた。


「まあ、私の見立てでは、その因子の流れを読む限り……一カ月ほど、だろうな」


「いっ……一カ月……」


 カゲハはガクンと肩を落とし、目を伏せた。思わず天を仰ぎ、重々しく溜め息を吐く。たかが数日、長くとも一週間程度と踏んでいたのだ。まさか、こんな異形の姿のまま一カ月も過ごさねばならないなど、夢にも思わなかった。


「休暇だと思えばいい。もっとも、その間は国の管轄外での行動は禁止。もちろん任務も、一切なし。何もするな」


 狂女王はそう言い放ち、まるで停職処分を言い渡す上官のような声色だった。


「一カ月も働きもせずに、何をしろと……」


 重く沈んだ声でカゲハはそう呟いた。張り詰めた日々が当たり前だった彼女にとって、行動の自由を奪われ、己の存在理由すら希薄になるような状況は想像以上の苦痛だ。心底、憂鬱そうに肩を落とし、再び深いため息を吐く。


「ふむ、ではおあつらえ向きのがある」


 狂女王はニヤリと笑い、右手の指先に光の粒子を集めると、それを一筋の光線として弾いた。その光はカゲハの携帯端末に命中し、画面が一瞬強く輝いた後、新たな情報が浮かび上がる。


 カゲハは眉をひそめ、端末の画面を睨むように覗き込んだ。そこには、神国が国外に所有する特別領土の情報と、そこで行われるある行事の詳細が記されていた。


「……なるほど、たしかに、私向きではあるな」


 そう呟くカゲハの声に、狂女王は満足げに唇を吊り上げる。


「だろ?ぴったりだと思った」


 しかし、カゲハの表情は再び曇り、その顔に影が差す。ゆっくりと息を吸い込み、今夜何度目かわからない深いため息を吐いた。


「はぁ……」


「どうした?あまり乗り気じゃないのか?」


 狂女王は不思議そうに首をかしげながら尋ねる。


「いや……問題は、そこじゃない。そこに滞在するってことは、“準備”が必要になるってことだろ」


 カゲハの言葉を聞いた瞬間、狂女王の表情が悪戯好きの子供のようにニンマリと歪む。そして、ポンと軽く通信機のボタンを押した。


「おい、やめろ!」


 その動作に嫌な予感を察したカゲハが即座に鉄格子へ手を伸ばし、掴んだ。しかし牢獄の鉄格子はびくともしない。


「あ、もしもし〜ミランダちゃ〜ん?うんうん、急でごめんねぇ。特別任務をお願いしたいのよ。あなただけに頼みたいの」


 狂女王が通信機越しに楽しげに話しかける。その内容を聞いたカゲハは思わず鉄格子を両手でガシャンと揺らした。


「いいっ、自分でやるから!勝手に決めるな!」


 必死に声を上げるカゲハだったが、狂女王は全く意に介さず、にやにやと笑いながら続ける。


「うん、そう。服とか雑貨とか、長期滞在用の一式ね。本人連れて行って、しっかり揃えてきて欲しいのよ」


「くそっ……壊せるかこれ」


 カゲハは意を決し、己の掌に《世界の掌握》の術式を展開、鉄格子ごと通信機を破壊しようと力を込めた。


 だが、次の瞬間、ペチンと弾かれるように術式が弾かれる。狂女王が既に発動していた《世界の掌握》による防護に、カゲハの力はあっさりと遮断された。


「はい、では女王の面会はここまでっ!じゃ、頑張ってねぇ」


 狂女王は楽しげにそう告げると、パチンと指を鳴らす。その瞬間、カゲハの身体は突如として見えない力に引き寄せられ、猛烈な勢いで牢獄の外へと吹き飛ばされた。


 鉄格子が瞬時に開き、壁や結界が次々と開かれていく。その度にカゲハの体は弾丸のように通路を突き抜け、地上を目指して駆け上がっていく。閉ざされた牢獄の内部が一瞬で遠ざかり、凄まじい速度で外界へと送り出される。


 そして気が付けば、カゲハは鴉部隊の隊舎の一室に立っていた。まるで時間と空間を飛び越えたかのような感覚に、しばし呆然とした。


 すると、その肩にぽん、と軽い衝撃が走る。


「たーいちょ!」


 振り向けば、そこには満面の笑みを浮かべたミランダが立っていた。キラキラと輝く瞳は、まるで宝物でも見つけたかのように期待に満ち、すでに次なる任務の準備に胸を躍らせている様子だった。


「任せてくださいっ、この私にっ!」


 ミランダは自信満々に胸を張り、親指を自分に向けて突き立てる。


 対するカゲハは、天を仰ぐようにして遠い目をした。運命を諦めた者の顔で、ただ静かに溜め息を漏らす。


「……はぁ」


 その深い溜め息の音は、隊舎の中に妙に長く、虚しく響いた。

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