第4話 ダビデとウイロウ
台所シリーズ 第2部 『台所はせかいをかえる』 長旅編
第4話 ダビデとウイロウ
記憶のピースは、本当に変なところに食い込まれている。
1 ぺん
北海道のブラックアウト。
スマホが使えず、信号も消えて、冷蔵庫の中身が気になった。でもそんなの、いまはどうでもいい。あのときは、それを家族にまかせていた。
あの日、一歳をすぎた凛は、はじめてアイスの味を覚えた。
おっとはアイスを食べすぎて、お腹をこわした。
数年後。
名古屋のコメダ珈琲で、ダビデと出会った。
彼は、まるで異国の王子様のようだった。
流暢な日本語に、私は思わず見入った。
「ウイロウは食べたことがありますか?」
私が首を振ると、彼は頬杖をついて、少し微笑みながら言った。
「名古屋に来たなら、一度は試さないと、ね」
その日、私はペンをなくしてしまった。
たいしたことではないはずなのに、何かが少しずつずれていく感覚があった。
──あれは、響香からもらったペンだったからだろうか。
カフェで注文をすませ、手持ち無沙汰のまま、テーブルの木目を指先でなぞる。
さっき、隣の席では、同年代の女性たちが娘の進学先の相談をしていた。
話し声が遠のく中、「郷に入っては郷に従え」と心の中でつぶやく。
席に戻る途中、ふと立ち寄ったトイレの鏡の中の自分は、妙に疲れて見えた。
たかがペンひとつで、こんなにも心がざわつくのは、なぜだろう。
名古屋の街はにぎやかだった。
あの、すべてが止まった北海道の暗闇とは、まるで違っていた。
ラックアウトの夜、私も、まずペンを探した。
たとえ見えなくても、ひらがななら書けた。
おうとうできない。れんらくとれない。ゆうせんじゅんい──
①かくにん②スマホのざんりょう③あとで、④ほじょでんげん……
ホワイトボードのペンが出ないだけで、あんなに冷や汗をかいた、あの日のこと。
2018年9月6日──
ホワイトボードは、あっという間に、ぎっしり埋まった。
「ぺん、ぺん、ぺん……」
「亀田課長が言った、優先順位だ」
「あ、新しいペン、あった……!」
電話のコールが鳴る。
北広島市では、結果的に断水にはならなかった。
しかし「いずれ断水になるのではないか」という不安から、水道施設には携帯電話での問い合わせが殺到した。
「断水は、いつおこるんですか? 父親が重篤で、断水になると困るんです……」
「赤ん坊がいるのですが……断水は?」
「水は出るんですけど、トイレの水だけ出ないのは、なぜですか?」
切迫した声が次々に飛び込んでくる。
広報車も、たしか5台ほど出動していた。
市民は不安のあまり、お風呂のバスタブに水をため始めた。
その結果、排水量は一時的に約4倍に跳ね上がった。
電話応対が一段落したころ、遠くから亀田課長の声が飛んだ。
「伸子くん、ガソリンは入ってるか?」
「はい!」
「動ける車、ホワイトボードに書いといてくれ」
「はい」
ホワイトボードには、すでにびっしりと文字が並んでいた。
「市民会館:発電機作動」
「携帯電話は車で充電可」
「駅前マンション:未確認箇所」
「地震被害状況、配水車……」
気がつくと、朝からなにも食べていなかった。
そのとき、えりちゃんが差し出してくれたおにぎり。
塩気がちょうどよくて、おいしかった。
「ビックハウスの駐車場にできた臨時店舗、すごい列で……結局、なにも買えませんでした。でも、セイコマが自家発電でおにぎり握ってるって聞いて、なんとか少しだけ買えました。伸子さんも、一つどうぞ」
2 名古屋コメダ 2022年秋の有給休暇
時は、また、名古屋のコメダ。
北広島市にこにこ水道事務所から電話が来た。スマホを再び見る。
2022年11月21日。
あのときのおにぎりを思い出す。
「えりちゃん……」
「ウイロウ、買って帰らなくちゃ」と、伸子は独り言のようにつぶやいた。
その後ろの席に座るダビデは、静かにその一部始終を見守っていた。
ダビデが口を開いた。
「僕も、ウイロウ、買いに行きたいです。一緒に行きたい。あなたと。」
もじゃもじゃ頭の“もじゃもじ”が、にやにやしながら言う。
「いいんじゃないか。ウイロウ、いっしょに買ってきたら、いいじゃないか」
──二人で?
……それは、もういい。一人旅は、十分に満喫した。
伸子は洗面所に行き、かばんの中からペンを探した。
昨日、ゆっくり見られなかった水道資料館にも行こうと決める。
もう、英語はやめた。日本語で、だ。
「郷に入っては郷に従え」
──と、心の中でへんな理屈をこねて、きっぱりと日本語でウイロウの買い物を断ることにした。
「ごめんなさい。せっかくのお誘いなんだけど、
私、今日は水道資料館に行って、それから名古屋に帰らなければならないんです。
ウイロウは、空港で買います。
あなたは、だれかに聞いて、名古屋の老舗で買うといいと思います。
きっと、だれかが教えてくれると思いますよ。」
コメダ母親会談中のAとBに視線をやる。
──自分でも、なかなか、きっぱり上手に断れたな、と思う。
バトンをAとBに渡すようなトークができた。
一単語、一単語、しっかり区切って。
幼児でも十分聞き取れる速さで。
バトンを受け取ったAとBも、まんざらでもない顔をしていた。
ようちゃんも、「君、なかなかやるね」って顔をしてた。
……ところが、ダビデは、少し得意げに、まるで福山雅治の声で言った。
「水道資料館、今日、お休みですよ。
iPadで確かめてごらんなさい。検索ワードは、“名古屋水道資料館”が早いですよ。」
私は、また、ピエロになった気がした。
せっかく日本語で堂々と断ったというのに、着地に失敗。
慌ててiPadを取り出そうとしたそのとき──
すでにようちゃんが、ちゃっかり調べてくれていた。
「ダビデの言うとおりだ。今日は、休みだね、その水道資料館。」
そして、追い打ちをかけるように、こう続けた。
「あなた、本当に日本人?」
……まったく、失礼なことを言う。
まるで、亀田課長のような人だ。
仕事はできる。でも、失礼なことをズバズバ言う。あの課長のようだ。
いなきゃ困るけど、近くにいるのは……いやだ。
コメダのコーヒーを飲むときは、別のテーブルに座ってほしい。
Aが、声をかけてきた。
「ウイロウのお店、案内しましょうか?」
(もういい。ピエロでいい。バトンを渡そう。席を立とう。)
「お忘れですよ。大事な、iPadでしょう?」
──また、さっきの言葉がリフレインした。
「ありがとう。さようなら。」
三重奏王子・ダビデが、まっすぐに言った。「ありがとう。」
伸子が「グッバイ」と言おうとしたそのとき──
びっくりして、テーブルの角に足をぶつけた。
ダビテが、
あの“きゅんちゃんのペン”を手に持ち、
ワイパーのように、右、左に振っているではないか。
──草彅剛くんみたいな、さわやかで、屈託のない笑顔。
白いシャツが、何より似合う。
石けんの匂いまで、届きそうだった。
それも、アラビア製の、初めて知る香りだった。
「いたい。」
また、三重奏王子・ダビテが言った。
「大丈夫?」
(もう、大丈夫じゃない。)
「私、お手洗いに行ってきます。」
そう言って、バッグも、iPadも、テーブルにひろげたまま、
さっき行ったトイレに、また、向かった。
トイレで、鏡を見た。
──当たり前だけど、朝の自分と変わらない。
「ふう……」
深呼吸した。もう一度、鏡を見る。
誰もいないのを確かめてから、スマホを取り出した。
誰かにLINEしようか……。
──そういえば、響香が言っていた。
「朝食の写メ、送って」って。
響香のLINEページを開いた。
朝食の写真が、そこにないことに気づいた。
そして──あのペン。
どうしてダビデが持っているの?
どう頭を整理しても、わからなかった。
英語で聞くなら、どう聞けばいい?
そう考えた途端、(なぜ英語にしようとするのか?)と、またさっきの自問迷路に入っていく。
──“郷に入っては郷に従え”。
背筋を伸ばした。
「……でたとこ勝負だわ。」
結局、何一つ整理もつかないまま、席へと戻った。
伸子の席は、まだ空いたままだった。
けれど、ダビデの隣には、Aがいた。
Aは、まるでずっと前からの友達のように言った。
「いっしょに、ういろう買いに行きましょう。これも、縁ですから。iPad、貸してくださる?」
断れず、「どうぞ」と差し出した。
──“NOBUKO”と入れてある、娘がアレンジしてくれたカバー。
品のある桜が、まるで家紋のように描かれている。
「のぶこさんっていうの?」
「はい。」
「素敵なカバー。」
「娘が作ってくれたんです。ペットボトルのフタを、溶かして作るんですって。」
「まぁ、素敵な技法。工芸家?」
「いえ、幼稚園の先生です。」
ようちゃんが、通訳しなくていいのに、ダビデに通訳している。
ダビデは、「伸子の娘さんは、幼稚園の先生なんだね」と言った。
──はい、と言えばいいところを、「イエス」と言ってしまった。
また、ダビデのペースになっていく。
「伸子のファミリーはすごい。幼稚園の先生なら、イギリスのダイアナ妃と一緒だ。」
Bが、ふと思い出したように言った。
「そうだったわ。幼稚園の先生だった。私、まだ17、18のころよ。」
──よその国の女王だけれど、憧れのまなざしで見てた。
きれいな女王の写真。
それを思い出した、Aも、Bも、伸子も。
「よく覚えてるな、女子は。」
ようちゃんが、つぶやいた。
ようちゃんは、まとめにかかった。──まるで亀田課長みたいに。
「行くの? 行かないの? ウイロウ買いに。
どっちでも、僕はいいけど、行かないなら、今すぐ“行かない”って手を挙げて。
1、2、3、はい、決まり。みんな行く。
ここは、僕がおごる。」
そう言って、2枚の伝票をレジへ持っていった。
AもBも、最初は──水も知らぬもじゃもじゃにおごられるなんて──と躊躇したが、
「かっこつけさせてよ。会社で自慢話したいから。頼むよ」
そう言われて、しぶしぶ、でも少し笑いながら、AとBと一緒に声をそろえた。
「ごちそうさま。」
ダビデも、「ごちそうさま」と伸子と声を合わせた。
もじゃもじゃは、しっかり領収書をもらっていた。
「“名古屋店”って書いてあるやつにしてくれよ。札幌から出張で来たんだから。」
──本当に、亀田課長に似てる。あのもじゃもじゃ。
法事まで出張経費で落とされたら、たまったもんじゃない。
……そんな、どうでもいいことまで、考えてしまう。
自分の思考回路が、わからなくなる。
そう。ペン。──ペン。ペン。
キュンちゃんのペン。
……なんで、ダビデ、あなたが持っているの?
返してほしい。お願い。
小走りに、少し離れていたダビデの横へと急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます