「台所はせかいをかえる」 ( 台所シリーズ 第2部 長旅編)

朧月(おぼろづき)

第1話  名古屋の風と四間道の叡智~イントロ

台所シリーズ 第2部 『台所はせかいをかえる』 長旅編

第一話 名古屋の風と四間道の叡智~イントロ


1 蔦屋書房の駐車場


「あんなに暖かったのに、急に冷え込んだわね。旭川あたりなら、初雪かもね。」


蔦屋書房の広い駐車場の車も、まばらになって、すっかり、暗くなっていた。

大きなレンガの倉庫を思わせる蔦屋のたてもの3棟の窓からこぼれる照明さえもまぶしい。


「一緒に、開けようと思っていたのだけど、これ、お土産。ゆっくりあけてね。名古屋のだけど。」


「ありがとう。またね。今度、旅の話をゆっくり、聞かせて。ナゴヤドームからだね。」


響香は、箱を大事そうに助手席にそっと置き、そのまま車に乗りこんだ。


響香とわかれて、伸子は愛車の軽自動車に乗り込む。


ヘッドライトをつける。秋の日暮れははやい。


たん、たん、たん、たん――。

ピアノの和音が、伸子の車のスピーカーから流れる。


そろそろ、雪虫の季節だ。


雪虫は飛ぶ力はほとんどないという。

風まかせにふわりと飛ぶ、儚い命。わずか、七日ほど。オスは口もなく、メスも卵を産んだあと、そっとこの世を去る 

人のぬくもりにも耐えられず、光に舞い、消えてゆく。


そんな雪虫がライトに舞う。


ちいさなものたちの、そんな話に、悲しみがそっと、胸にこみあげていく。



2 「助手席の声」


おととしの秋、伸子が一人でいった、桑田佳祐さんのコンサートの終盤の曲


『白い恋人たち』(2002年)


空いた助手席に、まるで響香のかわりに桑田さんの声が座っているような気分だった。

響香の車の後をわずかにすすんで

ウインカーの音が桑田さんの声に交じって左折する。

朝から、響香といたのに、

結局、旅の話は、ひと言も奏でられないまま、終わった。


旅のイントロは、なんだったのだろうか?


伸子は、数人を乗せたバスの後ろについて走っていた。

ふと目に入ったのは、「元町」というバス停の名前だった


🎵あの赤煉瓦の停車場で、

二度と帰らない誰かを待っている🎵


スピーカーからさっきながれた光景がひろがっているように思えた。


そして、名古屋にも、横浜にも、同じ名のバス停があったことを思い出す。


プラタナスの街路樹の横を行くと、なぜか、その次のバス停の名前も、急に気になった。

「牧場東」――この北の町、江別も、そういえばレンガの町だったなと、伸子はあらためて思う。


そのバス停のほうから、助手席の小さな隙間を通って、ひんやりとした風が差し込んだ。

あのときも、まるでこの助手席に、本物の「白い恋人」とやらが、手袋をして、いきなり乗り込んできたような――そんな旅のはじまりだった。


3 「2022年・秋の名古屋」~初めての一人旅


あの日のことを、思い出した――2022年11月21日、名古屋。

伸子は、まずは、名古屋旅行を懐かしく思い出していた。

それは、彼女にとっての長旅の序章に過ぎなかったのかもしれない。


2022年11月21日。


ほんの少しの不安と、それを上回る期待が胸いっぱいに広がっていたあの日。

伸子の一日は、「六五歳の特別な一日」として刻まれた。初めての一人旅。その一歩を踏み出した瞬間から、彼女の人生は新たな章へと静かにめくられていった。


 長女が手配してくれた飛行機のチケットを手に、心の中で何度も感謝の言葉を繰り返す。


「お母さん、好きなことをしなよ。」


その一言が、まるで背中を押す風のように伸子の心を吹き抜けていった。


 千歳空港で働く長女・加奈。

その駐車場で聞いた「いってらっしゃい」のひと言が、搭乗前の待合席で何度も思い出された。


 早めに搭乗ゲート10の待合席に腰を下ろすと、思いのほか時間があり、手持ち無沙汰だった。

「イヤホン、持ってくればよかった……。あんなにシミュレーションしたのに。」


名古屋空港を降りたときから、一人で歩く名古屋の街の音に、胸の鼓動が連動していった。 


名古屋城の「金鯱の間」に足を踏み入れた瞬間、その時の沈黙。

天井一面に広がる絵が、伸子を未知の空間へと誘ってくれた。

どこか異世界に迷い込んだような錯覚に包まれ、これまでの人生さえ、一瞬忘れてしまいそうだった。

 

 

イヤホンを忘れたことを悔いたのは、あの千歳空港の待合席だけだった。


 名古屋城を後にした伸子は、足を四間道(しけみち)へと向けた。

江戸時代の面影を今に伝える町並み。木造の建物や白壁が静かに佇み、時間がゆっくりと巻き戻されていくような感覚が、伸子を包んだ。



4 「四間道のトナカイ」 と 「100万年の幸せ!!」


四間道で、ふと通りかかったガラス工芸店。中に入ると、色とりどりのガラス細工が光を浴びて輝いていた。その中から伸子の目に止まったのは、小さなトナカイのガラス細工だった。冬の季節にぴったりのその形は、伸子の心を温かく包み込む。「これ、響香にぴったりかも」と思いながら、そのガラス細工を手に取った。


ふと、かつて娘たちと一緒に訪れたサザンのコンサートのことを思い出す。響香も誘ったあの日、その瞬間が、まるでガラスのように透明に輝いていた。


そして、日没後にコンサート会場名古屋のバンテリンドーム ナゴヤ(旧ナゴヤドーム)にむかった。いつもは、同行する娘たちも、今夜ははいない。

初めて一人で会場にむかった桑田佳祐さんのコンサート。

あの、ステージに光が差し、音があふれた瞬間。

「お互い元気に頑張りましょう!」を全身で受け止めた。


そして、翌朝の渚ホテルを出た瞬間からすべてがはじまった。


恋をしたわけではない。でも、伸子の旅はまるで恋だった。

人でもなく、物語でもなく、この地球に恋をしたような——初めての感触のメロディーの風に流された。


「白い恋人達」に続いたコンサートのラストは、「100万年の幸せ!!」。

未来への旋律が会場を包み、胸にはやわらかな幸福の余韻が残った。


その余韻をそっと抱いたまま、伸子の新しい章は、名古屋駅の人波の中で静かに幕を開けた。








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