星屑の境界線

坂倉蘭

星屑の境界線

 街は夜の帳に包まれ、ネオンの光がアスファルトに揺らめいていた。


 東京の片隅のライブハウスの裏口で、翠(ミドリ)は息を潜めて待っていた。


 17歳の高校生、翠は中性的な顔立ちとショートカットの髪で制服のネクタイを緩め、どこか少年のような雰囲気を漂わせていた。


 彼女の心臓は、推しのアイドルである星奈(せいな)のことを考えるたびに高鳴った。


 星奈は19歳でアイドルグループ「Stellaris」のセンターだ。その透明感と力強い歌声で数万のファンを魅了していた。


 翠にとっては、星奈はただの憧れではなく生きる理由そのものだった。


 翠の推し活は誰よりも、熱かった。


 ライブの最前列を確保し、握手会では毎回最長の列に並びSNSでは「ミド」というハンドルネームで熱心な男性ファンとして振る舞っていた。


 星奈の好きな色、好きな食べ物、好きな映画――翠は彼女のすべてを記憶し、まるで星奈の一部であるかのように生きていた。


 だが、翠には秘密があった。


 彼女は女の子だった。


 男性ファンとして振る舞うことで、星奈との距離を縮めようとしていたのだ。


 それはアイドルとファンの間に引かれた見えない線を、少しでも越えたいという切ない願いだった。


 ある日、運命が動いた。


 星奈の公式Xアカウントが「ミド」宛にDMを送ってきたのだ。


「いつも応援ありがとう!ライブ後のオフ会、来てくれる?」


 翠の手が震えた。


 オフ会は、選ばれたファンだけが参加できる特別なイベント。


 翠は迷わず参加を決め、鏡の前で何度も自分の姿を確認した。


 カジュアルなシャツにジーンズ、キャップを深くかぶり声のトーンを少し低く調整。完璧な「美少年」に仕上げた。


 オフ会当日、星奈は想像以上に近くにいた。


 小さなカフェの個室、テーブルを囲む数人のファンの中で星奈は翠の隣に座った。


「ミド君、いつもXで面白いコメントくれるよね」


 星奈が笑顔で話しかけてきた。翠の心臓は爆発しそうだったが、冷静を装う。


「星奈ちゃんの歌、ほんと最高だから」と低めの声で答えた。


 星奈はくすっと笑い、「ミド君って、なんか不思議な雰囲気あるね。もっと話したいな」と囁いた。


 その瞬間に翠は確信した。この距離を縮められる、と。



 それから、翠と星奈の交流は増えていった。


 オフ会後のDMでのやり取りが続き、星奈が個人的に会いたいと言い出したときは、翠は現実が夢に変わった気がした。


 二人きりのカフェでの会話や夜の公園での散歩、星奈のプライベートな愚痴や夢を聞くたびに翠の心は星奈で埋め尽くされた。


 だが、翠は「ミド」として振る舞い続けなければならなかった。


 星奈が「男の子の友達」として心を許している以上、女の子であることを明かせばすべてが終わるかもしれない。


 ある夜、星奈が葵を自宅に招いた。都心の高層マンションで星奈の部屋はシンプルだが彼女の香水の匂いが漂っていた。


 翠は緊張で息が詰まりそうだった。


 ソファに並んで座り、星奈が言った。


「ミド君、なんかさ、普通のファンと違うんだよね。もっと…特別な感じがする。」


 その言葉に翠の理性は揺らいだ。


 星奈の手が翠の手に触れ、ゆっくりと顔が近づいてきた。


 翠の唇に星奈の柔らかい唇が重なった。


 時間は止まり、翠の頭は真っ白になった。アイドルとファンの禁断の線を、彼女たちは越えた。


 キスは一度では終わらなかった。


 星奈の部屋に通う夜が増え、二人の関係は深まっていった。


 翠は「ミド」として星奈のそばにいる幸せを噛みしめながらも、秘密を抱える罪悪感に苛まれた。


 星奈は翠を「特別な男の子」として信頼し、時には涙を見せ、時には抱きついてきた。


 翠は星奈のすべてを受け止め、愛おしさと恐怖が交錯する日々を送った。


 そして、運命の夜が訪れた。


 星奈の部屋で、いつものように二人はソファに寄り添っていた。


 星奈の目がいつもより熱を帯び、翠の手を強く握った。


「ミド君…私、アイドルとしてこんなことしちゃダメなのに。だけど、君のことがほんとに…」


 星奈の言葉が途切れ、彼女は翠のシャツのボタンに手をかけた。


 翠の心臓は限界まで高鳴り、頭の中で警鐘が鳴った。


 このまま進めば、翠の秘密は隠しきれなくなる。


 だが、星奈の熱い視線と柔らかい手は 翠の理性を溶かしていた。


 星奈の手が翠のシャツを脱がせ、胸元に触れた瞬間に時間が凍りついた。


 星奈の目が見開かれ、翠の身体を凝視した。


 そこには、男の子にはない女の子の身体があった。


「…え?」


 星奈の声が震えた。


 翠は言葉を失い、ただ星奈の顔を見つめた。


 星奈の表情は驚愕から混乱へ、そして何かに気付いたような複雑な色に変わった。


「ミド…君、女の子…?」


 星奈の声は小さく壊れそうだった。


 翠の目から涙が溢れた。


「ごめん…星奈ちゃん、言えなくて…でも、私は君が大好きで…大切で⋯」


 言葉は途切れ、翠は立ち上がり逃げるように部屋を出ようとした。


 星奈が葵の手首を掴んだ。


「待って、ミド…いや、…翠?」


 星奈の目は涙で潤み、混乱と愛情が混ざり合っていた。


「私、この気持どうしたらいい…?」


 部屋に沈黙が落ちた。


 翠の心は引き裂かれ、星奈の目は答えを求めていた。


 二人の間にあった星屑のような輝きは、衝撃の事実によって砕け散った。


 翠は一歩踏み出すべきか、すべてを諦めるべきか決められなかった。


 星奈の手はまだ翠の手首を握ったままだった。


 そして、物語はここで終わる。


 二人の未来は、誰も知らない。

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