第4話エスコンフィールドの手前で ~世界で一番すてきなところ
台所シリーズ 第1部「台所でせかいをかえる」ただいま編
第4話 エスコンフィールドの手前で ~世界で一番すてきなところ
北海道ボールパークFビレッジ(エスコンフィールド)。
2023年3月に開業したこの球場は、この町の長年の悲願として誕生した。
響香が初めてこの球場を訪れたのは、開業から7週間ほど経った頃。WBCの熱狂が、まだ冷めやらぬ春の終わりだった。
もともとは札幌に建設される予定だったが、地元住民の反対にあい、計画は頓挫。
そこで、隣接する北広島市に目が向けられた――。
それは、最初こそほんの数人の夢のような思いつきにすぎなかった。
だが、やがて地元住民の熱意ある誘致運動へと育ち、実現へと至った。
地元紙『北海道新聞』、通称「道新」は、この構想を計画段階から見守り、数年にわたって報じ続けてきた。
当初は“奇想天外”と冷笑された球団の夢。
その夢が“受精”し、着床し、芽吹いていく過程も、道民にリアルに伝えられてきた。
そして今、世界に誇る球場ができて、二度目の秋が訪れている。
「世界に誇る」というのは、決して大げさではない。
球場内には、試合や練習を眺めながら入れる温泉がある。
グラウンドを一望できるホテルの部屋やコテージも備えられている。
スタンドには、この球場をホームとするチームの名選手たちの大きな肖像画が掲げられている。
なかでもひときわ目を引くのが、大谷翔平選手とダルビッシュ有選手の姿だ。
二人のまなざしが、観客席を静かに、そして力強く見つめている。
野球に詳しくない人でも、日本人なら誰もが知る存在。
彼らを導いた10人の選手とともに、肖像は球場の内壁にふさわしく描かれている。
この球場に立てば、世界中の人々が彼らの瞳を見つめた、あの日のことを思い出すかもしれない。
自宅のテレビで見た、あの瞬間を――。
球場の起工式は2020年4月13日。約3年におよぶ工事の末、プレオープンは2023年3月14日だった。
そして、そのプレオープンからわずか1週間後――。
2023年3月21日、日本代表がWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝で
アメリカを3対2で下し、世界一の栄冠を手にした。
かつて野球少年だった日本の若者たちが、憧れだったアメリカ選手たちを打ち破った。
ドラマチックな試合展開。それは、日本野球に関わるすべての人にとって悲願の瞬間だった。
きっとあの日、世界のどこかで、はじめて「日本という野球好きの国がある」と知った子どももいたはずだ。
日本という国名を知り、初めて日本の漫画を手に取った子もいたかもしれない。
「にほん」「にっぽん」「ジャパン」――それがすべて、大陸の横にある小さな島国だと地図で知って驚いた子もいたに違いない。
「オリンピック? そういえば、いつの間に終わってたな」と思いながら、何気なくボールを転がしていた子が、
その日、“スポーツ”としてのボールに夢を知ったかもしれない。
――2023年3月21日。
8回のマウンドにはダルビッシュ有。
そして最終回、一点差を守る大役を任されたのは、大谷翔平だった。
2アウト、走者なし、フルカウント。
そこから放たれた鋭いスライダー。
それは、アジアの鎌となって、トラウトのバットを振り抜かせた。
バットは、大陸の稲穂のように、空を切った。
あの瞬間が、観る者すべてを一つにした。
この球場は、彼らの活躍を“予言”していたのだろうか。
――いや、むしろ“導いて”いたのかもしれない。
そして、2024年9月30日。
伸子は、WBCの試合も見ずに、エスコンフィールドのプレオープンからわずか4日後にあわただしく出た長旅から、ようやく帰ってきた。
球場はすでに町にすっかり馴染んでいたが、伸子の記憶には、建設中、空高くそびえていた大型クレーンの姿がまだ焼きついていた。
「クレーン車は、今、どこでどうしているのだろう」
そんなことを思いながら、25年通い続けている職場へと車を走らせる。
ああ、そういえば、旅立つ前にはすでに撤去されていたのだった。
それでもふと、今それを思い出したのは、きっと秋の空の色のせい。
そう気づき、カーステレオの音量を少し上げた。
帰宅途中、エスコンの横を通り抜ける。
新しくできた信号で停まるのは、これで二度目。
前を行く二人乗りの自転車。そのうちの一人は、前かごにダウンジャケットを入れていた――まだ、暑かったのだろう。
サザンオールスターズの桑田さんの声が流れる。
♪ 風に戸惑う弱気な僕~と 通りすぎる~♪
♪ 好きなのに泣いていたのはなぜ? 思い出はいつの日も…雨 ♪
曲が終わるのを待ち、エンジンを切ると、足早にスーパーへと向かう。
それが、2024年9月30日のことだった。
スーパーに入った瞬間、買い物客の一人が近づいてきた。
「ひさしぶり!」
女性の声に、思わず足を止める。
「あら、元気だった? 刺田さん」
名前がすぐに出てきて、心の中で少しほっとし、そしてまた戸惑う。
刺田さんは、かつての“ママ友”。
お互いの家を何度も行き来した間柄だったが、伸子にとっては、どこか苦手な相手でもあった。
変わらぬ調子で、腰の痛みや家族のことを一方的に話し出す。
そして、唐突に「暇?」と聞いてくるだろうと、予感した。
伸子が返答を考えていると、刺田さんは話を続けた。
「昨日の試合、残念だったわね。でも、初登板で初勝利の彼、めちゃくちゃかわいかった。
沖縄のお父さんとお母さん、私、見ちゃったのよ。あのボール、沖縄に行くんなら……いい最終戦よね」
どうやら球場の売り場で見かけた感動秘話を話したかったらしい。
その会話の中で、伸子は、刺田さんがエスコンでパートを始めていたことを知る。
刺田さんが専業主婦を卒業していたことも、伸子には意外だった。
スーパーを出ると、こないだ見かけた赤い自転車が、店先に停められていた。
フレームには、「ボールパークFビレッジ えふたん」と書かれた、ボールで遊ぶあどけない熊のシールが貼ってある。
あの信号待ちで通り過ぎていった赤い自転車は――刺田さんのものだったのかと気づいた。
「エスコンフィールドに行くときは、連絡ちょうだい。案内するわ」
刺田さんは、あいかわらずの明るさでそう言ってくれた。
エスコンフィールドの、まだ見ぬ庭がそこに広がっている。
本当なら、伸子はそこでガーデンボランティアをするはずだった。
遠い旅先から、画面越しにではあるけれど、ずっと見守ってきたエスコンフィールドの庭。
響香に旅のことを伝えることもなく、太平洋も大西洋も、静かに越えてきた。
まちの誰よりも早く、響香と二人で歩いて案内したかった、その庭のすぐそばを今日もまた通りすぎる。
けれど、足はそこに向かわない。
しっかりと約束したわけではないけれど――
響香に案内することのできなかったふたつの春。
その記憶の隣で、秋風が頬をかすめた。
伸子は二人でエスコンフィールドの庭を歩く様をただ想像した。
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