第1話




あの夏、蝉の声がうるさくて、私はよく図書館に逃げ込んだ。


冷房のきいた静かな部屋。誰とも目を合わせずに済む椅子。

窓越しに見える陽射しが、べつの世界のことみたいだった。


教室のざわめきや、家のテレビの音より、私は紙の匂いとページをめくる音が好きだった。

そうして今日も、何かから逃げるように本を開いていたけれど、文字はまるで頭に入ってこなかった。


「ここにいるのも、だんだん苦しいな」


小さく、口の中だけで呟いた。けれど誰にも聞かれる心配はない。

この席に誰かが座っていることを、他の誰も知らない。私は、透明な存在だった。


人は、いなくなるときも静かだといい。

誰かに止められることもなく、泣かれることもなく、ただ影のようにスッと。

気がつけばいなかった――そんなふうに消えていけたら、きっと楽だ。



その日の帰り道、夕焼けに染まったアスファルトの上を歩きながら、私は少しだけ息を止めてみた。

自分の存在がこの空気から消えてしまえばいい、と思いながら。


けれど息を止めたって、世界は何も変わらなかった。


電線の上で鳴く蝉も、遠くの坂道を走る自転車も、私がいようといまいと、変わらず進んでいく。

私は、誰かの記憶にすら残らない人間なのだろうか。


そんなことを考えていたときだった。

川沿いのベンチに、誰かが座っていた。ひとり。

白いシャツの背中が、なぜかとても遠く感じた。けれど、不思議と目が離せなかった。



――たぶん、あのときからだった。

私の「消えたい」という気持ちに、別の色が混ざりはじめたのは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る